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『九坊 - kubo -』  作者: 新開 水留
98/146

[97] 「新開」29


「……お前、聞いたよな」

 真っ暗な玄関で靴を脱ぎながら、穂村光政が僕にそう尋ねた。

「警察署で、お前」

「いや、後にしないか?」

 僕は小声で光政を遮ると、玄関扉に設えた明り取りの小窓から差し込む月光を頼りに、両手を広げて見せた。

 今この状況を考えてくれ、と促したつもりだった。

 深夜に許可なく他人の家に入ったのだ。

 確かに、鍵はかかっていなかった。

 しかし田舎ではそれはよくある話だし、鍵がかかっていないからといって勝手に入っていい理由にはならない。ましてや坂東さんの透視が間違いでないなら、家人は一人しかいない。傍から見れば僕たちは泥棒だ。家主と揉めた場合、負けるのは僕たちの方なのだ。それなのになぜ今、呑気に喋り始めたんだ、この男は……?

 僕は不服そうに口を歪める光政にため息を付き、玄関のその場でしゃがみ込んだ。

「なんだよ、何が言いたいんだ」

 光政も僕に倣ってしゃが込み、小声でこう答えた。

「警察署で揺れを感じた時、お前、以前にも同じ経験をしたか聞いたじゃねえか」

「ああ、君たちは答えなかったね」

「知ってるぞ」

「……え?」

「何度か経験してる」

「そう……なのか?」

「アレがなにかは分かんねえよ。けどあの轟音と揺れの後、必ずやばいことが起きるって、ビスケさんが言ってた」

「ビスケさんが?」

「もう昔の話だからあの人は覚えてないかもしれねえ。俺たちがまだこの村にいた頃は、いつもあの揺れが起きた後は逃げるようにその場を離れてたから、実際に何かを見たとか聞いたとかは一度もないんだ。だけど、お前は信じてないもしれねえけど、ビスケさんの予知は本物なんだ。だから」

「……だから?」

「もしまた揺れを感じたときは、俺は逃げるぞ。呪われたくねえかんな」

「じ……じゃあ、君たちは、まさか……」

 

 ずーっとそうやって、ビスケさんの予知を頼りに呪いを回避し続けてきたっていうのか……?


 家の奥から物音が聞こえた。

 驚きのあまり光政はその場で尻もちをつき、自分の両手で口を覆った。

 僕は人差し指を唇に当て、音のした方向を見やった。

 廊下の奥に、灯りの漏れている部屋があった。

 椅子の脚が床をこする「ココー」という乾いた摩擦音のあと、ペタペタと床を歩くスリッパの音が聞こえてきた。やがて水道から水が流れる音、蛇口をひねる音が聞こえ、物音は止んだ。灯りの付いたその部屋に、誰かがいるのである。

 僕が靴を脱いで廊下に上がった時、しゃがみ込だままの光政が僕の手を握って止めた。

 僕は体を負って光政に顔を寄せ、「匂うかい?」と聞いた。

 光政はゆっくりと鼻口を覆っていた手をどけ、やがて「いや」と頭を振った。

「行こう。直政に叱られるぞ」

 兄の名前を出されたことで光政は奮起したが、あくまでも嫌々という素振りを隠さなかった。

 なんとなくだが、穂村兄弟とはあの兄貴があってこその突進力なのだな、と妙に納得する部分があった。気の強さや短気さは二人ともがそうだが、実際は兄直政がいなければ、光政はそこまで凶暴ではない。だからなんだと言われても、僕自身特にこれといって有益な情報とも思えない。ただ、彼らの人間らしい素の部分が垣間見れたことは収穫と言えなくもない。穂村兄弟と接するのであれば、今後は必ず一人ずつにしよう。二人揃ってしまうと、実に厄介だから。

「さあ、行くよ」



 幻子から電話で聞いた話の内容が、いまだに僕の中で整理し切れていなかった。 

 『加藤塾』にて幻子に出された指示は、三神さんの日記に『U』と記されていた女性の居所を調査することだった。その幻子がこう言うのだ。

「『U』が、柳菊絵の家にいるかもしれません」

 『U』とは、由宇忍のことだと思われる。彼女もまた美晴台の人間であり、事件の重要参考人であり、かつて美晴台の崖団地に住んでいた僕にとってはご近所さんである。そして今なおR医大病院で呪詛と闘う三神三歳に、『九坊』を移した張本人だとされている。三神さんは身を挺してまでそんな由宇の相談に乗り、隠れ家を用意するなどして最後まで彼女を守ろうとしていたのだ。

 僕は幻子の推測を思い返しながら、ひょっとしたら自分に呪いをかけていたかもしれない人間たちが住まう家に、なぜまた『U』がのこのこと戻ってきているのか、そこが気になり興奮が治まらなかった。三神さんが用意した隠れ家が柳家であるはずがない。だとしたら由宇は、理由がなんなのかは分からないとしても、あえて自らの意志でこの家に留まり続けていることになる。三神さんに悪いと思わないのか……? 

 ……いや、そうじゃない。

 理由なら実際は、すでに分かりかけている。

 奈緒子ちゃんという名の、菊絵の孫の存在である。

 六花さんとめいちゃんが訪れた時、奈緒子ちゃんはこの家の人間に向かって「お母さん」と呼んだそうだ。あの時からすでに由宇忍がこの家にいたのであれば、彼女こそが奈緒子ちゃんの母親、ということになってしまう。しかしその場合だと、由宇はかなり若い年齢で奈緒子ちゃんを妊娠し、産んだことになるのだ。果たしてこれは単なる偶然なのか? そもそも、そんな天文学的な偶点の一致が現実に起こりえるのだろうか?

 恐る恐る、僕と光政は廊下の奥に位置する部屋の前に立った。すると、


 ふふ。


 せせら笑うような声が聞こえた。それはまるで思い出し笑いのようでもあり、覚悟を決めた人間の乾いた笑い声のようでもあった。

 その部屋には扉がなく、廊下と隔てる境界線に立つと、室内にいる人間の背中が見えた。シルエットを見る限り、女性だと思った。その女性はダイニングキッチンの真ん中に置かれた食卓に向い、僕たちには丁度背中を向けるかたちで座っていた。笑い声は、彼女から発せられたものだろう。

「すみません」

 と、そう声をかけるつもりで口を開いたその時、由宇忍は言った。


 あの人、どうなった?


 僕は口を噤み、言葉を呑み込んだ。

 右手が、握りこぶしに変わった。


 聞こえないの? そこにいるんでしょう?


 由宇忍が振り返り、そして立ち上がって僕を見つめた。

 僕たちは十数年振りに見つめ合った。

 あの時、崖団地で本当は何が行われていたのか。

 あの時、なぜ君は僕の住んでいた部屋の前まで来たのか。

 引っ越した後はどこでどんな暮らしをしていたのか。

 どうして今頃になって『九坊』を引き連れて現れたのか。

 なぜ呪いを受けるはめになってしまったのか。

 三神さんとは一体なにがあったのか。

 なぜ今あなたはここにいるのか。

 本当に、柳奈緒子はあなたの娘なのか。

 聞きたいことは山ほどあった。

 僕と由宇忍の間に横たわる時間という名の深い川もあった。

 確かに、面影のある顔をしていた。

 彼女の表情から察するに、僕が誰なのかも覚えているだろう。

 僕も、彼女のことを覚えている。

 いや、思い出したのだ。

 彼女は、由宇忍だ。

 

 だが、一瞬にして僕の脳味噌から、両腕一杯に抱えていた疑問符が消し飛んだ。




 由宇忍は……妊娠しているのだ。

 




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