3-09 ヤンデレ監禁エンドから始める極楽だらだライフ
リリティナは、監禁されたショックで前世の記憶を思い出した。
働きたくない、家から一歩も出たくないと願いながら出社する、ブラック企業勤めの社畜。
そんな日々のなか、ささやかな潤いを得ようと始めた乙女ゲームがあった。
それがこの世界。
信じがたいことに自分は、前世でプレイしていた乙女ゲームの主人公、聖女リリティナ=デューセルとして転生したらしい。
ゲームの知識を生かして幸せな未来へ——残念ながらそれは叶わない。
なぜならたった今、シナリオはバッドエンドを迎えて終了したところだ。
攻略対象の一人である魔術師シヴュロスに監禁され、自由を奪われてなお人生は続いていく。
現実は物語より悲惨だ。
——でも、ちょっと待って?
イケメンと同居しながら上げ膳据え膳?
厳しいマナーレッスンもなく、デスクワークなんてあるはずもない不労生活?
なにそれ。
もしかして、この環境って最高では——!?
「こんな所に閉じ込めたからって、何もかもあなたの思い通りになると思ったら大間違いよ!」
迫る手を振り払い毅然と言い放つ。
しかし骨張った男の手は、拒絶など意にも介さず再び迫って私の顎を掴んだ。
暗紫のローブからのぞく手首は病的なほど青白く見えるのに、顎を押さえつける手はびくともしない。
もう一方の手の先では、この世のものとは思えぬおぞましい物体が鈍い輝きを放っている。
「いやっ! いやよ、放して……っ!」
逃れようと身をよじるのに合わせ、足首に繋がれた鎖がガシャガシャと音を立てる。
この無機質な感触にも日ごと違和感を失っていく自分が恐ろしい。
男は、フードから覗く口元に酷薄な笑みを浮かべて言った。
「ここには君と僕の二人きり、どんなに叫ぼうと誰も助けには来ない。そうやって嫌がる君も美しいけれど……そろそろ大人しくして? すべて君のためだ……」
「勝手なこと言わないで! 私はそんなもの食べ——」
「あんまり抵抗すると、『約束』は守れなくなるけれど?」
「っ……」
男の手を引き剥がそうと抗っていた両手を緩め、力なくぱたりと膝に落とす。
「卑怯だわ」
「君が望んだことだ」
「——ぅぐ!」
それ以上の抵抗がないと見るや、草葉を煮詰めたような深緑の物体が無遠慮に口腔へとねじ込まれた。
舌を蝕む強烈な苦味、鼻腔へとせり上がる臭気。押さえつけるように口を塞がれていては吐き出すことも叶わない。
「んぐ……ふっ、う……っ……」
鼻だけの僅かな呼吸はすぐに限界に達し、ひどい苦味にぽろぽろと涙を零しながら口内の異物を咀嚼する。
強張る喉を上下させてどうにか異物を体内に送り込めば、ようやく塞がれていた口が解放された。
「はぁっ、はぁ……っ」
「よくできました」
満足気にこちらを評する男を、涙の残る瞳でギリと睨みつける。
「こんなことをして、覚えてなさいよ……!」
「もちろん、君との思い出は何一つ忘れたりしないよ。——それで? 治癒の力しか持たない聖女様が、僕に攻撃魔法でも放ってくれるの?」
「それは……」
うっそりと笑みを浮かべた男は、空のトレーを手に用は済んだとばかりに立ち上がった。
振り返りもせず出ていこうとする背中にまだ用は済んでいないと声を上げる。
「待ちなさい! 『約束』はちゃんと果たしてもらうわ!」
「ああ——」
私には越えることのできない扉の向こう。
男はぴたりと歩みを止め、薄暗い廊下を背にゆっくりと振り返った。
「ピーマンを残さずに食べられたら、おやつになんでも好きなものを用意する——って話だったね」
◇ ◇ ◇
さかのぼること一ヶ月。
婚約発表を夜に控え最後の打ち合わせにと王太子の元へ向かったはずの私は、見慣れたベッドの上で目を覚ました。
「ここは……私の部屋……?」
ぼんやりと周囲を見渡して呟きながらも、その推測が外れているとの奇妙な確信を抱く。
記憶にある窓はもっと大きく、天井はもっと低い。
壁紙も、調度品も、限りなく実家の私室に似せて作られた、自分の部屋ではない『どこか』。
「そう、ここは君の部屋だ」
いつからそこにいたのか。ローブのフードを目深に被った男が、扉の方からゆっくりとこちらにやって来る。
「シヴュロス……」
男の名は、シヴュロス=カフィスール。
魔術師の名門カフィスール家の三男にして、史上類を見ないほど強大な魔力を有する王国随一の魔術師。そして、私と同じ魔法学院の一年生でもある。
常にフードで顔を隠して他者を寄せつけず、有り余る才を持ちながら無断欠席を繰り返して三度も留年しているという彼を、最初は近寄りがたい人だと思っていた。
しかし実際に話してみれば、裏庭で迷子になっていた私を助けてくれたり悩みを聞いてくれたりと、少しも偉ぶったところのない繊細で優しい人だった。
「ここはどこ? シヴュロス、あなた何か知っている? ——ああっ! それよりも早く戻らないと! 今何時!? 急がないとパーティーに遅れちゃうわ!」
ベッドから下りようとした瞬間左足首に生じた違和感を、確かめようと振り返った横顔にシヴュロスが告げる。
「焦らなくても大丈夫。もう君が学院に戻る必要はない」
「どういうこと……? 今夜のパーティーでレイナード殿下との婚約発表があるの。絶対に参加しなくちゃいけないのよ……」
鈍色の足枷を視界に捉えながら、徐々に強張っていく声で言葉を紡ぐ。
足枷から伸びる長い鎖は、今自分がいるベッドの脚に繋がれているようだ。
この状況は何?
どうして私は鎖に繋がれているの?
ベッドの横に立ったシヴュロスが、真上から私を見下ろす。
「誰も君に教えてくれなかったようだけれど——王太子には婚約者がいる」
混乱する私の頭を、シヴュロスの言葉がガツンと殴りつけた。
視界が色褪せ、意識がチカチカと明滅する。
「……嘘。嘘よ、笑えない冗談だわ。だって殿下は、今日の学年末パーティーで私との婚約を発表するとおっしゃったもの」
思い出すのは甘やかな笑顔。
とろけるような瞳に私を映し、いつだって淀みない言葉で愛を伝えてくれた。
あの美しく聡明な未来の国王が、嘘で女性を翻弄するような愚かな真似をするはずがない。
「君との婚約発表は本気だったろうね」
「ほら! やっぱり——」
「ただしその発表は、バレア公爵令嬢に婚約破棄を突きつけるところから始まっただろうけれど」
「そん……な…………。違う、違……っ、何かの間違いよ! 私、奪うつもりなんて……」
ああ、ずっと彼女から向けられていた激しい敵意の正体がわかった——。
思考の理解は追いつかないのに、心は勝手に納得してしまう。
ひどい耳鳴りがする。
壊れそうな頭を両手で押さえ、すべてを拒絶するかのように首を振る。
どうして。
母から父を奪い取った義母のことを、心の底から軽蔑していたはずなのに。
どうして。
誰も婚約者がいるなんて教えてくれなかった。
レイナード殿下も、シヴュロスさえも。
どうして。
他の女性と結婚を誓い合った口で、私に愛を囁いたの?
どうして。
「私の幸せは、彼女の苦しみの上に成り立っていたの……?」
腰まであるストロベリーブロンドの髪を一房すくい取られ、動くものを追うように呆然とシヴュロスを見上げる。
「可哀想なリリティナ。僕が君を救ってあげる」
私の髪を指に絡め、シヴュロスが恭しく口づけを落とす。
「愛しい僕の女神——。僕なら君だけを愛してあげられる。君以外すべての人間を殺したっていい。たとえ肉体が朽ち果てようと、魂だけになろうとも、永遠に尽きることのない愛を君に注ぐと誓うよ。——だから君も、僕を愛すればいい」
「何を……言って……」
二人きりの室内。
足首に繋がれた鎖。
どこも拘束されている様子はないのに、私を助ける素振りのない相手。
この状況を生み出した犯人に思い至り、ザァッと血の気が引く。
この人は、味方ではない——。
体温を感じさせない冷たい手のひらが、するりと私の頬を撫でて離れた。
「今だけは、他の男のために泣くのを許してあげる」
冷えた頬に涙の温度が伝う。
何が悲しくて泣いているのかもわからないのに。
シヴュロスは私の涙から目を逸らすかのように、くるりと踵を返した。ゆったりとした歩調に合わせ、波打つように揺れる暗紫のローブが遠ざかっていく。
扉を出ていく背中を呆然と眺め、はっと気づいてベッドを飛び出す。
「待って!」
「大丈夫、時間ならいくらでもある。今日から君はここで暮らすんだ——一生ね」
「シヴュロス、待っ——!」
閉じていく扉へと駆け寄れば、足首を繋ぐ鎖がガシャンと張って倒れ込む。
残り数歩の距離。
必死に伸ばした指先の向こう。
分厚い扉が、静かに私と外界とを隔てた。
どうして。
どうしてこんな目に合わなきゃいけないの。
こんなはずじゃなかった。
もう少しで幸せを掴めるはずだったのに。
どうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうして
ぐわんぐわんと視界が揺れる。
受け入れがたい現実から逃れるように、ぷつりと意識が暗転した。
…………
………………
……………………
エンドロールはまだかしら?
——ん? エンドロールって何?
バッドエンドになっちゃったから、セーブポイントからやり直さないと。
——セーブポイント??
ヤンデレ、攻略対象、ルート分岐、正ヒロイン……知らない記憶の奔流が思考を呑み込む。
この世界ではないどこか。睡眠時間を削って働く日々に、鏡に映る疲れきった顔。
手にした薄い機械の中で繰り広げられる、現実味のない鮮やかな恋模様。
——ああ、そうだ。
どうやら私は、乙女ゲームの正ヒロインとして転生したらしい。





