[70] 「幻子」8
『呪い』、という存在の恐ろしさを物語っている。
それがある種の交通事故のように、通りすがりに受けた霊障や、その結果抱えた体調不良等であったなら、現場を離れて施術すれば身体の傷は癒せる。だが何度も言うように、呪いは祓えないし治せない。六花さんの治癒力がいくら優れていようとも、治した瞬間から呪いの効力に浸食され始めるのだ。本来ならそこには幾ばくかのタイムラグがある。しかしほとんど即死に近い量の呪力を叩き込まれていた父には、どれほどの猶予も残されてはいなかったのだ。
六花さんは頭を抱えたまま、続けた。
「何度やっても元に戻る三神さんを見て、この人は一体何と戦ってるんだ、どれだけの霊障を受ければこんな姿になるんだって……。だけど、凄いのは、そんな恐ろしい量の呪いに侵され続けてなおあの人は死なずに、それどころかずっと抑え込んでたんだよ。……本当に凄い人だよ」
六花さんの言葉に涙したのは私だけではなかったはずだ。だが私の視界は歪み、誰の顔も確認出来なかった。その時だ。
凄いのは彼女の方だよ……。
不意にそう言ったのは、ツァイくんだった。
「ロッカさんは、凄かったよ。決して、諦めなかった。我慢比べだった。仮面をかぶった醜悪な悪鬼を相手に、ミカミさんの手を絶対に離さなかった。何度も力を押し返されていた。実際、彼女自身の体も、ひどく傷ついた。それでも、ロッカさんは……」
顔を伏せて涙を流すツァイくんの言葉を、やめてよ、と六花さんが遮った。
「私はただ必死で……」
「僕は何もできなかった……ッ」
突如声を荒げたツァイくんの異様な雰囲気に、皆の緊張が高まった。六花さんは鼻から溜息を逃がし、優しく言う。
「それは違うよ、あんたが逃げずにあの場に留まり続けてくれたから、奴らをあの場に抑えておくことが出来たんだ」
「いーや、違う。僕は……僕は……」
この病室に来て私たちが話をしている間中、ツァイ君は一人、直接床に座って膝を抱えていた。最初はいじけているのだろうかと思われたが、涙して語るツァイくんをまじまじと見つめるうち、突然思い浮かんだ自分の想像に私は全身が凍り付くのを感じた。
「……ツァイくん。あなた、もしかして」
私の声に只ならぬ気配を感じ、新開さんたちが一斉にツァイくんを振り返った。
ツァイくんは一人だけ皆とは離れた場所に座り、膝を抱えて小さく縮こまっている。まるで何かから自分を守るように。あるいは、何かを逃がさないように……。
「ツァイくん、ひょっとしてあなた、全部抱え込んでるの?」
「僕は……僕は……」
涙を流して、ツァイくんは答えた。
僕は、このまま台湾に帰るわけにはいかないよ、まぼ。
「なんてことをッ!」
思わず私は立ち上がって叫んだ。
どういうことだ、説明しろ。坂東さんの怒号が飛び、直感的に危険を察知した新開さんが希璃さんの前に体を投げ出すように両腕を広げた。驚いたツァイくんが尻もちを着いたまま壁際へ下がる。
「六花さん」
ツァイくんを見据えたまま声をかけた私に、六花さんは目を見開いたまま「何」と小声で答えた。
「角の生えた仮面を被っていたという傀儡の親玉やその他の幽体どもは、最終的にどうなったのですか? 全てを、六花さんお一人で滅したのですか?」
六花さんは私を見つめたまま黙り、そして、
「……いや」
と囁くように言った。「私はずっと、三神さんの手を握ってひたすら治癒を試みていたんだ。何度も何度も繰り返すうち……最終的に……あれ、……どうなったんだ?」
「二日間も意識を失くされていました。一時的に記憶が飛んだしても不思議はありません。六花さん、最後にあなたが覚えている光景は、なんでしたか?」
「最後に……」
私が尋ね、六花さんが答える間も、私はツァイくんから目を離さなかった。ツァイくんは両膝を抱えたまま俯き、小刻みに震えていた。六花さんは言う。
「……めい」
「めい、ちゃん、ですか?」
意外な返答を受けて尋ね返した私に、尚も六花さんが言った。
「部屋の中は明るかった。いつの間にか私は三神さんの手を離して、めいの身体の上に覆いかぶさっていた。私の意識があるうちに、あいつらがめいに手を出さないうちに、ここから逃げなきゃって……。逃げなきゃ、逃げなきゃって……。三神さんは、その時……」
六花さんは必死に思い出そうとたが、おそらくもうその時点で彼女の正常な判断力は失われていたのではないだろうか。父の手を離し、めいちゃんの身体に覆いかぶさったそのタイミングで、何かが起きたのだ。
「何が……」
そう独り言ちた六花さんの目が、ツァイくんを見た。「……あんたが、助けてくれたのか?」
ツァイくんを見つめる六花さんの目には、信じられないものを見た時の困惑が浮かんでいた。……つい先程まで、きっと私も同じ目をしていたに違いない。
……ツァイくんは、特別な結界師だ。
端的に言えば、自らの意志で霊力を行使しなくても常にバリアを張り巡らせている、そういう霊能者なのだ。修行を積んで来た彼はある程度自身の力を使いこなせるし、自分だけでなく他者や念を込めた器物にも結界を張れる。その効力は目に見えない幽体の侵入のみならず、霊障の浸食をも許さない。そして彼の力の最も優れている点は、霊体や霊障を自分の結界内に閉じ込める事が出来るということだ。例えば使われていない廃ビルなどで超常現象の調査を行う際、簡単に壁や床を通過する幽体相手に走り回るのは得策ではない。そういった場面で、自分の張った結界内に幽体を侵入させ、逃げられないよう一時的に閉じ込めるのだ。ただし、もちろん、その場に私がいなければそんな危険な真似は絶対にしない。何故ならツァイくんは、強力無比な結界を張れるにも関わらず、霊障を全く祓えないのだ。絶対的な防御力を備えるがゆえに、攻撃する手段を何一つ持っていないのである。
それでもツァイくんは、……やってのけたのだ。
「……この部屋に、お前がひっ捕らえた傀儡どもがいるってのか」
坂東さんが呻くような声でそう聞いた。
ツァイくんは、泣きながら頭を振った。
「……まぼ、僕は怖いよ」
「ツァイくん、落ち着いて聞いて。今、呪力はどこに閉じ込めてあるの?」
尋ねる私の目を、ツァイくんの濡れた瞳が見つめ返して来た。
僕の身体の中だよ、まぼ……。
「から……だ?」
ツァイくんは、病室全体に張り巡らせた結界に傀儡どもを閉じ込め、そのまま自らの体内に取り込んでいたのである。父の周囲に発現し、強悪な霊障を撒き散らしていた傀儡どもを、全て。
「……まぼ、僕はこんなに恐ろしいものをいまだかつて味わったことがないよ。これは……」
……人間の悪意そのものだよ。




