[73] 「希璃」9
例えば世の中にひとつだけ自分の思い通りになる事柄があるとして、自分でそれを決めていいと神様に言われたら、私はきっとこう答える。「娘が幸せになりますように」。
娘の成留は父親である新開くんを愛しているから、彼女が幸せになれるなら、イコール、新開くんは絶対不幸にはならない。新開くんが不幸にならないということは、必ず三神さんは助かるということだ。三神さんが助かるということは、まぼちゃんがもっと自由に動き回れる。まぼちゃんが本領発揮できるなら、きっとめいちゃんをなんとかしてくれる。めいちゃんが無事目を覚ますなら、六花さんは無敵だ。そして六花さんが無敵なら、敵が誰であろうと関係ない……。
だけど私は知っている。この世の中に、自分の思い通りになることなんて何一つとしてないってことを。
私はきっと呪われて死ぬ。私はそれでいいかもしれない。死んだら全部終わりなんだから、思い悩むことすらなくなる。ただ、こうも言える。私が死ぬということは、新開くんを泣かせることだ。そして新開くんが泣くことは、娘を不幸にするということだ。だから私は死んではいけない。絶対に死ぬわけにはきかないのだ。
「呪いを……移す?」
「そうです」
頷いてみせたまぼちゃんの顔は、いつにも増して美しかった。
「どういう意味?」
その問いはまぼちゃんだけでなく、彼女の肩越しに見える六花さんへも向けられていた。しかし六花さんは眉間に皺の寄った顔を伏せており、それが安心安全な対処法ではないことを如実に物語っていた。
「よく分からないけど……やらない」
そう答える私に微笑みかけ、まぼちゃんは言う。
「難しい話になってしまうので、私の語彙力で希璃さんにご理解いただけるか分からないのですが……呪いの持つ力というのはその他の霊障とは違い、とても、一途なんです」
「一、途」
まぼちゃんいわく、基本的に人間が放つ呪いとは『念』、すなわち強すぎる思いである場合が多いという。古来から生霊として扱われて来た最もポピュラーなその呪力は、天正堂などの呪い師を必要とせずとも、「考える・思う」だけで発動してしまう事がほとんどなのだそうだ。つまり、世の中には知らず知らずのうちに生霊を飛ばしてしまっている人間が多く存在する。そう聞けば、呪いとはなんともお手軽な攻撃手段だと思われるかもしれない。しかし実際は、そんな簡単な話ではないのだそうだ。
「人を呪わば穴二つ、と言いますね」
と、まぼちゃんが言う。
「……人に害をなす者は己に降りかかる事も考慮しなさいって、そういう言葉だよね」
答える私に、まぼちゃんは蠱惑的ですらある微笑を返す。
「さすがは、元文芸サークル。呪いというものは、実は対象者に向かって飛ぶ一方的な力だと思われていますが、実際には呪いを打つ者にも枷を強いるものなのです。まあ、代償という意味では当然の話ですが」
「枷……?」
「呪いを打つ者と打たれた者の間に、決して切れない赤い糸のようなもの、この場合はマイナスのイメージが勝ちますから、そうですね、黒い糸とでもいいますか、あるいはお互いを鎖でつなぐ首輪とか、何かそのような縁が出来てしまうとお考えいただければ」
これはまぼちゃんが初めに説明した「生霊飛ばし」に限らず、呪い全般に言えることだそうだ。どういった技法を用いて呪力を飛ばそうが、術者と対象者には縁が出来る。そしてその両者の間を真っすぐに飛ぶ「矢」のような呪力は、時と場合によっては打ち返されて術者の元へ跳ね返ることがある、というのだ。
「……それって、正脇茜さんのことを言ってるの?」
『九坊』の話です、とまぼちゃんは頷いて答える。
「人を呪わば穴二つ。まさに、それが成ったわけです。めいちゃんの場合、本来であれば呪詛を打ち返して術者が死んだ場合、そこで呪いの効果が完遂されて消え失せる筈でした」
話の矛先がめいちゃんにまで及び、私は思わず六花さんを見た。しかし六花さんはまぼちゃんの背中を見つめたまま、何も言わなかった。
「ご存知の通り、めいちゃんに掛けられた呪いはまだ解かれていません。それはつまり、呪いを打った張本人が正脇茜ではないことを意味しています」
「だけど……うちの成留が打ち返したものが正脇茜に戻り、そして彼女は病院で亡くなった、と」
私はそう聞いている。新開くんからも、坂東さんからもそう聞いているのだ。
「そこが、『九坊』の恐ろしさなのだと私は思います」
そう口にしたまぼちゃんの目が、切なげに睫毛を震わせた。
「『九坊』は、まだその詳細なメカニズムが解明されていないこともあり、俗に、『伝染する呪い』と呼ばれています」
「う、移るってこと?」
「そうです。正脇茜がどこかの段階で呪いを受けたことは間違いありません。そして彼女が意図的にめいちゃんへ呪いを移そうとしたことも間違いないと思います。その理由はまだ分かりません。ただ、正脇茜が『九坊』を打った術者ではないことだけは、断言できます」
「どうして?」
「順番です」
「順番?」
「めいちゃんが呪いを受けた一番目の被害者であったなら、あるいは犯人は正脇茜かもしれません。しかし私の父や、有紀さん、斑鳩さん、そして『U』と呼ばれる女性にも『九坊』との関連性が認められる以上、彼ら全員に正脇茜が呪いを打つことは不可能です」
「……そうなの?」
自信を持って話をするまぼちゃんを疑うのは無粋だと知りながら、そうだろうかという疑問が思わず口を突いて出た。職場の上司だという正脇汐莉の姉・茜が、後輩であるめいちゃんに呪いを移す理由など皆目見当がつかない。しかしもしそれが事実なら、此度の一連の事件の犯人であってもおかしくはないと、私にはそう思えるのだ。理由や動機はさておいても、他人を呪うような人間がわんさと沸いて出るわけがない、いて欲くない、というそれは希望でもあった。
だが、まぼちゃんは自分の意見に自信を持って、首を縦に振った。
「私の考えている順番は、このようなものです。まず、馬淵という名のチョウジ職員、斑鳩さん、有紀さん、この三人と同時期かその間に、正脇茜が入ります。そして父である三神三歳、最後が、めいちゃんです」
……え?
私は混乱し、不安に苛まれた。
いや、おかしいよ。おかしいじゃないか。
まぼちゃんの考える順番とやらには大きな「穴」がある。
だってそこには、三神さんに呪いをかけたとされている、重要な人間の存在がすっぽりと抜け落ちてるじゃないか……。
『U』は、どこへ消えたの……?




