3-14 後宮のお茶汲み係
華王朝の若き皇帝のもとに、お茶汲み係としてとある人物が採用された。名を崔玄成といい、田舎から出てきたばかりの十五歳の少年である。
華王朝における皇帝のお茶汲み係は、後宮にすら立ち入れる特別な役職である。その様な重要な役職に就いた世間知らずの少年は、「後宮の遣り手婆」と呼ばれる妓楼出身の少女と共に、宮殿内に渦巻く陰謀に立ち向かうのであった。
その日、皇帝に仕える若き小姓達の中で新人の噂を口にしない者はいなかった。
皇帝の小姓といえば将来の幹部候補である。宰相や将軍とて夢ではない。小姓に採用されるのは、家格や才能に抜きん出た者ばかりなのだ。自分達の競争相手としても、派閥に引き入れるべき相手なのかにしても、その見極めは重要なのだ。
しかも、今回の小姓はただの小姓としての採用ではない。
お茶汲み係としてなのだ。
お茶汲み係を単なる茶坊主と侮る事なかれ、華王朝の制度においては側近中の側近なのである。
公私にわたって皇帝に茶を淹れるという名目があるため側に控える事が多く、男子禁制の後宮にすら許可無しに出入りできるのだ。
この様な特別な権限を有していることから、お茶汲み係に任命されるのは信頼のおける人物に限られており、文武いずれかの才能に抜きん出る者ばかりなのである。
はっきり言って、茶を美味しく淹れる能力など求められておらず、皇帝が自分の信頼をおける人物を側に置くための方便なのだ。
自分達の出世の障害にせよ、頼れる仲間にせよ、注目すべき対象なのは間違いが無い。
だが、
「お茶汲み係になった泰南出身の崔玄成です。まだ十五歳の若輩者ですが、よろしくお願いします」
そう元気に挨拶した少年は、十五歳にしては身体つきが貧弱で、とても武に優れる様には見えない。あどけない顔立ちは一見少女とも見まごう可愛らしいものだが、衆に優れているとまではいえない。十人並みの毛が生えた程度だ。かつては恐るべき美貌で人々を陥落させ、皇帝に有利な体制を築き上げたお茶汲み係もいたと伝えられているが、それには遠く及ばない。
次に、それでは彼は知力をもって採用されたのではないかと小姓達は考えた。
偉大な知性は宿る対象を選ばない。年齢性別を問わず、優れた知恵者は昔から知られているし、現に当代の宰相劉善用は前皇帝のお茶汲み係からその経歴を歩み始めたのであった。その時、劉善用は十歳の少年に過ぎなかったのである。
だが、これも的外れであった。
小姓達は定期的に勉強会を開き、そこで政治や外交等の討論を実施する。そこで玄成に意見を求めたのだが、全く的外れな回答しか返って来なかった。
「さあ? よく分からないです」
「えっと、塩の価格を安くしては?」
「羅真との国境問題ですか? とりあえず仲良くしましょうよ」
この程度、その辺の読み書き算術を始めたばかりの子供にすら可能な返答だ。この様な浅い考えで政治を動かしたなら、経済は混乱し治安は乱れ、外交問題が頻発して戦争になりかねない。
ならばと今度は武術の稽古に玄成を連れ出した。
小姓は将来の幹部候補であるが、いざとなれば皇帝を危機から身を挺して庇う親衛隊の役割を果たしている。そのため、皇帝直轄で精鋭揃いの禁軍の将兵すら凌駕する腕前の者は多い。そしてお茶汲み係は後宮にすら立ち入れる立場であり、皇帝を最も親密に守れる位置にいる。そのため、歴代のお茶汲み係には武術の達人が数多く含まれている。
現に禁軍総武術師範として大陸全土にその名を馳せる藩華仙は、先代お茶汲み係であった。藩華仙は皇帝が皇太子時代からの付き合いで、お忍びで歓楽街に繰り出した時にその命を救い、百人の刺客を鉄の扇で撃退したのである。
玄成は一見貧弱な身体つきである。が、武術の達人の中には老いて骨と皮だけの体になろうと、優れた技術で若くはち切れんばかりの筋肉をまとった豪傑を圧倒する事もある。武の神に愛されているのなら、若くしてその境地に立ったとしてもおかしくはないのだ。
だが、
「あの、もっと軽い剣は無いんですか?」
「いや、そんな細い木剣、町道場に入りたての子供でもすぐに慣れるんだが……」
貧弱な坊やは矢張り貧弱な坊やに過ぎなかった。戦いでモノを言うのは結局は筋肉である。まともな筋肉が無いのに強いなどというのは、講談や小説の中だけの話である。老いても強い達人は、希少だから達人と呼ばれるのだ。そもそもその様な達人は若い頃に限界まで鍛え上げているのである。
「お前さ、何が得意なんだ?」
小姓の中でも年長者で筆頭格の袁鵬が、耐えきれなくなったのか直截的に尋ねた。
皇帝のお茶汲み係は何かの能力が衆に優れていなければ任命されない。ならばこの一見優れたところの無い少年にも、何かの才があるはずなのだ。
「特技ですか? 取り立てて無いですけど、実家が全国の茶葉を扱う問屋なんで、美味しいお茶を淹れるのは得意です」
これを聞いた袁鵬をはじめとする小姓達は、顎が外れた。
「茶を淹れるのが得意? それでお茶汲み係に採用されたのか?」
「そう聞いてますけど? あの……僕はお茶汲み係ですよね?」
皇帝のお茶汲み係に関する認識に、絶望的なまでの断絶がある彼らは、しばらく困惑するより他になかったのであった。
「おい、そこの餓鬼。なにきょどってるんだよ。そう、そこのお前だ。ここをどこだと思ってんだ? いくら餓鬼だからって後宮に来んなよ。さっさとお家に帰って媽媽のおっぱいでもしゃぶってな」
勤務場所である皇帝の私室に向かおうとした玄成は貧弱な急に声をかけられて混乱に陥った。この野卑な言葉を投げつけてきたのが、目の前にいる少女の口から発せられている事に思い至ったのは、暫く呆然としてからであった。
後宮内の皇帝の私室に長い廊下の終端にその少女は居た。絢爛豪華な装飾の扉の前に据え付けられた机に向かい、何やら書き物をしている。
少女は、歳の頃なら十二、三歳だろうか。人形の様に整った顔立ちをしており、どこか生気を感じさせない不思議な雰囲気を漂わせている。
そんな少女の口から聞くに耐えない野卑な言葉が吐かれるなど、どうして認識出来ようか。
「僕は崔玄成、お茶汲み係だよ。だから、ここに来ても問題は無いだろ?」
「ああお前がか。噂になってるぜ。お茶汲み係に本当に茶を淹れるしか能のない奴が任命されたってな。さっすが陛下、洒落がきいてんよ」
「そう言うなよ。陛下のお茶汲み係は、普通の役職じゃ無いってことはここに来て初めて聞いたんだからさ。驚いたよ」
小姓達に皇帝付きのお茶汲み係がどの様なものかをこれまでの歴史を踏まえて懇々と説明されたのは、つい半日ほど前の事である。単なるお茶汲み係だと思っていた玄成は、真実を聞いて魂消たものである。
玄成がお茶汲み係に採用されたきっかけは、一月程前の事である。若く文武に優れる皇帝は遠乗りで小姓達を引き離し、とある屋敷に立ち寄って茶を所望したのである。その屋敷こそ玄成の実家であり、皇帝に茶を献じたのは玄成なのであった。そして、お前の淹れる茶が気に入ったので、宮殿に来て仕えるように言ったのである。
この様な経緯があるので、玄成が自分の役割は単純に美味しいお茶を淹れる事だと思い込んでいたとしても、可笑しくは無いのであった。
「どうやら、相当な世間知らずの餓鬼みたいだね。そんなのじゃ、この後宮じゃ取って食われちまうぜ」
「そりゃどうも。でもあんまり餓鬼餓鬼言わないでよ。僕は十五歳。君より歳上なんだから。それに、世間知らずって言うけど、君だって後宮の外なんかあまり知らないんじゃないの?」
基本的に温厚な玄成であるが、歳下から余りにぞんざいな扱いを受けては流石に面白く無い。それに、こんなに年少で後宮に出仕しているのなら、逆に世間知らずなのは少女の方であろう。
「お生憎様。あたしは妓楼生まれ妓楼育ちなんでね。ここ以外の事も知ってるのさ。それに、これでも十五歳なんであんたと変わんないしね」
「ぎ……妓楼?」
「お? 何想像した? この助平」
「いや、そうじゃなくてさ」
もちろん、そうじゃない訳は無い。
「あたしの親が妓楼に雇われた医者なんで、あたしもそこで育ったのさ。で、あたしは医者見習いとして後宮で健康管理をやってるわけさ。陛下だけじゃなくて他の宮女の健康もね。まだ一年くらいだけど結構評判良いよ」
なお、何がそんなに評判が良いのかというと、子を宿せる時期を高確率で予想できるため、少女に教えてもらった時期を見計らって皇帝の閨に呼び出される様に画策する者がおり、それが成功しているからだ。この一年で、すでに十人程の宮女が子を宿している。
この事から口さがない者は少女の事をその育ちも含めて「後宮の遣り手婆」などと呼んでいるが、少女は全く気にしていない。
「ま、冗談はさておき、取って食われるってのはホントかもしれないよ? 後宮は欲望陰謀渦巻く伏魔殿さ。この前だって宮女の死体が井戸から上がったのさ」
「本当かい? 事故なの? 事件なの?」
「さあ? 外傷は無かったけど、詳しくは分かってないね。殺しなのか、自殺なのか、サッパリだってさ」
となると、事によると後宮には殺人鬼がまだいるのかもしれない。自分がこれから勤める場所が一筋縄ではいかない事を改めて玄成は認識した。
「忠告してくれてありがとう。それはそうと、陛下の部屋に入って良いかい?」
「どうぞ。あんたの役目だからね。あたしは鈴溟。大抵ここで入室者の記録をしてるから、まああんたとはよく顔を会わせるだろうね。よろしく」
「こちらこそよろしくね」
色々教えてくれて忠告してくれたのだ。鈴溟は口は悪いが根は良い子なのだろう。そう思いながら玄成は扉を開けた。
「ひひっ。最近子供が沢山出来過ぎちまったから、財政を気にして若い男を連れ込む事にしたのかもねえ。ちゃんと尻は洗ってきたかい?」
根は良い子というのは勘違いだったのかもしれない。
背中に下品な言葉を浴びながら玄成は皇帝の部屋に入って行った。





