1.第二夫人になるまでの経緯
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マルティ伯爵令嬢のイリーナの婚約者はシヴォス公爵家の次期当主のクラウスだ。
伯爵家と公爵家では明らかに家格が違うのだが、両家はイリーナが産まれるずっと前から付き合いがあった為、両家それぞれに男女が誕生したのならば、婚約が結ばれるのは自然なことだった。
正直、公爵などという大貴族の夫人になるなど分不相応もいいところだと乗り気になれないイリーナではあったが、貴族として生まれたのであれば親の決めた相手との結婚は絶対だ。
それくらいはイリーナもきちんと心得ていて、顔合わせの為に訪れたシヴォス家でも、貴族令嬢らしく美しい微笑みをその顔にのせていた。
対面したクラウスはとんでもない美青年であった。
「初めまして、イリーナ嬢」
そう言ってイリーナの手に恭しく唇を落とすこの貴公子に、彼女はすっかり心を奪われてしまった。
「イリーナ・マルティです、どうぞよろしくお願い致します」
二人の対面が滞りなく済んだことに、両家の両親はほっと胸をなでおろしたのであった。
それからは何事もない日々であった。
クラウスはイリーナを心から大切にしてくれたし、そんなクラウスにイリーナも惹かれていった。
だからクラウスの留学が決まったときはひどくがっかりした。しかし彼は次期公爵、学ぶべき事柄は多い。イリーナが引き留めていいことではなく、笑顔で彼を見送り、クラウスのほうも名残惜しそうにイリーナを抱きしめ、
「帰国したらすぐにでも式をあげよう」
と言い残し、出発したのであった。
留学中、クラウスは頻繁に手紙をよこしたし、イリーナもせっせと返事を書いた。彼からの手紙の最後にはいつも、早く君に会いたい、と記してあり、イリーナもそれを信じていた。
雲行きが怪しくなったのはクラウスの通う学院にその国の王女が入学してからだった。王女がクラウスを見初めたらしい、という噂が社交界に広まったのだ。
それを聞いたとき、イリーナはなにかの間違いだと思ったし、マルティ伯爵夫妻はもちろん、シヴォス公爵夫妻からも、
「イリーナさん、妙な噂があるようだけど、気にしないでね」
「あいつは君に首ったけだからな」
と言われた。
シヴォス公爵夫妻の言葉にイリーナは赤面しつつも、公爵様がおっしゃるのだからその通りなのだろうと思うことにした。
それなのに。
「クラウス様と王女様の婚約が決まったそうだ」
珍しくマルティ伯の執務室に呼ばれたイリーナは、伯爵からそう告げられた。
「そのことについて、明日、シヴォス公爵邸に来るように言われている。できればおまえにも来てほしいと」
イリーナとクラウスの婚約は正式な契約書に基づいている。王女と婚約するのならば、こちらの婚約は破棄だ。それに同意するイリーナのサインが一刻も早く欲しいのだろう。
残念だとは思ったが相手が王女では勝ち目はない。そもそも伯爵家と公爵家では家格が釣り合わなかったのだから、これでよかったのだ。
イリーナはそう自分に言い聞かせ、シヴォス公爵邸に出向くことを承知したのであった。
マルティ伯爵とイリーナがシヴォス公爵邸に行くと、公爵夫妻はすでにサロンでふたりの到着を待ち構えていた。
「マルティ伯、よく来てくれた」
「ようこそ、イリーナさん」
夫妻は並んで二人を出迎え、それは伯爵位に対する礼儀の域を超えており、それだけにシヴォス家の後ろめたさが伝わってくるかのようだった。
紅茶が全員にふるまわれ、給仕のメイドがサロンから退室したところで、シヴォス公爵が口火を切った。
「クラウスの話は伝わっていると思うが」
その言葉にマルティ伯は淡々とした表情でうなずいた。
「はい、王女様とのご婚約がお決まりになったとか。おめでとうございます」
マルティ伯爵が頭を下げ、イリーナもそれに倣った。
「それでイリーナ嬢なのだが」
シヴォス公爵は一度言葉を切り、イリーナはその沈黙にそっと目を閉じた。
どのような理由があったとしても、婚約を破棄された令嬢に良縁は来ない。小さくとも領地を持つ貴族に嫁げれば御の字、ともすれば一代限りの男爵家に片づけられることもあるだろう。
やはり、分不相応なクラウスとの婚約は断るべきだったのだ、と思考するイリーナに告げられた公爵の言葉は、心底信じられないものだった。
「近々クラウスが帰国することになった。帰国後、すぐにでも二人の式を挙げたいと思う」
思わず顔を上げたイリーナをシヴォス公爵はまっすぐに見据えており、それが冗談でないことは明白だった。
「王女様とのご婚約がお決まりになったのでは?」
イリーナの隣に座っていたマルティ伯爵も困惑している。
「そちらはまだ本決まりではない。クラウスの婚約者はあくまでイリーナ嬢なのだから、挙式は予定通り行いたい」
イリーナには公爵の言っていることがさっぱり理解できなかった。
王女との婚約を控えているのなら、このタイミングでイリーナと結婚するのは明らかにおかしい。それとも、クラウスが長年の婚約者を捨てて王女を選ぶような男だと思われたくないのだろうか。仮にそうだとしてもシヴォスは公爵位。内心でそう思ってたとしてもそれを口に出せる者はそういない。
それとも、イリーナと結婚し義理を果たした後すぐ離縁をして、改めて王女と婚姻を結びたいのか。しかし離縁のほうが余程大きな醜聞だ、仮面夫婦だとしても離縁しないのが貴族のやり方なのだから。
そこまで考えてイリーナは自身の考えに青ざめた。
クラウスはイリーナと王女の二人を妻とするつもりなのだ。
確かに王族に並ぶ権威を持つ公爵ならば、複数の夫人を抱えていてもおかしくはないし、現にそういう家もある。
家格を考慮すればイリーナは第二夫人に決まっている。第二夫人は夫人と名がつくものの、実際には第一夫人の補佐的役割であり、使用人の筆頭程度の意味合いしか持たない。だからこそ、その座には第一夫人の息がかかった人物、要するに夫の愛を求めない女性が選ばれるのだ。
ふたりの夫人は王都の屋敷と領地の屋敷で住み分けをしており、社交の中心である王都に住まうのが第一夫人、領地で夫を待つのが第二夫人となっている。つまりイリーナは領地送り確定だ。
シヴォス領は王都からそれほど離れてはいない、今、イリーナと付き合いのある令嬢たちと行き会うこともできなくはないが、頻繁に行き来できる距離ではない。
クラウスとイリーナは、燃え上がるような恋ではなかったかもしれないが、それでも彼から届く手紙を心待ちにしていたことは事実だ。
しかし、そう思っていたのはイリーナだけだったのだ。クラウスは王女の補佐役としてイリーナを選んだ。彼の愛する女性を助ける役目をイリーナに与えようとしている。
そう考えたらこの申し出は到底、承諾することはできない。
しかし、現実は残酷だ。
「仰せのままに」
マルティ伯爵はそう応じ、その回答にシヴォス公爵は小さくうなずいている。
そうなのだ、当主にとって、イリーナ個人の想いなどどうでもよいことなのだ。
この婚姻がもたらす利を考えればマルティ側に否はない。シヴォス公爵の硬い表情から察するに、彼も無理を押している自覚はあるのだろう。それを承諾したのだから、マルティとしてはシヴォスに貸しを作った形になる。
公爵家への貸しならば大いに利用できる。伯爵はそう判断したのだ。
イリーナは泣き出したい想いを胸に、マルティ伯爵と同様、頭を下げたのであった。
悪夢のような面会の後、イリーナは部屋に閉じこもって誰にも、家族にすら会おうとしなかった。
それでも式の準備は着々と進み、とうとうウェディングドレスが届けられてしまった。それはシヴォス公爵家の名に恥じぬ素晴らしいドレスで、それが余計に滑稽に思えたイリーナはメイドにドレスをしまうように言った。
「ですが、それではお客様が」
「いいのよ、誰が見に来るわけでもないもの」
花婿に贈られたウェディングドレスは挙式まで花嫁の私室に飾られることになっている。花嫁のもとを訪れた友人たちは、そのドレスを鑑賞し、称賛し、彼女の幸せを祈るのだ。
しかしイリーナはすべての面会を拒否していた。
第二夫人にさせられる自分に幸せなどあるものか。笑い者にされるくらいなら、誰とも会わないという非常識を選んだのであった。
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