3.挙式翌朝の出来事
疲れていたのは本当で、イリーナは朝までぐっすりと眠った。
目を覚まして見慣れぬ天井にここはどこだったかと考え、自分は昨日クラウスと結婚し別邸に連れてこられ、王女の出迎えを受けたことを思い出した。
ベッドから降りると、昨夜脱ぎ捨てたウェディングドレスが目に入った。それはそのときのまま無造作に床に転がって、しわになっていた。
新郎の手によって脱がされることもなく、無残にしわくちゃになってしまったウェディングドレスがひどく不憫で、イリーナはぼんやりとそれを見つめていた。
そこで部屋の扉がノックされ、声をかけられた。
「イリーナ様、お目覚めでしょうか」
「はい、起きています」
「申し訳ございませんが、本日の晩餐のご相談をしたいとシェフが申しております」
その言葉にイリーナは、
「少しお時間をください、身支度を整えてからまいります」
と応じた。もしここが女主人の部屋であれば、内扉でつながる応接室があって、いちいち着替えをせずともドア越しでの会話が可能だっただろう。しかし与えられたのは客間でそのようなものはない。
イリーナは急いで着替えをし、軽く髪をまとめると部屋を出た。
廊下には昨日紹介されたメイドのひとりが待っていて、おはようございますと挨拶をした。
「おはようございます、お待たせしました」
イリーナはメイドにそう言ってから、
「あとで屋敷の中を案内してくださいますか?誰かについていかないとどこかに行けないようでは不便ですもの」
と言い、メイドは、かしこまりましたと微笑んだ。
第二夫人となったイリーナはこの屋敷を管理しなければならない。晩餐のメニューを決めることもイリーナの仕事であった。
特別な用事がない限り、屋敷の主人とその夫人は夕食を共にする。主人との食事は、女性はもちろん招待された男性も、簡易ではあるが、正装をして参加することになっている。
正装という特別な装いで食べるのだから、きちんとした食事を用意することが礼儀とされており、そのメニューを決めるのが屋敷を任されているイリーナの仕事のひとつであった。
メイドに案内された部屋はイリーナに与えられた部屋からほど近く、そこにはすでにシェフが待っていた。
「お待たせしました」
イリーナが声をかけると彼は頭をさげ、自己紹介をした。本来なら昨夜のうちに対面を済ませておくべきだった相手である。
「ご挨拶が遅れて申し訳ありません、イリーナと申します。どうぞよろしくお願いします」
イリーナとシェフは礼儀正しく握手を交わし、晩餐のメニューを決め始めた。
「本日は魚料理をメインにと考えております」
昨日の披露宴のメインが肉料理だったから配慮した結果だと思うが、イリーナは眉をひそめた。
「王女様はお魚を召し上がるかしら」
「それはどうでしょうか」
「彼の国はあまり魚料理が好まれないと聞いています。そうですね、肉料理のなにかあっさりとしたものにしてはどうでしょうか」
イリーナの言葉にシェフは、
「王女様はすぐにお帰りになられると伺っておりますが」
と言った。昨晩の様子から察するにクラウスと王女は親密だったし、そうでなくても、昨日来て今日帰るということはさすがにしないだろう。
「まだお見えになられたばかりですもの、数日は滞在されるでしょう」
それから室内に立っていたメイドに、
「王女様の侍女にご予定を確認してください」
と指示をした。
イリーナの提案でメインは肉料理に変更され、そうなると前菜やデザート、ワインも変えられた。
おおむね決まったところで、
「では、よろしくお願いします」
とシェフにお願いし、彼は仕入れの為にと急いで部屋を出て行った。
彼と入れ替わりに入ってきたメイドがイリーナをダイニングへと誘った。
「お食事の支度が整いました、ダイニングへご案内いたします」
イリーナは少し迷った後、
「この部屋でいただくことはできますか?」
「それは、もちろんでございますが」
「では、こちらでお願いします。ここはわたくしの仕事部屋なのでしょう?少しでも早く整えて、仕事に取り掛かりたいわ」
イリーナの笑顔にメイドは微笑んで、かしこまりました、と部屋を出ていった。
黙ってそれを見送ったイリーナであったが、本当の理由は、ダイニングに行ってクラウスや王女に会ったら、どんな顔をしていいかわからなかったからだった。
ウェディングドレスを自分で脱ぐ花嫁ほど惨めなものはない、王女にはきっと揶揄われるだろうし、クラウスに憐れまれるのも嫌だった。
シェフとの会話ではああ言ったが、本当は誰よりも王女に帰ってほしかったのはイリーナだった。彼女がこの屋敷にいる限りイリーナに安息はない。いや、自分に安息の場など、あるのだろうか。
窓から吹き込むさわやかな風とは対照的に、イリーナの心のうちは沈んでいった。そんなふうに暗い思いに溺れていたせいなのか、よくないことを引き込んでしまったようだ。
先ほど出て行ったメイドは手ぶらで部屋に戻ってきて、申し訳なさそうに言った。
「旦那様が、イリーナ様と食事をご一緒になさりたいと、ダイニングでお待ちでございます」
「そう、わかりました。行きましょう」
イリーナは貴族令嬢らしく作り物の美しい笑みを浮かべ、メイドのあとについてダイニングへと向かった。
ダイニングにはすでにクラウスがいて、彼はイリーナの着席を待ってから口を開いた。
「イリーナ、昨夜はすまなかった」
その言葉に給仕のメイドの手がほんのわずかに止まったことをイリーナは見て見ぬふりをし、
「おはようございます、クラウス様」
と言って、先ほどと同じ笑顔を向けた。
こんな風に使用人が居並ぶ中で初夜の不在を謝罪するなど、クラウスはイリーナに恥をかかせたいのか。もちろん屋敷の誰もが昨夜のことは知っているだろう。だとしても、主がそれを認め謝罪するなど、してはならないことだ。
イリーナの怒りが伝わったのか、クラウスはしどろもどろに朝の挨拶を口にし、それっきりふたりの間には沈黙が落ちた。食欲のなかったイリーナではあったが、目の前に並べられた品々はどれもおいしそうで、なんとか食事を終えることができた。
会話の全くない朝食を終え、席を立ったイリーナをクラウスが呼び止めた。
「イリーナ、今日の予定は?」
彼はなにを言わせたいのだろう。イリーナはこの屋敷の管理をするために嫁いできた、それ以外の予定などあるはずもない。
「今から、家政婦長に仕事を教わります」
「その前に屋敷を案内するよ、どこになんの部屋があるか分からないと困るだろう?」
「それでしたら必要ございませんわ、先ほど見取り図で教わりましたから」
イリーナの言葉にクラウスは少し黙ってから、
「そうか、イリーナは勉強熱心だね」
とつぶやくように言った。
彼の意図がつかめないイリーナは、ありがとうございますと小さく礼を言い、しばらく黙っていたがクラウスはそれ以上なにも言わなかった。
用がないのなら仕事に取り掛かりたい。イリーナはクラウスに断りを入れ、その場を辞そうとすると、王女がやってくるのが見えた。
使用人たちと同様に廊下の端に移動しようとするイリーナの手をクラウスがつかむ。驚いてクラウスを見るが、彼は王女のほうに顔を向けていて表情までは読み取れない。
「おはよう」
手をつないだ形になっているクラウスとイリーナへの王女の態度は辛辣だ。
「おはようございます」
何食わぬ顔で王女に挨拶をしているクラウスはどういう神経をしているのか。
居心地の悪いイリーナは、小声で挨拶を告げるのが精いっぱい、手はクラウスにつかまれたままでお辞儀すらさせてもらえない。
「こんなところに二人でどうしたの?」
「イリーナと朝食を」
「それならわたくしも呼んでちょうだいな」
「王女様は一応、当家のお客様ですから」
確かに、客と食事を共にするのは晩餐だけだ、王女好みのメニューにしておいてよかった。彼女は今夜の晩餐に参戦するのだろう。
「今夜のメニューはカモ肉でございます」
「いいわね、楽しみだわ」
イリーナの言葉に王女は喜んだが、クラウスは眉をひそめている。
「わたしたちの披露宴は肉料理だったじゃないか」
わざわざ『わたしたちの』とつけるのは止めてほしい、せっかく王女の機嫌が直ったというのに、彼女はまた怖い顔に戻ってしまった。
「あっさりとした味付けにするようシェフに伝えてありますので、クラウス様にもお楽しみいただけますわ」
納得したわけではなさそうだったが、クラウスはそれ以上言及することはなかった。
「わたくしは仕事がありますので、これで」
イリーナは王女が爆発する前にその場を離れることにした、が、クラウスが火に油を注いでしまう。
「送っていく」
彼はさっさと歩き出してしまい、それに引きずられる形でイリーナも後に続くしかなかった。王女がどんな顔をしているか、恐ろしくて振り返ることもできない。
「クラウス様、王女様の許可も得ず、あの場を離れてよろしいのでしょうか」
通常、高位の者から退出するのだが、やむを得ず下位貴族が先に場を離れるときは、高位貴族の許可を得ることが礼儀とされている。
先ほどの場合は王族である王女が最も高位とされるため、彼女の許可なく立ち去ったことをイリーナは指摘しているのだ。
「ここはわたしの屋敷だ、だいたい彼女は招かれざる客。こちらの都合も考えずに押しかけてくるような無作法な人間に敬意を払う必要はない」
イリーナの知るクラウスはこんな風に冷たい物言いをする人物ではない。昨晩、イリーナと別れたあとでふたりの間にはなにかあったのだろう。こんなとき、第二夫人としてはどのような言葉をかければいいのか。
考えてみたところで思いつくことなどなにもなく、イリーナはただ黙ってクラウスの後についていくしかなかった。
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