2.挙式当日
挙式当日、イリーナはメイドたちの手によって例のウェディングドレスに着替えさせられた。
このひと月、まともに顔を合わせていなかった家族の前に姿を現したイリーナに、伯爵は声をつまらせ、夫人はそっと涙をぬぐった。
「大丈夫、きっと大丈夫よ」
夫人は、恐ろしいほどに冷え切ったイリーナの手をしっかりと握ってそう言った。
なにがどう大丈夫なのか、イリーナは問いただしたい思いを必死にこらえて、マルティ伯爵のエスコートで式場へと足を踏み入れた。
シヴォス公爵家の権威にふさわしく、多くの人が会場に詰め掛けていた。その視線の中をマルティ伯爵の歩みに合わせてイリーナは進み、ついにクラウスへとその身を引き渡された。
数年ぶりに会った彼は相変わらず美しい青年のままだった。イリーナの好みに合わせて伸ばしてきた長髪もそのままである。
「イリーナ」
差し出されたこの手を取ってしまったらもう後戻りはできない、自分は彼の第二夫人として、愛されることもなく、生涯を終えるのだ。
誰にも看取られることなく、ひとり寂しく逝く姿が目に浮かび、イリーナは一瞬のためらいを見せた。しかしそれを見逃してくれるクラウスではない。彼はイリーナの手を強引につかみ、自らの腕に添えさせた。
それからあとはあまりよく覚えていない。気が付いたら式は終わっていて、そのあとに続く披露宴の為に用意された新郎新婦の控室でひとり静かに座っていた。
「なにか召し上がられますか?」
イリーナを見張るように部屋に控えていたメイドがそう言ったが、食欲などあるわけもない。
「ありがとう、でも結構です」
イリーナはそう答え、これからどうなってしまうのだろう、とぼんやりと考えることしかできなかった。
やがてドアをノックする音がし、クラウスが入ってきた。彼はイリーナを見るなり彼女に駆け寄って、
「大丈夫なのか?」
と言った。
この状況で大丈夫な令嬢なんているのだろうか、イリーナはそう思ったがそれは口にせず、
「大丈夫ですわ」
と美しい笑顔で応じた。
披露宴会場には、挙式に参列していた以上の人数が集まっていた。
さすがにクラウスを見初めたという王女自身は不在であったが、王女の異母兄弟にあたる王太子は出席していた。クラウスと同じ講義を受け、意気投合したという王太子は砕けた口調でイリーナに言った。
「イリーナ嬢の手紙が届いた日のクラウスは見ものだったなぁ」
「言わなくていい」
「クラウス、夫婦間に隠し事はよくないぞ」
彼はすでに結婚しており、先日、王太子妃の懐妊が発表されている。夫婦という意味では彼のほうが先輩であるため、クラウスは言い返せない。
しかし、イリーナは聞きたいとは思わなかった。クラウスは留学中、王女と仲睦まじく過ごしていたのだ。少なくともイリーナにとって楽しい話にならないだろう。
「あとでこっそりと教えてもらうことにします」
イリーナの笑顔に王太子は笑い、
「首の皮一枚でつながったな」
と言い、言われたクラウスはむすっとした顔をしていた。
午後の早い時間に始まった披露宴ではあったが、たくさんの招待客との歓談を終えるころにはすっかり日が落ちてしまった。まだまだ盛り上がりを見せているパーティ会場から主役のふたりは抜け出し、ひとまずの住まいとなるシヴォス邸別宅に向かった。
馬車の中はクラウスとイリーナの二人きりだ。婚約中であればメイドや従者を同乗させることもできたが、夫婦となったふたりには不要の存在だ。
重苦しい沈黙の中、クラウスが口を開いた。
「イリーナ、さっきの話だけど」
さっきの話と言われてもイリーナにはわからない。そのくらい、今日は大勢のひとと挨拶をし、話をした。
「申し訳ございません、わたくしには何のことかわかりかねます」
イリーナの返事にクラウスは、少し目を見開いてそれから、
「そうか。なら、いい」
と言い、黙って窓の外に視線をやった。
疲れ切っていたイリーナも話をすることはなく、やがて馬車は別邸へと到着した。
クラウスは先に降り、イリーナに手を差し出した。
この国の風習では、花嫁は花婿に抱き上げられ、そのまま寝室へと運ばれる。夫となった男性の手でウェディングドレスを脱がされ、初夜を迎える、というのが一連の流れとなっていた。
しかし、
「クラウス!」
クラウスがイリーナの手をつかむより早く、彼の手に飛びついたのは、
「王女様、何故ここに?」
王女と呼ばれたその令嬢は、驚きの声を上げるクラウスの腕に絡みついて、
「決まってるでしょ、あなたに会いに来たのよ」
と言い、挑戦的な目をイリーナに向けた。
「あなたがイリーナね、話は聞いているわ。わたくしにしっかりと仕えるように」
それは命令しなれた王族の口調そのもので、イリーナは素早く馬車を降りると、その場でお辞儀をした。
「イリーナでございます。精一杯、勤めさせていただきます」
「止めて、イリーナ」
そんなイリーナをクラウスは咎め、王女に言った。
「イリーナはシヴォスに尽力するのです。そして貴女は我が家とはなんの関わりもないひとだ」
イリーナが初めて聞くクラウスの厳しい物言いにも、王女は微笑んだ。
「そうやって注意してくれるのはクラウスだけよ」
ありがとう、と王女は言い、そこで初めてイリーナも、王女という立場を慮ったクラウスの発言だったのだと気が付いた。
クラウスが自分の為に怒りを見せてくれたのだと勘違いしたことを恥じると同時に、それにいち早く気付いた王女はやはり自分よりも長く彼と同じ時を過ごしたのだ、と思い知らされた。
考えにふけるイリーナを尻目に、王女はクラウスに言う。
「素敵なお屋敷ね、案内して頂戴」
「王女様、わたしはこれから」
「わたくし、さっき到着したばかりなの。勝手で悪かったけど荷物は入れさせてもらったわ」
王女の言葉にクラウスは慌てたように屋敷の中に入っていき、彼と腕を組んでいた王女も当然それについていく形となった。
バタバタと二人が姿を消し、その場にはイリーナと、この屋敷の女主人となったイリーナに対面すべく一列に並んだ使用人たちが残された。
一番先頭に立っていた年若い男性、おそらくこの屋敷を任されている執事長が気まずそうにイリーナに声をかけた。
「奥様、ようこそお越しくださいました」
その声にイリーナはハッとして、慌てて居住まいを正した。
「イリーナと申します、今日からよろしくお願いします。わたくしのことはイリーナとお呼びください」
「ですが」
反論しかけた執事長にイリーナは首を振り、居並ぶ使用人の全員に向けて言葉を発した。
「本日よりみなさまのお仲間となりましたイリーナです。先輩の皆様方、どうぞよろしくお願いいたします」
そう言って丁寧に頭を下げ、それから部屋に案内してほしい、と言った。
「お部屋は、まだ、整っておりませんので」
そんなはずはない、イリーナの住まいがここに定まったのは昨日、今日の話ではない。たぶん、王女がイリーナのために用意してあった女主人の部屋を強引に奪ったのだろう。
だが、それは正しい。イリーナはいずれ、公爵領の屋敷に送られるか、あるいは離縁されるか。いずれにせよ、イリーナが女主人の部屋を使ってはならないのだ。
「空いている客間でかまいません。今日は疲れました、もう休みたいのです」
イリーナが身に着けているのは新郎から贈られたウェディングドレスでそれを脱がせていいのは贈った人物ただひとりだ。物申したいのだろう執事長にイリーナは微笑んだ。
「大丈夫、ひとりで脱げます。それに王女様は今夜、クラウス様が傍を離れることをお許しにならないわ」
努めて穏やかな笑顔で、再度、お願いします、と口にするイリーナに彼は反論を諦め、自分のすぐ後ろに立っていたメイド二人を、イリーナの専属だと紹介し、彼女らによって部屋に案内された。
そこは大きめの部屋ではあったが、明らかに客間であり、女主人の部屋ではなかった。事前に伯爵邸から送っておいたイリーナの私物はひとつもなく、たぶん、どこか別の場所に保管されているのだろう。
「ありがとうございました、おやすみなさい」
イリーナはメイドふたりにそう言って部屋から追い出すと、ようやく大きく息をついた。
誰もいない部屋はひどく静かで、耳をすませば王女の嬌声が聞こえてくるようだった。
『わたくしに仕えるように』
王女の言葉がよみがえる。
「言われなくてもわかってるわ」
イリーナはそうつぶやいてから躊躇なくウェディングドレスを脱ぎ捨てると、早々にベッドにもぐったのであった。
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