3-16 禁断の雫、魔法姫の涙
首都から列車で一週間。熱く乾いた西の辺境に、推定三百年物の呪縛領が存在する。
月空魔城アーシハル。
呪縛領主は魔法姫コウガ。
権力と命に執着した父王が、もう充分だと、王位を譲ると、頼むから譲らせておくれとどんなに願っても、あらあらそんな、ご遠慮なさらず、どうぞ心ゆくまでお座りくださいと笑顔で答えた永遠の王女。
実の父が腐り果て、干からびて、端の方から少しずつ崩れて、無数の塵と化しても意識を残させ、玉座に在らせ続けた『人間の魔王』。
汚染され続けるドナ峡谷からは、今日も災いが発生している。
十六歳の天才少女魔術師、アーサ・ローウェルは、蒼月魔術協会に託された『鍵』とともに列車に揺られていた。
アーシハルの呪縛解放計画を、彼女の手で完遂するために。
だが、駅に到着したアーサを、さっそく最大の障害が待ち受けていた。
銀の瞳のお姫さま
遠いお城で泣かないで
最後の誓いを果たしたら
ずっといっしょにいてあげる
同じ車両のどこかで、幼子が楽しげに歌う声が聞こえる。
アーサ・ローウェルは目を閉じたまま、ことさらに眉根を寄せた。
(大きなお世話ってこのことね。泣いてるもんだと決めてかかってるなんて傲慢だわ……)
夢うつつの中で憤慨していると、遠い幻のような声がささやいた。
――いじっぱりだな。君はもっと素直になるべきだと思う。
(うるさい。過去の亡霊は消えて)
意識を浮上させながら荒々しく念じる。声は、ため息のような気配とともに消え失せた。
アーサは静かに緑色の目を開いた。
無人に近しい車両内に、ほのかにオレンジがかった遅い午後の陽射しが、いっぱいに入りこんでいる。
窓の外では、ぽっかりと広がる水色の空が輝く。
列車は、ドナ峡谷を見降ろす鉄橋の上を走っていた。
黄褐色と茶褐色が入り組む峡谷は、かなたまで無限に続く巨大な迷路だ。
熱く乾いた断崖のはざまを、黒く冷たい存在がゆるやかに進んでいく。
たなびく闇の霧につつまれ、ほの暗い輝きを放つ氷晶の城だ。
峡谷が、見えない水で溢れる水路であるかのように、何もない宙を漂っている。地形の流れに沿って向きを変えるだけで、確固たる目的意識は見当たらない。
月空魔城アーシハル。
黒い霧状の魔空間をまとった氷晶づくりの魔城は、三百年ものあいだ、ドナ峡谷をあてどなくさまよっている。
遠くから見るだけなら美しい。あの城から、災いの種が零れ落ちているのを知らなければ。
銀の瞳のお姫さま
遠いお城で泣かないで
最後の誓いを果たしたら
ずっといっしょにいてあげる
――ねえ、パパ、あのお城でしょう? あそこにお姫様、いるんでしょう?
小さな女の子が甲高く声をはずませ、しきりに窓の外を指差している。
ええ、そのとおりよ、お嬢ちゃん。
アーサは苦笑いを浮かべ、心の中でつぶやいた。
お姫さまはお姫さまでも『人間の魔王』コウガ姫だけどね。
音質の悪いスピーカーが、雑音まじりに終点のゴドワ駅への到着を告げた。
アーサは姿勢を正し、向かい側の座席に目を向けた。
ボックス席の片側、三人は座れる長さいっぱいに、細長い金属製の箱が置いてある。
指先をわずかに動かし、唇だけでひそかな言葉をつむぐ。
金の砂がこぼれるような音がして、守護の陣が解けた。
「……さあ、この任務、私が完遂してやるわよ」
女性の平均に比して小型すぎる旅行鞄を座席の下から引き出し、金属箱の両端についたベルトを肩にかける。
全長一メートルを軽く超える箱は、小柄なアーサには大きすぎる荷物だ。気合の声を出して担ぎなおし、もういっぽうの手で旅行鞄を持ちあげる。
ここまで自力で運んできたものだ、持てない重量ではないものの、かさばるがゆえの反動はいかんともしがたい。
車内のあちこちに旅行鞄と金属箱の前後をときおりぶつけながら、列車の通路を進んでいった。
乗降口にたどりつくと、目の前に黄金色の手が差し出された。
「お手をどうぞ、お姫さま」
灰銀の髪に黄金の肌をした長身の少年が、黒い瞳を細めて笑いかける。
秋のはじめだというのに、薄地のシャツの袖を肩までまくりあげ、しなやかな腕をむきだしにしている。
その腕も、襟元からのぞく首や胸元も、力感のある鍛えたラインを描いている。
顔立ちは穏やかで甘い。
まあたぶん、さぞかしもてるのだろう。だがアーサは彼に気を許す気は毛頭なかった。
「貴方なんて必要ないって言ったでしょう?」
「電話ではね。着く頃には必要になるかなと」
「なるわけないでしょ。何度言わせるの、ナギ・カンザ。あとお姫さまとかやめなさい」
「そっちこそ何度言わせるのさ。ナギって呼んでよ、俺もそしたらアーサって呼ぶよ、お姫さま?」
「上に敬意を持って魔術師をつけなさい。魔術師アーサ!」
「盾にしてくれるの?」
「どうしてそうなるの!」
「何だ。じゃあお姫さま」
「それはやめなさい……ナギ」
「はい。ではお手をどうぞ、アーサ」
にっこりと笑って再度さしだされた手を、アーサは無視して乗降ステップに降りる。
肩のベルトを引いてさばいたはずの箱が急に回転して真横を向いた。
乗降口につっかかって足元が狂い、ブーツの靴底が宙を踏んだ。
転げ落ちそうになったアーサの手を、ナギがすばやくつかみ、抱きとめた。
「危なかったね、大丈夫?」
心配そうな声が耳をくすぐる。アーサはカッと赤面し、ナギの手を振り払った。
ことの原因をつくった箱にもいまいましげな目を向ける。宝石のような緑の瞳が、呪殺する勢いで輝いた。
「その箱の中身が『鍵』?」
ナギは黒い瞳を輝かせて、いかめしい金属の箱を眺めている。彼の目には、厳重な封印を通しても、中身の放つ絶大な力が視えているのだ。
アーサはチッと、美少女にあるまじき舌打ちをもらすと、箱を背負いなおして歩き出した。
とたんに箱が重くなった。華奢な肩にベルトが容赦なく食いこむ。
一歩踏み出すたびに重さが増す。右に左に大きくよろめき、動きのすべてが油切れの機械と化し、夢の中のように前にすすめない。
「俺に貸しなよ、重いんだろ? あれ、そうでもないや」
ナギの手にやすやすと渡った箱は、おそらく十分の一の重さもなくなっているに違いない。
「……私は自分が持てない荷物を人に運ばせる気で持ってきたりしないし、それが持てないほど非力じゃないわよ……!」
汗だくになって息を切らしながらアーサはうめく。
「そりゃ非力かというと絶っ対違うけど。十六で蒼月魔術師の望月階級とか普通ありえない」
「だから貴方の助けなんてこれっぽっちも必要ないの」
「じゃコレどうやって運ぶの?」
ナギは邪気のない笑みを浮かべ、片手だけでぶら下げた箱をかかげた。
「……協会に着くまでの荷物運びだけ依頼するわ。それ以上は許さない」
「どうせいっしょに行くんだから、それまででもアーサの盾にしてよ」
「貴方、今いくつだったかしら」
「十七歳。あ、来月で十八だから!」
「はい、それが答えよ。十八歳未満、よって無資格、全然アテにできない」
「ああもう、資格ムカつく! そもそも楯守って、俺らゴドワの伝統芸だぜ。蒼月だの銀星だのなんちゃら魔術協会だか色々できる前からずっとやってんのに、なんであれこれ決められてんの? 十八からとかありえねえ!」
「いい大人が、十八歳未満の子を盾にする方がよっぽどありえないわよ!」
「アーサは十歳から正式魔術師じゃん!」
「魔術師はアリよ、大人の盾に護ってもらえるんだから。その逆じゃ鬼じゃない!」
「そうだった。ずっとボカ姉が仮盾やってんだよな」
ナギはむうっと頬っぺたをふくらませた。
「でも俺、来月十八だし、実力はよく知ってるよね?」
ナギは箱のベルトを肩にかけると、アーサの腰に手をまわし、ダンスのようにくるりと位置をいれかえた。同時に空いた手をひょいとふりあげる。
濡れた木材を叩き潰す音が響いた。
鮮血が噴水のように噴きあがる。
ナギの裏拳が、アーサの背後に近づいていた男の顔面にめりこんでいた。
「な、なんだ今の音」「ショットガンか?」「うわあ、血だああ!」
ホームにいた人々が悲鳴をあげる。すぐにその悲鳴はさらなる恐怖と驚愕の絶叫にとって変わった。
――化け物!!!!
両手で顔を覆った男の体が、服の内側でねじれてありえざる変形をはじめた。
紳士然としたスーツの背中が破れ、粘液に塗れた被膜の翼が飛び出す。
顔の皮もずるりと剥けて、蝙蝠によく似た素顔があらわになった。
正体を現わした魔物は、憎悪に満ちた眼でナギを睨みつけ、爪を振りあげ牙をむいて襲いかかった。
ナギは少しもあわてない。風に木の葉が舞うように、右に左に身を躱し、だが常にアーサの前に立って護っている。爪も牙もわずかなりと近づけない。
その間に、アーサの魔術は完成した。青白い雷光が集束した右手を振りあげ、ナギの陰から飛びだす。
魔物はすぐさまアーサと自分の間にナギが挟まる位置に跳び、射線をふさいだ。
アーサはそのまま、単音節の呪文を高らかにつむぐ。
青白い閃光がナギの背を貫き、その先の魔物を直撃した。ナギは灰銀の髪をおどらせるだけで、平然と立っている。
魔物は目を剥いたまま燃え尽きて、黒砂と化してくずれていった。
真盾族――彼らはあらゆる魔力の効果を受けない。
彼らは武器を使わず、あらゆる武器に負けない。
彼らは魔術師を護る鉄壁の盾となる。
各魔術協会が認定する魔術師護衛資格の『楯守』とは根本から異なる存在なのだ。
騒ぎを聞きつけた駅員や警備員が集まってきた。アーサが蒼月魔術師の望月階級章を出して説明すると、彼らは警戒を解き、法規定に従った浄化処置を始めた。
「この箱、すごく暗い匂いがする。なんなのかは知らないけどさ、こういう連中が欲しくなって寄ってきちゃう、そういうシロモノなんだろう?」
「そうよ……だから命の保証はできないんだから」
「え、じゃいいの?」
「どうしてそうなるの! 貴方は臨時の荷物運び! ここの協会までソレ運んだら終わり!」
「そこまでは文句ないんだね、よし!」
振り向きもせず歩きだしたアーサのあとを、ナギは嬉々とした足取りで追いかけた。