【コミカライズ記念作品】領地のお祭りへ
こちらはコミカライズ記念作品となります。
「これと、これもいいわね」
庭師は、イリーナの指さしたバラを手際よく切り、足元に置いたバケツに入れていく。
「まだ必要かしら?」
「執務室の花瓶は大きいですから、もう少しご用意しましょう」
「そう。じゃぁ、これも入れてください」
イリーナが選んだのは淡い黄色のバラ。その花言葉は『幸福』で、穏やかな新婚生活を満喫している今にぴったりの花だ。
クラウスがイリーナの為に用意したこの屋敷に押しかけてきて、好き勝手していった王女がいなくなり、彼は、
「新婚をやり直そう」
と言い、イリーナに女主人の仕事をセーブさせた。
「新婚夫婦は蜜月を楽しむものだよ」
クラウスの美しい笑みが脳裏に浮かび、ふと横に目を向ければ彼が仕事をする執務室が見える。
窓際で書類を整理していた従者がイリーナに気づき、クラウスにそれを教えたようだ。
彼は難しい顔で書類に目を通していたが、従者に声を掛けられ、次の瞬間には輝くような笑顔になって、外にいるイリーナに軽く手をあげて合図をよこした。
イリーナもそれに手を振って応えている間に庭師は必要な分だけのバラを集め終えた。
「もう十分かと思います」
「じゃぁ、お部屋に戻りましょうか」
イリーナは彼と大量のバラと一緒に屋敷の中へ戻った。
「いい香りだね」
クラウスが仕事をする傍らでイリーナは花瓶に先ほどの花を活けている。
「お庭はもっと素敵ですよ」
「そうか、わたしも行きたいがまだ仕事が終わりそうもない」
イリーナには仕事をセーブするように言ったくせに、彼自身は忙しそうにしている。
王女の対応に奔走していたクラウスは本来の業務に手がつけられないでいた。彼女がいなくなった今、滞っていた分から順に片付けているらしい。
「クラウス様がお忙しいことは承知しておりますから」
イリーナはそう言いながらハサミでパチンと枝を切り、それを花瓶に刺した。
「そうも聞き分けのいいことを言われると寂しいな」
「それは我が儘を言ってもいいということ?」
イリーナの問いかけにクラウスは甘く微笑み、
「そう。可愛い妻からのおねだりは大歓迎だよ」
と言い、彼はすっと立ち上がるとデスク越しに触れるだけの口づけをした。
その数日後、イリーナのもとに一通の手紙が届いた。それは以前、イリーナが領地に出向いた際、滞在した町のまとめ役からで、祭りを開くから良かったらお越しください、と書いてあった。
「お祭りがあるのですって」
手紙を読み終えたイリーナがそうつぶやくと、彼女の身の回りを整えていた老齢のメイドが言った。
「面白そうですね、旦那様とご一緒に出掛けられてはいかがですか?」
この提案にイリーナは即座に反対した。
「それはできないわ、彼はとても忙しくしているもの。外出の時間があるのなら、体を休めてもらいたいわ」
イリーナの反論にメイドはくすりと笑い、
「ですが、奥様から誘われたら旦那様はきっとお喜びになられると思いますよ」
と言った。
その言葉に先日のクラウスとの会話を思い出した。
『君の我が儘なら歓迎だよ』
彼のとろけるような甘い眼差しと笑顔。
イリーナはほんのりと頬を染めながらも、
「そうかしら?」
と言い、そんなイリーナにメイドは苦笑しながらも、
「そうですよ」
と言った。
メイドの言葉を真に受けたわけではないが、イリーナも祭りには行ってみたかった。あの町のひとたちは突然、訪れたイリーナに親切だったし、気さくに接してくれたから、いつかまた交流の機会を持ちたいと思っていたのだ。
そこでその日の夕食でイリーナはクラウスに話をしてみることにした。
「クラウス様。以前、領地に行ったときに滞在していた町でお祭りがあるそうで、ご招待いただきました」
「そうか。いいね、行こう」
クラウスがあまりにも自然に返事をしたからイリーナは一瞬、何を言われたのか分からなかった。
「あの、クラウス様。今、なんと?」
「領地の祭りに招待されたんだろう?だから一緒に行こうと言ったんだが?」
「でも、お忙しいのでは?」
「領地でも仕事はできる。それに君は行きたいのだろう?」
「えぇ、まぁ」
「なら決まりだ」
イリーナはひとりで行くつもりだった。前も領地までひとりで行っているし、そのときも問題はなかった。もちろん、クラウスも一緒に来てくれたらとは思っていたが、多忙を極める彼にそれをねだってはいけないと思ったのだ。
「よろしいのですか?」
イリーナの問いかけにクラウスは、もちろん、と言って笑顔を見せ、彼の微笑みにイリーナも笑顔になった。
その町の祭りは一週間開催される。イリーナとクラウスは開催から二日ほど遅れて到着したが、そこはすでに祭りムード一色に染まっていた。
クラウスの手を借りて馬車を降りたイリーナを出迎えたのは、見知った顔ぶればかりだった。
「イリーナ様、ようこそお越しくださいました」
「クラウス様もご一緒とは。ご夫婦で参加していただけるなんて光栄です」
歓迎の声にイリーナは微笑む。
「皆さん、お久しぶりです。今日は、その、夫とまいりました。お世話になります」
自身の隣に立つ美しい男性を『夫』と呼ぶのは恥ずかしく、イリーナは言葉に詰まりながらもなんとか挨拶をしたのだが、それとは対照的にクラウスは落ち着き払って言った。
「妻が世話になったようで皆には感謝している、今回もよろしく頼む」
それは次期当主らしく威厳を感じさせる物言いで、この町のまとめ役の男性はクラウスよりずっと年上であるにもかかわらず、自然に頭を下げている。
そのあとはクラウスに挨拶をしようと町の重鎮たちが彼の前に列をつくり、イリーナは少し離れた場所でそれを見守る形となった。
「シヴォス夫人、お久しぶりです」
声をかけられて振り向くと、それは流れの騎士ローディーだった。
彼は、イリーナがこの町にいたときに護衛として雇っていた騎士で、連日のように領地を出歩くイリーナに嫌な顔をもせず同行してくれた男性だ。
「まぁ、ローディーさん。お久しぶりです。まだこの町にいらしたんですね」
ローディーは仕事を求めて各地を転々としており、一箇所に長く留まることはしないと言っていた。その彼に再びこの町で会えるとは思っていなかった。
「港町に行く途中だったんですが、この祭りに夫人がいらっしゃると聞いたのでお顔を拝見できればと寄ってみたんですよ」
「そうだんたんですね、お会いできて嬉しいです」
イリーナの笑顔にローディーも微笑み、それからついっと彼女の背後に目をやった。
「あの方がご主人ですか?」
先ほど、イリーナ自身が彼を自分の夫だと紹介したというのに、この言い回しに慣れていないせいか恥ずかしさが抜けない。
「えぇ、そうよ」
染まっていく頬を感じながらイリーナが微笑みと共に応えると、彼はほんの一瞬だけ、苦い顔をしたように見えた。
「ローディーさん?」
「いや。とても素敵なご主人のようですね」
「そうなんです、わたしにはもったいないくらいの方なの」
そう言うイリーナはまるで恋に落ちたばかりの乙女のような顔つきでクラウスを見つめており、それにローディーは苦笑した。
「それはそれは。ごちそうさまです」
ローディーの揶揄するような口調にイリーナはいよいよ頬を真っ赤に染め、
「もう、からかわないでください」
と言い、腕を上げて彼をぶつ真似をした。
「ははは、冗談ですよ。ところで絹織物の工場でパーティーが開かれるそうで今から行くんですが、良かったら夫人もご一緒にいかがですか?」
それは以前、イリーナが滞在したとき、領地産業の勉強を兼ねて見学をさせてもらった工場だった。彼らにも会いたいと思っていたイリーナはふたつ返事で同行を決めた。
「行きたいです。クラウス様にお伝えしてまいりますから、少し待っていてください」
イリーナはそう言ってローディーから離れ、クラウスのそばに行った。
彼の周囲にはまだ多くの挨拶待ちのひとがいたが、夫人であるイリーナが来たことで彼らは一時的にその場から離れていった。
「イリーナ、何かあった?」
「お邪魔をしてごめんなさい。わたしがお仕事を見学させていただいた工場の皆さんがパーティーをするそうで、彼と一緒に行ってきてもいいですか?」
そう言ってイリーナはちらりとローディーに視線を送り、クラウスに誰が同行者なのかを伝えたのだが、イリーナがクラウスに向き直るより早く彼は言った。
「ダメだ」
あまりにはっきりとした言い方にイリーナは驚き、それから怪訝な顔をした。
「でも、パーティーに行くだけですし」
「あの騎士がそう言ったのか?」
「えぇ、そうです」
クラウスの険しい表情にイリーナは戸惑いながらも説明をした。
「ローディーさんには以前、わたしの護衛をお願いしていましたから安心できます。ご心配でしたら公爵家の護衛の方にもついてきて頂きますから」
「だが、君を誘い出す為の罠だったら?その工場の連中だって、パーティーに見せかけて実は悪事を企んでいるのかもしれない」
クラウスの突拍子もない発想にイリーナはあきれると同時に怒りを覚えた。
「クラウス様。あなたはいずれ、この地の領主となられるのですよ?そのあなたが領民を疑うだなんて、してはいけませんわ」
「イリーナ」
イリーナの示した明確な怒りにクラウスはたじろぎ、その隙にイリーナは彼のそばを離れてしまう。
「イリーナ!」
呼び止めるクラウスにイリーナは冷たく言い放つ。
「工場に行ってまいります」
「だったらわたしも」
「クラウス様はいらっしゃらなくて結構です!」
「待って、イリーナ!」
クラウスは慌てて追いかけようとするも、そこに従者が駆け足でやってきて、
「クラウス様。申し訳ございませんが、こちらに至急、サインをいただけますでしょうか」
と書類を差し出した。
それは屋敷でやり残した仕事で、クラウスにそれを無視することは許されていない。
クラウスは苦々しい顔で護衛のひとりにイリーナについていくように命じ、従者から書類を受け取ると、馬車の中でそれを読み始めた。
自分はいつもこうだ。イリーナの望みのままにしたいのに、結局、仕事に追われてしまう。
どうしてももっとスマートにこなせないのだろう。
脳裏に浮かぶのはイリーナが楽しそうにローディーと話をしている姿。
あのふたり、距離が近すぎるだろ!
クラウスは顔をゆがめると、猛スピードで手元の書類に目を通し、いくつかの指摘を書き込みして馬車を出た。
「修正を追記しておいた、これをもとに進めてく、れ」
従者に指示をしながら顔をあげたクラウスの目に飛び込んできたのは、きちんとした服装に身を包んだ大勢のひとたち。
その先頭には町のまとめ役の男性がにこにことした笑顔をうかべ、
「次期領主様でいらっしゃるクラウス様に皆、ご挨拶したいと申しております」
と言った。
将来のシヴォス公爵家を統べる者。それは、クラウスがこの世に生を受けたそのときから背負わされた重すぎる肩書だった。幼い頃から家庭教師をつけられ勉学に追われる日々。クラウスにとっての日常はそれが当たり前で、幼いうちは遊びの中に学びがあることすら知らない子供であった。
そんなクラウスが十歳のとき、生活に変化が現れた。クラウスに婚約者ができたのだ。
相手はマルティ伯爵家の令嬢、イリーナ。
公爵夫人となる女性が伯爵位の娘ではいささか格が落ちる。しかし互いの母同士が娘時代から親しい仲だった為、成立した婚約だった。
「イリーナ、クラウス様にご挨拶を」
「は、はい」
顔合わせの席、イリーナは大人たちに促されておずおずと前に進み出た。
「イリーナ・マルティです、よろしくお願いします」
目の前の少女が発したのはたったそれだけ。それに、ぎこちない笑みが添えられているという高位貴族の令嬢と比べたらいかにもお粗末なものだった。
いずれシヴォス公爵となるクラウスに対して、周囲は頼んでもいないのに誉めそやしお世辞を言う。気持ちの伴わない賞賛の言葉は聞いていても不快なだけで、でもそれを表に出すことも許されず、クラウスはただ、美しい笑みを浮かべて聞き流してきた。
しかしイリーナは、年相応の少女らしくはにかんだ笑顔を向けるだけで、それ以上でもそれ以下でもなかった。
それがクラウスの目にはとても新鮮で純真に映り、つまりは一瞬で恋に落ちたのだった。
「クラウス・シヴォスと申します、お会いできて光栄です」
そう言って彼女の手を取り、デビュタントを終えた淑女にするようにその指先に唇を触れさせてみれば、彼女は熟れたイチゴのように真っ赤になり、それがますます愛らしく思えた。
それから始まった婚約者同士の交流の中で、クラウスは初めて、次期当主ではなくクラウスとして振る舞っても許されるのだと知った。
マルティ伯爵家では後継であるイリーナの兄も含めて、子供のうちは目いっぱい遊ばせることに重点を置いていた。もちろん勉強やマナーもおろそかにはしないが、それ以上に多くの子供たちと遊ばせ、そのコミュニティの中で学びを得るというやり方を重視していたのだ。
イリーナは小さな淑女であると同時にお転婆娘でもあり、そんなイリーナとの時間の中でようやく、クラウスにも子供らしい笑顔が備わっていった。
「イリーナちゃんとお友達になれて本当に良かったわ。今までのあなたはいつもどこか張りつめていて、正直、心配だったの」
クラウスの母、シヴォス公爵夫人はそう言って微笑んだが、クラウスはその言葉を疑問に思った。
「彼女は友人ではなく、わたしの婚約者ではないのですか?」
するとそれに公爵が答えた。
「我が家は公爵家だ、親しく接して良い相手が限られることは分かるね?家格が合うのは王家と一部の力のある侯爵家くらいだが、彼らとの交流ではお前の息苦しさは抜けないと思って、マルティ伯に協力をしてもらったんだ。婚約者という形にすれば、多少の無作法も許されるからね。
いずれは公爵家に相応しい令嬢を婚約者として迎えることになっている、お前もそのつもりでいるように」
「嫌です」
クラウスは間髪入れずにそう言い、その行動をとった自分に驚いた。
いつも彼は他者の発言をゆっくりと吟味し、思考を重ねた上で返事をするように気を付けていたからだ。しかし反射的に出た言葉は自分にとっての真実だと感じたクラウスは、それを取り消すようなことはしなかった。
「嫌、とは?」
公爵はゆっくりと問いかけた。その口調はどこか恐ろしさが漂うものであり、公爵家当主に反論するということがどういうことなのか、クラウスは思い知った。
しかし、ここで負けてはならない、と怯む心を叱咤して言う。
「僕は虹が七色であると書物から学んで知っています、でも噴水の水でも本物の虹が作れることを教えてくれたのは彼女なんです。彼女が、イリーナだけが僕の世界を色づけてくれた。僕はそんな女性と生涯を共にしたいのです」
クラウスの主張に公爵夫妻は困った顔をしたものの、結局、イリーナの父、マルティ伯と相談をしてくれた。もちろん伯爵は大反対したのだが、シヴォス夫妻に頭を下げて頼まれ、渋々、承諾をするしかなかった。
「クラウス様、ご存じとは思いますが、我が家は伯爵位です。本当は、こうして皆様と直接お話することすら恐れ多い身分にございます。その伯爵家の娘が公爵夫人となることに良い顔をしない者は多いでしょう。そういった悪意からイリーナを守るとお約束いただけますか?」
マルティ伯の問いにクラウスは胸を張って答えた。
「もっと勉強をがんばってシヴォス公爵家の当主に相応しくなり、その妻であるイリーナもきっと守ってみせます」
今まで講師に言われるがままに受動的に学習をしていたクラウスは、その日を境に生まれ変わった。自ら進んで勉学に取り組み、その為にイリーナとの交流の時間も減らすほどだった。
しかし限られた時間での逢瀬はクラウスにとってより良い方向に作用し、彼が青年の年齢に達する頃には次期公爵に相応しい人物へと成長していた。
隣国への留学も、イリーナとの将来を守る為、より高みを目指そうとしたからだったのだが、王女に目をつけられ、散々な目にあった。
今回のことは、心優しいイリーナだったから許してもらえたとクラウスは思っている。現にマルティ伯は未だにとげとげしい態度を崩さず、相当、腹に据えかねていることがうかがえた。
そのイリーナをまたも守ることが出来なかったら、今度こそ離縁を言い渡されてしまうかもしれない。
クラウスはまだ次期当主であり、マルティ伯爵家の当主から離縁を申し立てられ、シヴォス公爵家の当主である父がそれを承知したら従うしかないのだ。
「クラウス様、こちらは地元産業を支援してくださっている御仁です」
「お目にかかれまして光栄です」
クラウスの周囲に集まる大勢の人々を捌きながら、彼はイリーナを思い、内心で歯噛みしていたのだった。
クラウスと別れたイリーナはローディーと共に絹織物の工場へと向かった。
少し離れた位置についてきているのは公爵家の騎士。彼はクラウスからイリーナの護衛を命じられたのだろう。
「護衛騎士がついたのですね」
「えぇ、まぁ」
ローディーはちらりと後方に目をやってからそう言い、イリーナはそれにあいまいな返事をする。
あの頃の自分は第二夫人になったのだと勝手に勘違いして、領地に向かうイリーナの護衛を申し出てくれた騎士たちを断った。
「わたしに危険が及ぶことなどありませんわ、それより王女殿下をお守りください」
イリーナはそう言って単身、この地にやってきたのだが、帰る素振りもなく、気ままに領地をうろつくイリーナの身を案じた屋敷の執事が独断で、流れの騎士であるローディーを護衛として雇ってくれたのだ。
普通、公爵夫人の外出にはその家に雇われている護衛がつく。それがなかった当時のイリーナをローディーがどう思っていたのかは分からないが、あちこち出歩くイリーナに彼は嫌な顔をすることもなく付き合ってくれていた。
「今回は、どうやら俺の出る幕はなさそうですね」
ローディーの笑顔にイリーナは笑った。
「彼らにだってきっと仕事はないわ、わたしを狙ったところでメリットなんてないもの」
イリーナの言葉にローディーは穏やかに微笑んだだけだった。
工場ではすでにパーティーの準備が整っており、イリーナの訪問に集まっていた人たちは歓声をあげた。
「イリーナ様、お久しぶりです」
「ようこそお越しくださいました!」
「どうぞこちらにお座りください、正午を合図に始めますから」
そして間もなくして正午告げる鐘が鳴り、皆はそれぞれの手に持ったカップを掲げて、
「「「乾杯!」」」
と叫んだ。
男たちが酒を酌み交わし、豪快に笑いあう中、イリーナは見知った顔に囲まれて、再会を喜び合っていた。
「またイリーナ様にお目にかかれるなんて嬉しいです」
「わたしも嬉しいです。皆さんもお変わりなく」
「今回はクラウス様もご一緒に来てくださったと聞きました」
「え、えぇ。そうです」
クラウスの話題にイリーナの胸がちくりと痛んだ。彼はこのパーティーに参加すると言ってくれたのに、イリーナがそれを断ってしまった。悲しそうなクラウスの顔が脳裏によみがえってしまうと、イリーナはもう沈んでいく気持ちをどうすることもできなくなる。
「失礼、夫人は少し酔われたようだ。あちらの木陰で休憩なさってはいかがですか?」
タイミングを見計らったかのようにローディーが割って入り、イリーナは中心から少し離れた位置にあるテーブルに移動した。
「水です、どうぞ」
「ありがとう」
イリーナはローディーから水の入ったグラスを受け取り、一口、口に含んだ。それはほんのりとレモンの味がしてのどを潤してくれる。
「シヴォス卿は、ここには来られなかったんですね」
ローディーの問いかけにイリーナは、
「そうね、彼はとても忙しいから」
と、つっけんどんな口調で言った。
ふたりの間をふわりと風が通り抜け、葉擦れの音に包まれた。ローディーは何も言わず、その沈黙がイリーナを落ち着かせ、彼女はついに口を開いた。
「さっき、喧嘩をしてしまったの」
「シヴォス卿と?」
「えぇ」
イリーナは、ぱっと顔をあげ、少し早口で言った。
「だって、彼ったら、あなたたちがなにか悪事を企んでるのかもしれないなんていうのよ?そんなことするはずないのに」
イリーナの言葉にローディー声を立てずに笑い、
「それはどうでしょう?」
と言った。
「まさか、ローディーさんまで皆を疑うの?」
イリーナが信じられないという顔をして見せれば、彼はうっそりと微笑んで、
「夫人はもっと危機感を持つべきだ、君は彼の唯一の弱点なのだから」
と言った。
そのときはじめてイリーナはローディーの笑顔が怖いと思った。
彼はいつだって穏やかに微笑んでいて、イリーナに付き従っていてくれたのに。
「それは、どういう意味?」
イリーナの震える声にローディーはついっとその距離を縮め、彼女の腕をつかんだ。
「どういう意味だと思う?イリーナ」
初めてあったときからローディーはイリーナを『夫人』と呼んでいた。何故、今になって呼び捨てにするのか。
「ローディー、さん?」
イリーナはつかまれた腕を振りほどくこともできず、彼の顔が段々と近づいたその時。
「イリーナから離れろ」
チャキッという音と共にローディーの頬に剣が突きつけられた。
「クラウス様?!」
剣をかまえ、その相手を恐ろしい形相でにらみつけているクラウス。
驚くイリーナに彼はちらりと視線をやり、
「イリーナ、こちらへ」
と言った。
ローディーはすでにイリーナをつかんでいた手を放している。イリーナは彼を気にかけながらもクラウスのそばに行った。
するとクラウスはイリーナの肩を素早く抱き、自らの横に据えるとローディーに言った。
「貴様、何をしたかわかっているのか?」
「俺は、なにもしちゃいませんよ」
ローディーは降参を示すかのように両手を上にあげている。
そんな彼にクラウスは吐き捨てるような口調で、
「当たり前だ、何かしていたらとっくに切って捨てている」
と言った。
しばらくふたりの視線が交差していたが、やがてクラウスは剣を収めながら言った。
「あの手紙は君か?」
ローディーがその問いかけに答えることはなかったが、クラウスは初めからそれを期待していなかったようで、そのまま続けた。
「やつらは捕らえた、罪状は次期公爵夫人の誘拐を計画したこと。当分は出てこられないから、君はその隙にここから離れた土地に行くといい」
「そうか、良かった」
それを聞いた彼はほっとした顔になるが、クラウスの表情は厳しいままだ。
「礼は言わないぞ、君はイリーナに懸想した。本来なら万死に値するほどの罪だが、協力の手前、許そう」
クラウスの宣言にローディーは芝居がかった口調で、
「ありがたき幸せ」
と言い、パーティー会場である工場から立ち去って行った。
「クラウス様、これは一体どういうことですか?」
イリーナは彼に不安げな目を向け、それにクラウスは少し微笑み、ちょっと待ってて、と告げた。
彼はパーティーに集まったひとたちに向けて、
「騒がせてしまってすまない、皆はこのまま祭りを楽しんでくれ。イリーナは疲れているだから連れていく。また明日にでもここに寄らせてもらおう」
と言い、イリーナを横抱きにした。
「クラウス様?!」
驚きに声を上げるイリーナにもクラウスは動じない。
急な刀匠沙汰に固唾を飲んで見守っていたひとたちも次期領主夫妻の仲睦まじい姿に安心したのか、またがやがやとした喧騒に包まれる。
その中をクラウスはイリーナを抱えて堂々と歩いて退場した。
外で待っていた馬車に乗り、それが出発したところで、クラウスはイリーナに事情を打ち明けた。
「数日前、匿名の手紙が公爵家に届いたんだ、差出人はたぶんローディーだ。君の誘拐を計画している奴らがいるという内容だった。
本来なら領地への訪問を取りやめるべきだったが、君は祭りを楽しみにしていたし、真偽も分からない手紙を鵜呑みにすることもないと判断したんだ。
ローディーは以前、君の護衛をしていた。それで計画に誘われたらしいが、彼は参加するふりをしてこちらに情報をリークしてくれたんだ」
「彼がかかわってるってどうしてわかったんですか?」
「ローディーは港町に行く途中だと言っていた、寄り道をするにしてもここはあまりに遠い。その矛盾で手紙の主がローディーだと気づいて、書いてある内容通りに廃館を探らせたら案の定、犯人が潜んでいた」
「そんな恐ろしい計画があったなんて」
恐怖に震えるイリーナをクラウスはそっと抱きしめた。
「わたしの妻というのはそれだけ重いものなんだ」
「何も考えずに領地のお祭りに行きたいだなんて言って、申し訳ございません」
クラウスの言葉にイリーナは謝罪するも、彼はそれに首を振った。
「いいんだ、わたしは君のそういうところに惹かれたのだから」
クラウスの脳裏に在りし日のイリーナがよみがえる。
自分が将来のシヴォス公爵であることを知っていても、自然な笑顔を向けてくれたかけがえのない少女。
「愛してるよ、イリーナ」
クラウスはイリーナにそう言い、そっと口づけをした。
お読みいただきありがとうございました。
この度、こちらの作品がBookLive様より
『まさか婚約者の第二夫人になるなんて~愛するあなたを忘れる方法~』というタイトルで
コミカライズされました。
2025年6月6日よりブックライブストア様にて配信開始、6月13日よりピッコマ様にて先行配信予定となっております。
形を得たイリーナさんとクラウスくんの、原作とは一味違った物語を是非、お楽しみくださいませ。