[7] 「めい」2
「昨日は、ごめんね」
隙を見てそう声を掛けると、姉は一瞬なんのことだか分からない顔をした後、やがて思い至った様子で私の肩に手を回した。「気にしてないよ」
「本当に?」
尚も聞くと、姉は私とともに立ち止まり、他の人たちを先に歩かせて見送った。
私と姉は、加藤塾の入った雑居ビルの二階、階段の踊り場で正面から向き合あった……。
年上ながら、親愛の気持ちをこめて『まぼちゃん』と呼ばせてもらっている天正堂の霊能者、三神幻子が台湾から帰国すると聞いた。新開さんの頼みを受けて私と姉は車でまぼちゃんを迎えに行ったのだが、予期せぬ出来事により、二神七権さんのご自宅でまぼちゃんと再会することは出来なかった。すれ違いになったとの知らせ受け、三神さんの入院する病院へ到着した時、すでにまぼちゃんを始め、新開さんや坂東さん、その他黒いスーツを着た見知らぬ男性などもいて、院内は物々しい空気に支配されていた。
『三神さんが呪いをくらった』
姉からそれ以上のことを知らされていなかった私だが、病院の総合待合に足を踏み入れた瞬間から、魂が拒否反応を示すほどの『声』を聞いて、膝から崩れ落ちそうになった。笑い声なのか泣き声なのか、会話なのか独り言なのか、言語として判別出来ない無数のおぞましい『声』が、ある一室から漏れ出ていた。明らかにこの世のものではないその『声』の中心に、三神さんがいるという…。
事前に知らされていた。しかし、私は取り乱した。そして怖かったのは、取り乱しているのが私一人だけだったことだ。誰もが皆、沈痛な面持ちを浮かべながら、嘆くことも泣くこともせず、今後のことをぼそぼそと話し合っていたのだ。
「どうしてッ!」
なにがどうしてなのか、それは私にも分からない。だが、言わずにはおれなかった。
何故皆こんな所で、ぼーっと突っ立っているんだ。あんなに怖い所に、あんなに暗く寂しい場所に三神さん一人置いて、なぜ何とかしようと思わないのか。おそらく私はそういった感想を抱いたと思うのだが、いかんせん気持ちばかりが先走って、明確な意見を口に出来るほどの冷静さを保っていなかった。
「お、お姉ちゃん!お姉ちゃんなら、三神さんを治せるんでしょ!? どうして!お姉ちゃん三神さんが!お姉ちゃんッ!」
私は姉の腕に縋り付き、三神さんのいる病室まで引っ張って行こうとした。だがそんな私を止めたのは、姉ではなくまぼちゃんだった。
「めいちゃんありがとう。だけど、いくら六花さんでも、これは無理なんだよ」
優しい声でそう言われ、私は訳が分からなくなって泣き崩れた。
姉はそのまま私の肩を抱き、言葉で説明するのは難しい、申し訳ないと何度も詫びた。
机と椅子、入り口正面を向いて設置された自立式の大きなホワイトボードしかないその部屋は、言われてみれば学習塾に見えなくもない。だが言ってしまえばそれしかない酷く殺風景な部屋には、長年使用されないせいで留まり続けた重たい空気がどっぷりと居座っていた。
「うわぁ」
思わずそう零す。だが換気のために窓を開け放とうとした私の手を取って、駄目だ、と坂東さんが首を横に振った。
坂東さんがホワイトボードの前に立ち、他の人たちは思い思いの席にばらけて座った。
今日この場に居合わせたのは、以下の七名だ。
まずはチョウジから坂東さん、そして有紀さんといって、ベテランの風格漂う四十代くらいの男性。臨時とはいえ、立場上は新開さんもチョウジの職員であるらしい。そして天正堂から、小原さんと仰る五十代後半と思しき紳士。次に、三神幻子。そのどちらにも属さない立場として私の姉、秋月六花、そして私だ。
坂東さんは皆の顔を見渡すと、挨拶も述べずに黒マジックで、
『呪』
とホワイトボードに一文字だけ書き、その周囲をぐるりと丸で囲んだ。
坂東さんは両肩を上下させて溜息を付き、一同に向けてこう言った。
「時間はない。だが、急がば回れとも言う。この先俺たちは団体ではなく各自、目的を持って動いてもらうことになる。この段階で一度、情報を共有しておく必要がある。その為にはまず、…めい、お前にも分かるように説明してやる」
「わた、わた、しですか?」
「質問があるんじゃないか?」
そう言われ、思わず隣に座る姉を見る。姉は笑顔で頷き、目でゴーサインを出した。
「あの…。あ、姉にも治せないものがあるんですか?」
躊躇いながらも私がそう尋ねると、坂東さんは一瞬視線を足元に落とし、頷いた。
「そう、なぜ俺が、偽名を名乗っているのか」
「え?いや」
「俺だけじゃない。六花姉さんも、天正堂の二神の爺様も、ここにいる小原代表代理も、幻子も、三神のオッサンだってそうだ。ある程度力と肩書を持っている人間は皆、名前を変える。いずれ、新開にもそうしてもらう。…こいつぁ、遅いくらいだけどな」
「いや、あの」
そんな事を尋ねた覚えはない。だが狼狽える私の手を取り、姉が再び頷いて見せた。
「こういう仕事をしている人間にとって」と坂東さんは続ける。「怖いのは、霊障そのものじゃない。俺たちはなにも仮想の敵と戦っているわけでもなければ、ファンタジーの世界に住んでるわけでもない。一般人には理解し難い超常現象を相手取ってるとは言っても、そいつはれっきとした人間世界で起こる出来事だってことだ。だから俺たちはなによりも、こいつを嫌う」
坂東さんは手に持ったマジックペンで、ホワイトボードを、コツ、と叩いた。
そこにある「こいつ」とは、『呪』だ。
「めい。十年前、『しもつげ村』で大神鹿目と事を構えた時、現場にいたお前ならその目で見てるだろう。六花姉さんが治せない外傷なんて、ない」
そうなのだ。
まだ中学生だった私の記憶にも、はっきりとそれは刻み込まれている。あの時も、そしてその後に体験した様々な怪現象の現場においても、姉の治癒能力はこれまで私が見て来たどんな霊能力よりも圧倒的だった。ほとんど超能力だ。人間がもつポテンシャルを限界まで引き延ばせたとしても、誰もが手に入れられる力ではないだろう。例え自分の顔面をぐじゃぐじゃに吹っ飛ばされようとも、命が消え失せる速さを上回る速度で完全に修復してみせる。姉は、奇跡を起こせるのだ。
「それなのに…?」
「それなのに、だ」
坂東さんは断言し、新開、と一番前に座る新開さんの名を呼んだ。
「仮に六花姉さんが三神のオッサンの身体を治して見せた場合、その後どうなる?」
「ああ、いやぁ…」
新開さんは私を振り返って、返答に困るような表情を浮かべた。
「教えてください、新開さん」
私がお願いすると、新開さんは私に横顔を向けて、言葉を選びながらこう答えた。
「あるいは、三神さんであれば、ご自身でも治せるんだよ。そのー…外傷以外の部分をね」
「外傷、以外?」
「六花さんであれば、逆に全ての外傷を瞬時に無かったことに出来る。三神さんにそれは真似できないけど、内側に巣食う霊障やその残滓なんかは、彼ほどの人なら内から外へ押し出すことが可能なんだ」
「ならッ」
「実際今、三神さんが生きているのはそれをやっているからだ。二十四時間、ずっと」
「に」
二十四時間……ずっと?