第五話 ホテル・ミューズ
「君は必ず元の世界へと返す。僕の全てに代えても必ず」
「それで俺はなんて言ったんだっけ…」
「今もその決心は変わらない。安心して謝られて欲しい」
「リシアって結構強引なところがあるよね…」
「魔法使いとはそういうものだ」
紛うことなき異世界のスイートルームは、極めると同じところに行きつくのだろうか。いつかテレビで見たようなお金持ちの密着特番に映ったリゾートに似ていた。
ソファは深く沈みながらも柔らかく安定している。包み込むような座り心地は記憶にあるどんな椅子よりも偉大な気持ちになれた。
片膝をついていたリシアをどうにか立ち上がらせて、椅子に座らせたかったが彼女はさっさと受話器をとってルームサービスを頼んでいた。あるんだ電話。待って、俺用はもういい。大丈夫、やめて。
「あ、そうだ思い出した」
思わず見とれたがどうしても言わないと気がすまなかったことがある。
「俺に罪悪感とか持たなくていいよ」
「…」
「というか持たないで。俺も気になるから」
「…リョウがそう言うなら」
とはとりあえず言ったものだが。
「でも正直俺に出来ることが全然ないから俺は気にするかも…」
「は?!いや、リョウは礼儀正しい、そのままでいてくれたら何よりもいいんだ!」
「そう言われてもこのままじゃリシアに迷惑ばかりで…」
ヒュウと建物の隙間を巡る冷たい夜風が通る。吹いてきた方向を見れば雲の上まで届く厳かな岩肌、山があった。
これを登って下りることもこの街の右も左も全て分からない。一体自分はどこまで彼女に迷惑をかけてしまうのだろうか。
周囲にはまだ日が落ちたばかりで人通りは多く、コートを着て鞄を片手にハットを被った男性が歩き、エプロンを着けたおじいさんがお店のシャッターを閉めている。
またショーウィンドウに玩具の飾られたお店の前では帰りたくないと駄々をこねる子供と呆れながら手を引っ張る姉らしき少女と困ったように笑う母親であろう女性がいた。
子供の無限に遊びたいエネルギーはどんな場所でもお馴染みらしい。
車がないのか、通らないのか。みな通路の真ん中を空けることなく歩いている。
それにパッと見彼等は皆お洒落だった。インターネットで見たフランスの動画を思い出す。あれをもう少しレトロにした様な感じだ。
そして何より、しっかり暮らしを営んでいる彼等の姿に俺は焦燥感を覚えた。このままじゃ、お荷物だ。
当のリシアは先程の決心したような雰囲気と変わって箒を両手で握りしめ困った顔をしていた。
いや待て困らせるな。俺はなんてダサいのだ。気を取り直せ。
「ごめん困らせた。…あの俺って戸籍とかないけど働けたりするのかな」
「一つ、戸籍が無い場合は職が絞られる。二つ、いち早く君は帰るべきでそんな悠長な暇は無い。三つ、必ず居なくなる訳ありな相手を店はあまり雇いたくは無い」
「仰る通りだ……」
俺はどうしようも無いお荷物だった。
「お、落ち込むな、本当に全ては僕のせいなんだ!罪悪感もそうだが僕には君に迷惑をかけた責任を取る義務がある!僕はそれを放棄したく無いんだ!こ、これは矜持だ!」
「そうは言っても…いいのかな……」
「と、とにかく続きは後にしよう、近くに宿がある。都までの移動は明日が主なんだ。今日はそこに泊まる」
「わかった…」
街灯のスポットライトを浴びて石畳のベルベットを靴の踵でノックしていく。
清楚で上品な白いローブに年季のある石畳まではいいのだが履きなれた愛用品のスニーカーがどうにもミスマッチしていた。しかし履き心地は世界一だ、気にする事は無いだろう。
「それと言い忘れていたが、僕とリョウが離れるほど繋いだ効力が弱くなる。ので同じ部屋に泊まる」
「わか……え」
何も無粋な考えはない。本当に無い。ないったらないのだが。むしろ別室で料金が膨れる方が不安だし寝るなら床かあればベランダのつもりだが。
「体裁とか大丈夫?」
「…僕は構わないが確かに一々気を回すのも疲れそうだ」
リシアは指を鳴らすと彼女の髪は夜の帳を下ろした様に黒に染まった。髪だけでなく瞳もだ。俺に合わせたのだろう。
「自分の見た目は分かっている。僕をリョウの妹にしておこう」
「解決が素早過ぎる…」
丁度彼女は俺より少し幼いくらいに見えた。
ここまでの情報ですごく思う。彼女はひとりで生きていけそうだ。
暗くなりすれ違う人が少なくなってきてだんだん着飾った若い女性や男性の割合が増えてきた。遠くで犬の遠吠えが聞こえた頃、三階建ての建物の前についた。
玄関であろう扉の横にパッと明るい胸ほどまでの大きさの看板が置かれていた。どちらかと言えば置物だろうか。
円形の土台があって何も無い宙に『ようこそ ホテル・ミューズへ』という意味の記号、文字が、コップに入った氷がくるり、くるりと踊るような感じで回っている。
あ、本当に全然知らない文字が読める。凄い。マジだ。
リシアがレンガブロックで出来た三段の階段を登って少し高そうでお洒落な扉をガチャと開けると、同時にその文字は『いらっしゃいませ』と姿を変え、魚が跳ねるように傍まで浮き上がり、鼻先でぱちんと弾けた。
小さくきらきらと光が舞うと、それらは元の土台に戻っていく。
え、なにいまの。
柄にもなくはしゃぎそうになった。
すごい、どこか高級な店で水の流れる壁を見たがこういうのって一見無意味そうに見えてとても良いのだ。もう一度扉を開けたらもう一回見れるのだろうか。
「それと今から君はヨウだ」
「あっ、うん、わかった 」
指示が簡潔で助かった。あまりに看板に夢中で内容が複雑だったら確実に聞き返していた。
リシアの後に続いて階段を登り扉をくぐる。
入った瞬間水をパシャリと浴びたような気がした。が、濡れている気配はなく瞬きをする、気のせいだろうか。
そして淡くお風呂上がりのような爽やかな香りに包まれる。石鹸の匂いをちょっと高級にしたようなすごくいい匂いだ。
足元は毛足の短い絨毯で、淡い水色をしている。壁は白く、待ち合わせや休憩用か目を引く鮮やかな青色のマーメイドソファや水面の映るガラステーブルの置かれたスペースがあった。
巾木は黒くクラシカルに引き締めていて、なんというかセンスと清潔感がすごい。
「いらっしゃいませ」
受付であろうカウンターの中に居る男性やその外に居る女性から重なって声がかかる。
従業員らしい制服はオフホワイトのジャケットで、シンプルながらも襟や袖に細やかな刺繍が施されて高級感があった。
また、襟にはピンバッジ、腕章の様に巻かれたリボンはアメジストの様な紫色で全体の印象が締めていた。お洒落だ。
月明かりに似た明るいロビーには、一番目を引くひとつ大きな照明が浮かんでいる。
シャンデリアの様な大きさの照明はクラゲの形に似ていて、丸いガラスとサンキャッチャーの様なキラキラの触手を垂らしていた。否、それはガラスに見えるが光の反射に違和感がある。
「…あれ?水で出来てる?」
「はい。お客様はミューズの利用は初めてでございますか?」
「あ、はい 」
「では軽くご説明致します。当店は各都市で展開されているホテル・ミューズでございます。各都市、各ホテルによって特色がありますが、いずれもこちらの照明等、海や水の魔法を使用しています」
カウンター横の従業員はそう説明しながら指先を揃えた手で照明をさすと、それはゆっくりと目の前まで降りてきた。
「触れてみますか?」
「えっいいんですか?!」
「是非」
にっこり笑う従業員の提案に、ちらりとリシアの方へと向けばなんだか仕方がなさそうに笑っていて「受付してくるからよく触っておけ」とカウンターへと行ってしまった。なんだかちょっと恥ずかしい。だが。
「わ…すごい……ふるふるしてる」
触れる度に表面張力ギリギリの水面みたいにこぼれそうでこぼれない、絶妙な震えをしていた。
むしろ触れているよりは表面の薄い膜をつついているといった感じで手は濡れない。でも手のひらからは少しだけひんやりとした温度が伝わってきた。
「この月明かりの魔法のための太陽の魔法は、周囲を必要以上温めてしまいます。…なのでこうしてクラゲさんに冷やしてもらっているんですよ」
「へぇ…すごい……魔法だ…」
「ふふ」
「あはは…」
なんだか説明がだんだん子供に対する口調に変化していなかっただろうか。
確かにこの世界では当たり前なのだとしたらそれにひとつひとつはしゃぐ姿は幼稚だろう。いやそれはちょっとどころじゃなく恥ずかしい。暖かな視線に耳が熱くなるのを感じる。
「当館はミューズの中でも規模の小さいものですので、こうしたクラゲの形をしております。ですが他の大きなミューズですとこちらももっと大きくなります。そしてサメやクジラの形をしてロビーを悠々と泳いでいるんですよ」
「これで規模が小さいんですか?」
確かにホテルと言うには大きなビルという訳では無いがそれでも内装は広く外装も立派であった。
「ミューズの本館は大十二都市ピスケス、そのものでございますから」
「都市そのもの?!」
「ええ、都市国家まるごとでございます」
反応を見るのが楽しいとばかりに従業員のお姉さんはニコニコしている。
「ヨウ、もう大丈夫か」
「あ、うん!従業員さんもありがとうございます」
「私ども従業員のことはベルと。何かございましたらお気軽にお申し付けください」
「それではどうぞごゆっくりお寛ぎくださいませ」
同時に同じ台詞、同じ角度のお辞儀をした従業員、ベルさん二人を後にリシアについて廊下を進む。
ロビーと変わらない水色の絨毯や白い壁だが、点在する扉やナンバープレートには銀の装飾が施されていて、邪魔にならないところにさっきよりも小さなクラゲの照明が等間隔で浮いていた。なんだか可愛いらしい。
その内突き当たりまできた。なんと角部屋だそうだ。
リシアは右手を扉の前に翳すと人差し指に嵌っていた銀の指輪がきらりと光った。
あんなもの今までつけていただろうか、そう思っているとぱちんとそれは水泡になって弾け飛び、目の前の扉から鍵の開く音がした。
なるほど、なるほど。決してはしゃいだりなどはしていない。なんとなく頬が温かいのを無視し、平静を装って室内に入った。