5.領地へ
クラウスのふたりの夫人が共に生活するという奇妙な状況になってからまもなく二週間が経とうとする頃、クラウスの母、シヴォス公爵夫人から茶会の招待状が届いた。
親しい友人を招いた内々の茶会であるため、イリーナにも是非、参加をしてほしい、と記してあった。しかしそういうことであるならば、なおのこと、第一夫人になる予定の王女が出席したほうがいいように思える。
彼女はこれから次期シヴォス公爵夫人としての人脈を築いていかなければならない。それに相手も第二夫人のイリーナより第一夫人の王女と顔を繋げておきたいはずだ。
しかし、招待状のあて名はイリーナになっている。イリーナと王女が普通の関係なら、代わりにどうぞ、と気軽に招待状を譲ることもできたが、第二夫人宛ての招待状を第一夫人、それも王女に譲るなどともすれば不敬だ。かといって、シヴォス公爵夫人に宛先を変えて再送してくれ、とも言えず、イリーナは悩んだ末、欠席を伝えることにした。
その詫び状に、王女が退屈をしているようだ、と、それとなく書いてみる。イリーナの意図が正しく伝われば、シヴォス公爵夫人はきっと王女宛に招待状を送ってくれるだろう。
気がかりではあったが日々の仕事も山積している。イリーナは茶会のことを頭の片隅に追いやって、目の前の仕事に集中することにした。
イリーナが仕事部屋で書類に目を通しているとドアがノックされた。
使用人の誰かが来たのだろうと相手を確かめもせず、どうぞ、と入室を許可する。
「そこにある書状はできています、明日の便に乗せてもらえますか?急ぎのものがあれば今すぐ見ますが、そうでなければこの書類に集中させてもらってもいいかしら?」
そこまで言って顔を上げるとイリーナの目の前に立っていたのはクラウスで、慌てて謝罪する。
「申し訳ございません、使用人と勘違いしました」
イリーナの言葉にクラウスは小さく首を振り、気にしなくていい、と言ったきり所在なさげに黙っている。
「なにか御用でしょうか」
仕方がないのでイリーナのほうから水を向けると、クラウスは躊躇いながらも言った。
「母上の茶会を断ったと聞いたが」
「はい」
「何故?」
まさか理由を聞かれるとは思わなかった。社交は第一夫人の仕事であって、第二夫人のイリーナがしゃしゃり出てよい場ではない。
「わたくしが参加してよい集まりだとは思えません」
イリーナの言葉にクラウスはすかさず反論した。
「そんなことはない、身内ばかりの気軽なものだ。いずれにせよ相談くらいはして欲しい」
「クラウス様には王女様の対応がございますわ、お屋敷内のことはどうぞわたくしにお任せください」
イリーナは努めて穏やかな笑顔を浮かべて言った。
王女を妻として迎えるなど、相当な準備が必要だということは容易に想像ができる。主人が多忙を極めているのなら、些末なことで彼を煩わせないように動くのが使用人としての勤めだ。
イリーナの言葉にクラウスは目を伏せ、すまない、と謝罪を口にした。
「謝罪など、必要ございません。お気になさらずに」
「いや、こんなことになって、君には本当に申し訳なく思ってるんだ」
その言葉にイリーナは思わず唇をかんだ。
そう思うのならどうして無理やり結婚させたのか。婚約を破棄されたほうがまだマシだった。貧しくとも愛のある家庭が築けたかもしれないのに、今のイリーナにそれは夢となってしまった。クラウスと王女の陰でひっそりと生き、死んでいく。それがイリーナの生き方になってしまったのだ。
本当なら気にしなくていいと言うべき場面だ。しかしイリーナはそれを言葉にすることができない。口を開いたら間違いなく泣いてしまうだろう。
淑女は人前で涙を見せてはならないとされている。ここで泣くわけにはいかないのだ。
イリーナの沈黙をどう思ったのか、クラウスはイリーナの手をとり、その指先に口づけを落とした。それはかつて、彼と初めて会ったときにした仕草であったが、あの時と今では状況がまるで違う。
この見目麗しい青年に心をときめかせた自分はどこへ行ってしまったのか、泣き出さないよう懸命にこらえるだけで精一杯のイリーナはどこか他人事のようにそれを見ていたのであった。
結局、公爵夫人からの招待状は王女には届かなかったようで、指定されていた日に王女が出かけたようすはなかった。
あれからクラウスはほとんど屋敷に帰ってこなくなった。王宮とシヴォス本邸に詰めているらしい。クラウスがおらず、暇を持て余した王女は時々、街に出かけているようだったが、ここは中心からは距離があり、往復に時間がかかりすぎる、と文句を言っているらしい。
それでも帰ってくるということは、相変わらず適当な屋敷が見つからないのだろう。
イリーナは王女が屋敷内に滞在している間は仕事部屋から出ないよう気を付けていた。顔を合わせてもろくなことにはならないし、万一、揉め事に発展したらクラウスの心労が増えるだけだ。
一日中、部屋に籠っているイリーナをメイドたちは心配している。
「イリーナ様、お庭を散歩されてはいかがですか?」
「今日はお天気がいいですから、きっと気持ちがいいですよ」
のんきに庭など歩いていたら王女の目に入ってしまうだろう。彼女はイリーナをこの屋敷から追い出したがっているのだ、目に触れたが最後、穏便に済むとは思えない。
そこでふと領地の屋敷に送れ、と王女が言っていたのを思い出した。この屋敷は確かに第二夫人の立場としては申し分ない立地ではあるが、領地内の屋敷でも仕事はできるのではないだろうか。
そこへちょうど執事長が先ほど届いたという書類を持って部屋にやってきた。
早速イリーナは質問してみる。
「領地のお屋敷に行ったことはありますか?」
イリーナの唐突な質問にも彼は笑顔で応じてくれた。
「ございますよ。小高い丘の上に建てられておりまして、このお屋敷よりは少し小さいのですが、避暑地としては最適です」
自分とメイド数人がそこに移るのであれば狭くても問題はないだろう。いや、メイドたちは王都から離れたがらないかもしれない。それなら領地で新たに雇入れればいい。雇用も生まれて一石二鳥ではないか。
王女がいなければ自分は伸び伸びと生活ができるし、それは王女も同じだろう。
とても素晴らしいアイディアに思えて、すぐにでも実行に移したかったイリーナではあったが、以前、相談をしてほしいと言われたクラウスの言葉を思い出した。
イリーナが領地の屋敷に移ると言ったら彼は反対するだろうか。しかし、王女に最適な屋敷がこれほど長く見つからないことは彼も想定していなかったはず。先日の様子から察するに彼はイリーナに後ろめたさを感じているようで、そうだとしたらこの屋敷を出ていけとは言い出しにくいのかもしれない。
なにかもっともらしい口実を見つけて領地へ向かい、そのままあちらに住みつくというのはどうだろうか。
王都からはもっと離れてしまうが、今の状況ではイリーナを心配してくれる友人たちをお茶に招くことすらできない。先ほど執事長は避暑地にぴったりだと言っていたから、彼女らには小旅行と称して宿泊してもらってもいいかもしれない。
こうなるともうイリーナの心は領地へと飛んでしまい、なんとか出かける口実を探す毎日となった。
天はイリーナに味方したのか、領地でちょっとした問題が起きた。
それは土地を巡ったちょっとしたいざこざであり、わざわざ領主が出向くような内容でもなく、かと言って放置してよい問題でもなく、つまりイリーナが口を出すのにちょうどいい内容であった。
「直接現地を見てから判断しましょう」
イリーナはあらかじめ用意してあったセリフを吐き、もちろんそれに反対する使用人はおらず、意気揚々と領地の屋敷へと向かった。
執事長の言っていた通り、小高い丘の上に建てられたその屋敷は、眼下の町を見下ろすようであった。逆を言えば町のどこからでも屋敷は見え、いかにも領主の館という風体であった。
「ようこそお越しくださいました、奥様」
屋敷を管理しているのは老夫婦と他数名の使用人で、みな、笑顔でイリーナを出迎えてくれる。
「みなさん、今日からよろしくお願いします。わたくしのことは、どうぞイリーナとお呼びください」
今回は使用人の全員に落ち着いて挨拶をすることができた。
仕事部屋には南向きの景色が良い部屋が用意されており、イリーナは一目でそこが気に入った。
「とてもいい眺めね」
その景色にイリーナはシヴォス家に嫁いで初めて、心からの笑顔をこぼしたのであった。
翌日にはさっそく訴訟の起きている土地へ向かい、両者の話を聞くことになった。
次期領主の夫人、直々の訪問に訴訟を起こしたほうも起こされたほうも恐縮しきっており、問題は無事解決することができた。
当初の予定通り、イリーナは翌日も、そのまた翌日も、領地について学びたい、と言っては、あちこちを訪問して回った。最初のうちは毎日のように帰宅予定を聞いていたメイドたちもそのうちイリーナが領地を巡るのが当たり前になったようで、
「今日は絹織物の工房を見学されてはいかがですか」
と提案までしてくるようになった。
こうしてイリーナの領地での生活はスタートしたのであった。
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