3-10 美少女のはらわた
信じられるかい、僕の幼馴染は地獄に落ちてたんだって
僕の目の前で人が轢かれた。
時間は高校の帰り道。
現場は横断歩道の上。信号は青だった。
ブレーキを踏む様子すらなかったトラックは、法定速度を一切守ってなさそうな速度で、目の前を歩いていた女性を轢いた。
女性は宙を舞い、ぐちゃと音を立てて落下した。
頭から落ちたからか首はひしゃげて、右腕は千切れている。腹は裂けて、中からはらわたがもろでていた。
どこからどう見ても、死んでいる。死んでいるようにしか、見えなかった。
なのに。
「えへへ、ビックリしたなぁ。道交法をなにも守ってないトラックが突っ込んでくるなんて考えてもなかったよ」
千切れていない方の左腕で、もろでているはらわたをかき集めている彼女は、死んでいるようには、見えなかった。
「人の前ではらわたを出すの、初めてじゃあないんだけど現世でやると気恥ずかしいね」
ひしゃげている首で笑う彼女。確かにその表情には恥ずかしさがにじみ出ていたけれども、そんな表情をするような状況ではない。
えっと、生きてるでいいんだよね。この状況は。
「救急車を呼んだ方がいいですか?」
恐る恐る、僕は尋ねてみる。
救急車でどうにかなるようなケガではない気はするけれども。そもそもはらわたをもろだしているのは、ケガと言っていいのか?
「大丈夫だよぅ、救急車を呼んだところでどうにかなるようには見えないでしょう?」
ほら。と彼女は自分のはらわたを掴んで持ち上げて見せる。
それはそうかもしれないけれども、救急車を呼んだところでどうにもならなさそうな人は、そんな気楽に、自分の臓物を持ち上げたりしない。
助からなさそうな傷に似つかわしくない、助かりそうな呑気。死に際の体の、緩和ケアなのだろうか。
えへへ。と彼女は笑う。
「でも私を助けたいというのなら、良い方法があるよ」
「なんですか?」
僕は尋ねる。と、僕の足首を誰かが掴んだ。
誰だろうか。足元を覗く。右腕だった。肩より先がない。血が流れていないからか、力づくで引き千切ったかのような断面がよく見えた。
「私たちみたいなのはね、昔からこんなことを言われてたんだぁ」
にこにこと笑いながら。
「『血も涙もない鬼め! 地獄に落ちろ!』って」
はらわたをかき集める。
「酷いよねぇ、悲しいよねぇ。ただ人を殺しただけなのに」
彼女は言う。
「殺した人の中に、その人の妹が混ざってただけなのに」
はらわたを詰め終える。
「でも思うんだ。だったらどうだろう。だとしたらどうだろう」
彼女の手には、血が一滴もついていなかった。
「血も涙も手に入れたら、私は地獄に落ちないで済んだのかなって」
今度はクラクションの音がした。
戻ってきたトラックが、彼女をもう一度、スピードを緩めることなく、轢き潰した。
さっきは宙を舞ったが、今度はカエルみたいに地べたに磔にされた。
「鬼、鬼だって? そりゃあ大きな間違いだね」
トラックの扉が内側から蹴り開けられた。
中から出てきたのは、赤髪の女性だった。
ウルフカットの赤髪。鋭い切れ目。煙草を咥えていて、唇の隙間から、人を食い破れそうな犬歯が見える。
そしてなにより、彼女は大きな棍棒を担いでいた。
棘のある黒々とした、重そうな棍棒。
「お前らは鬼にいじめられる可愛い亡者なんだからよ」
それこそまさに、鬼が持ってそうな棍棒だった。
***
麻煮獄。
棍棒を担いだ赤髪の彼女はそう名乗った。
「まあ、つまるところ獄卒だよ。地獄に落ちたこいつらみたいな亡者を痛めつけるのが仕事」
はらわたをもろだしていた彼女は、トラックに潰されたあと、麻煮獄に金棒でつつかれ続けている。
さっきまでニコニコと笑っていた顔は、居心地の悪そうな、見つかりたくなかった人に見つかってしまったような——軍隊でサボっているのを教官にバレてしまったかのように萎縮している。
「はぁ」
「驚いて言葉もでないか」
「まあトラックに轢かれても生きてる人だったり、その人にどうやら襲われかけたらしいということだったり、助けが入ったと思ったら自分を獄卒だと名乗る人が現れたり、もう驚く気も」
「人じゃねえよ。鬼だよ、鬼」
「鬼って苗字と名前があるんですね」
「さっき考えた。良い名前だろ?」
「獄が《ひとや》と読めることに気づいたときすごいテンションあがってそう」
「世紀の発見かと思ったね」
きひひ。と笑う麻煮。
「それで、獄卒がどうして現世に?」
「こいつのためだよ」
麻煮は棍棒の先で潰されて動かなくなった、はらわたの彼女を叩く。彼女は「いてっ」とうめく。
「こいつの名前は河底京糸。15年前、家庭教師として潜伏した先の子供を20人殺した。ひとりひとり殺すとさすがにバレると思ったのか、仲良くなってプライベートでも遊ぶようになって皆集めて包丁で刺してまわったんだって。当然死刑になった」
「ここにいるけど」
僕は河底を指さす。トラックに轢かれて潰れて生首1つになってるけど、ここにいる。
「そうだな。死刑になったやつが、ここにいる。それはどうしてだと思う?」
「……実は河底は不死身の人間で、死刑を執行しても死ななかったとか?」
「それはそれで面白そうだな。でも違う、ちゃんと死刑を受けてこいつは地獄に落ちたよ」
麻煮は笑いながらも、軽く否定する。
「じゃあどうして」
「吸い上げられたんだよ」
麻煮は指で地面を叩いたあと、空を指した。
「さながらブッダが垂らした蜘蛛の糸に群がるガンダタと罪人たちのごとく、空へ空へと、吸い上げられたんだ。なあ?」
「は、はいっ。その通りです」
河底は上擦った声で答えた。
吸い上げられた。空に。
いや、地獄というのは地面の下にあるはずだから、つまりそれは——。
「そう、亡者たちは地上に連れて行かれたんだ。前代未聞の地獄脱獄劇だよ」
「脱獄したつもりは私たちには全くないのですけどね」
河底はつけたす。
「呼ばれたような気がして、その声の方に向かってみたら、いつの間にか地上に戻っていたんです」
「つまり……麻煮は地獄から逃げ出した亡者を連れ戻しにきたってこと?」
「その通り」
「トラックで轢いて?」
「その通り。こいつらは罪人だ。死んだらどうせまた地獄に落ちる。だから正直――」
麻煮はゆっくりと金棒を持ち上げると、河底の生首の上でピタリと止めた。自分がこれからどうなるのか分かったのか、河底はひくひくとした笑みを浮かべている。
「――殺した方が手っ取り早い」
振り下ろした。
頭蓋が割れた音がした。元の形が分からないぐらいぐちゃぐちゃになった河底の生首は、そのまま地面に溶け込むように消えてしまった。
「と、言うわけで」
麻煮は服の内ポケットをごそごそと漁り、名刺を一枚取りだした。
『地獄 獄卒
麻煮獄
080―4692―4544』
「地獄から逃げ出した亡者を見つけたら、私に連絡してくれよな。殺しに行ってやるからさ」
「……亡者って、どう見分けたらいいんですか?」
「簡単だよ。こいつらには『血も涙もない』」
「血も涙もない悪人面を探せと?」
「いいや、文字通りの話だよ。亡者には『血』も『涙』もない。私らが血を絞り尽くしたし、涙も涸れるまで苛め抜いたからな」
***
そんなことがあった帰り道。
僕はこれからのことを考えていた。
つまり僕は、これから亡者と出会い、彼らを仕留める異能バトルの世界に飛び込んでしまうのではないか。とか。
いや、だってそうだろう。こんな状況に出くわしていながら、もう二度と亡者と出会うこともなければ、麻煮獄とも出会わないなんて、面白くないだろう。
僕は、そんなことを考えていた。
家に帰って、扉を開いたら、幼馴染が待っているのを目撃するまでは。
中学1年の時、交通事故で死んでしまった幼馴染が、僕の目の前に現れるまでは。
「久しぶり、羽良くん」
幼馴染――四綾綿はニコリと笑う。
地獄の亡者が逃げ出しているときに現れた『死んだはずの幼馴染』はニコリと笑う。
それはつまり――僕の幼馴染は、地獄に落ちているということだった。
僕は、麻煮の名刺を破る必要があるということだった。