3-12 海抜ゼロメートルの悪魔
数か月前、防波堤の上を歩く少女の動画がSNSで流行した。
それは嵐の港で、打ち寄せる波が少女を避けていく不可思議な映像だった。
少女は〝海の魔女〟と呼ばれ、ネットでは少女を特定しようとする者が溢れ返った。
大学生の僕もまた、動画配信者の友人の撮影のためその港町に訪れていた。そこで〝海の魔女〟の双子の妹・ナギサを名乗る少女に出会い、友達になって欲しいと頼まれる。
僕はまた後日会いにくることを約束して、仲間たちと地元へ戻った。
翌日、地元の病院で偶然にも〝海の魔女〟本人と出会うことになった僕。
彼女の故郷を訪れたばかりだと話すと、彼女は震えながら言った。
「なんで貴方がナギサを知ってるの? 妹は、もう死んでるのに」
僕は〝海の魔女〟と、死んだはずの〝魔女の妹〟と、交互に逢瀬を重ねていく。
そんな時、ふたりから海に棲む悪魔の噂を聞くのだった――
「僕、なんでこんなことしてるんだろ……」
レインコートから垂れた雨雫が、足元に水たまりを作っていく。
とある街にある小さな漁港。そのすぐ近くに建っている立体駐車場の二階の片隅で、僕は車にもたれかかっていた。
ドアを開けたままの後部座席には、大きな鞄と防水カメラのバッテリーが四つ転がっている。急いで交換したから濡らしてしまい、乾かしている最中だった。
体重を預けているボンネットの上には、安い防水カメラがひとつ。カメラの横には小さく『シノブ用』とテープが貼られていた。
「……脱がなきゃ」
僕はもぞもぞとレインコートを脱いで、きっちりと畳んでカメラの隣に置く。ポケットからスマホを取り出しながら、駐車場の外へと視線を向けた。
港では轟々と風がうねり、頼りないロープの先で漁船が暴れていた。
波が防波堤に打ちつけて白く粟立ち、飛沫を舞い上げる。横殴りの雨が視界の大部分を奪っていることが、嵐の強さを物語っていた。
駐車場の二階からは、三人の男が嵐の港を駆け回っているのが見下ろせる。
三人とも防水カメラを片手に何かを叫びながら右往左往していた。さっきまで自分もあそこにいたことを思い出して、もう一度ため息を漏らしてしまう。
僕たちは全員、某サイトの動画配信チャンネルのメンバーだった。
最初は僕も配信者として出演していたけど、僕がメインの動画だけコメントが少なく再生回数も伸びなかったせいで、とうとう裏方に回れと言われてしまった。
確かに僕は他のメンバーと違い、素直な反応しかできず、平凡なことしか言えなかった。刺激的で面白い話ができる三人とは、人気も何もかもが違いすぎた。
反論できるはずもなく、いまは裏方。そんな自分がただただ情けなかった。
今回も動画撮影の一環で、この港町を訪れていた。
せめてカメラマンとして役に立とうと彼らを撮影していたけど、素早く動き回る彼らを上手く撮ることができず、大人しくしてろと命令された。
どうせなら例の動画でも見返しておけ、とも言葉を添えて。
「……動画、見なきゃ」
自分に言い聞かせるようにつぶやいて、スマホを操作する。
何度も見返した映像だ。
数か月前にSNSでバズって、フェイク動画かどうか大議論が起こったことは記憶に新しい。再生回数は10億回を超えてもなお再生され続けている。
いまさら新しい発見なんて見つけられるとは思えない。
それでも、言われたとおりに動画を眺める。
それは暴風雨のなか撮影された映像だった。
――――――
この町を嵐が襲っていた。
避難所になっている丘の上から、住民のひとりが撮影していたものだ。
避難所からは港が見下ろせる。せり出している防波堤には大波が打ちつけていた。風は轟々と鳴り、雨が一瞬にして通り過ぎていく。まさに今と同じような空模様だった。
『ちょっとアレ! 人じゃない!?』
動画内で悲鳴を上げる撮影者。
指さしていたのは、堤防の上に立っている人影だった。
小柄な少女だった。
質素なワンピースを着て、荒れた海を眺めていた。町民たちが避難しているなか危険な場所に登ってそんなことをしているなんて、誰の目に見ても異常だった。
しかしカメラはさらに異様な風景を写す。
少女が立っている堤防を越える高さの波が押し寄せた。
また悲鳴を上げる撮影者。周囲の人々も大声で逃げろと叫んでいる。
波は速く、あっという間に堤防に激突した。無慈悲な波は少女を海へ引きずりこんだかのように見えた。
『えっ』
しかし動画に映っていたのは、変わらずに立つ少女の姿。
撮影者も呆然としているようで、声も発さずただ風と波の音が再生され続ける。
また波が少女を襲う。
少女は動かない。小さなその体など簡単に攫われてもおかしくないはずなのに、少女は微動だにしなかった。
『うそ、避けてる……波が避けてる!』
撮影者が叫んだ。
周囲の人々も、同じように『なんてこった!』『うそだろ!』と声を上げていた。
その言葉通り、打ち寄せる波はなぜか少女の足元で割れたようにして散り、避けているようにしか見えなかった。
その後、しばらく動画は続いた。
少女はその間、数メートルほど堤防を行ったり来たりして位置を変えていた。波がくるたびに少しずつ動き、荒波を避ける。まるで波の意思を感じ取っているような、そんな動きだった。
動画はそこで終わった。
――――――
「〝海の魔女〟か……」
まるで波を操っているかのような少女は、そう呼ばれ始めた。
これはフェイク動画だの、幽霊だの、偶然だのと様々な意見が飛び交った。実際に町を取材し、少女を突き止めようとした人物も多いと聞く。
でも、確かな情報は動画以外に出てこなかった。
それでも一ヶ月ほど前、似たような嵐の日に、少女が目撃されたという情報が拡散された。
しかし目撃者はSNSで情報を発信した直後、波にさらわれて海に飲まれてしまったらしい。警察と自衛隊の捜索もむなしく、行方不明のままだと大々的にニュースで取り上げられていた。
少女が何者で、消えた目撃者は何を見たのか。
つぎは自分たちが少女を撮影しよう! と友人たちがこの町に来ることを決めたのがつい昨日のこと。当然、僕も参加することになっていた。
「ほんと、何してるんだろ」
ゴシップ誌の記者の真似事のようなことをする友人たちに呆れ、文句も言わずに従う自分にも呆れていた。
僕としては少女より、動画のせいで部外者がたくさん来訪してしまうこの町の人たちに対して、申し訳ないと思っていた。
「まあ、僕もその部外者のひとりなんだけど」
「部外者っていうより、不審者だよ」
「へ?」
不意に声をかけられて、視線を上げた。
いつの間にかそこに立っていたのは、白いワンピース姿の中学生か高校生くらいの少女だった。肩下あたりまで髪を伸ばした素朴な少女だった。
少女は車のナンバーをチラリと見てから、
「そうじゃない? こんな嵐の日にわざわざレンタカーで来て、そんなつまらなさそうな顔してるお兄さん?」
「えっと、君は……誰?」
ほんの少し、心臓が駆け出しそうだった。
例の動画では顔までは見えなかったけど、全身びしょ濡れの白いワンピース姿は、何度も映像で見たものととても似ていた。
まさかと思う気持ちと、そんなことはないだろうと思う気持ちが半々だった。
少女はそんな僕に、くすりと笑いかけてくる。
「あのさ、小学生だって不審者に声をかけられたら防犯ブザーを鳴らすように徹底されてる世の中だよ? 思春期真っただ中の私が、そんな個人情報を教えるような質問に答えると思う?」
「……その、そうだよね。ごめん」
「謝る必要はないよ。私はべつに非難してるワケでも咎めているワケでもないんだ。ただ、客観的な立場を指摘してるに過ぎないだけだし」
やけに難解な言い回しをする少女だった。
彼女にどこかちぐはぐな印象を受けたけど、確かに少女の言うことは正しかった。そもそもこの街に勝手に押しかけてきたのはこっちだ。
「それでもごめん。不審者じゃないつもりだけど、部外者なのは事実だから」
「その部外者のお兄さんは、こんなところで何をしてるの?」
「友達と動画の撮影に来たんだ」
「撮影? 映画でも撮るの?」
「ううん、友達が動画配信者だから。そこまで大きくない動画チャンネルだけど」
「お兄さんは出ないの?」
「うん」
「そっか」
なぜか少しガッカリしたような反応だった。
「なんで動画に出ないの?」
「……いまは裏方だから」
「ふうん。話し方が丁寧で聞きやすいのに、勿体ないなあ」
口を尖らせた少女。
なぜか僕を責めるような視線だった。とっさに、言い訳が口をついた。
「動画は言動が派手な人のほうが向いてるんだよ」
「マジョリティの話はしてないよ。私個人の好みの話をしてるの」
「えっと……ごめん」
また謝ってしまった。
「まあいいや。それで部外者のお兄さん、最初の質問に戻るけどいい?」
「最初の? なんだっけ」
「部外者が不審者になっている理由だよ。こんなところで何をしてるの?」
「だから、動画の撮影だよ」
「それはこの町に来た理由でしょ? 私が聞きたいのは、お兄さんがここで落ち込んだ顔している理由のほう」
無垢な視線で、じっと僕を見つめる少女。
心まで見透かされそうな気がして、つい視線を逸らしてしまう。
「みんなが撮影してるから、動画見て待機してるだけだよ」
「裏方なのに? それってつまり戦力外通告ってこと?」
「……まあ、似たようなものかな」
明言されると、さらに気持ちが沈んだ。
少女は小さく息をつく。
「見てる動画って、お兄さんたちの動画?」
「ううん、この町で撮られたやつ……ネットで流行った〝海の魔女〟の動画。知ってる?」
「例のアレか。じゃあお兄さんたちも〝魔女〟を探しにきたの?」
「うん」
「ふうん、そっか……」
少女は何かを考えるように嵐の空を眺めてから、振り返って言った。
「ねえお兄さん、名前はなんていうの?」
「シノブだよ」
突然聞かれたので、とっさに答えてしまった。
少女は「もうちょっと警戒しなよ」とクスクスと笑った。
「私はナギサっていうの。お兄さんが探してる〝海の魔女〟の妹だよ。よろしくね」
そう言ったナギサの瞳は、とても綺麗なコバルトブルー色に澄んでいた。
――これはまだ何も知らない僕と、彼女と、海の悪魔の物語だ。





