[6] 「めい」1
めい、と言う自分の名前が好きだった。
覚えてもらいやすく、呼んでもらいやすい。
ニックネームを付ける必要もないくらいシンプルな、平仮名という点もお気に入りだった。
だけど今は、少しだけ違う。
どれだけ頭から振り払おうとしても、無駄だからだ。
それはまるで、悪魔が用意した透明なプレス機に命を押しつぶされるような、ひしゃげた断末魔として私の脳裏に刷り込まれた。直接聞いたわけではないのに、確かに聞こえる。その『声』は何度も鼓膜で再生され、その度に全身が凍り付いて動けなくなる……。
物心がつき始めた頃から『たくさんの声』が聞こえていた私は、自慢ではないが、他の人とは違った人生を歩んで来たように思う。得難い経験だったのだとも、思う。でも正直に言えば、私は『たくさんの声』を聞きたかったわけではないし、私が本当に聞きたかったのは、ただただ優しい両親の声だったのだ。
何故、私は両親から愛してもらえなかったのか。私に至らない部分があったのか、あるいはこの特殊な聴力が原因なのかと、悩んだ時代があったことを朧気ながら憶えている。だけど、これははっきり言って自慢だが、私には私を愛してくれる姉がいた。気高く、美しく、慈愛に満ちた、心から愛すべき素晴らしい姉だ。その姉がいたからこそ、私はどんな危険な目にあっても、そしてどれだけ怖ろしい声を聞いても、正気を保っていられたのだ。
大人になるということは、そのまま姉との物理的な距離を意味した。
毎日が、怖かった。
その頃にはある程度、聞こえてくる『たくさんの声』を耳に入れないように制御する術を会得していたし、年齢を経た分、経験も積んで来た。それでもやはり、私は姉に依存していたのだと痛感し、そんな自分を恥じた。社会の中で生きるということがこんなにも心細いことだとは、全く想像出来ていなかった。
『夢を叶えるために努力する』
そんな聞こえのいい言葉を原動力にして、しゃにむに勉強していた日々が、おそらく私にとって最も穏やかで充実した時間だったのだ。念願叶ってOLさんになれた後も、しばらくの間は順調だった。社会に出たからといって姉と離れて暮らし始めたわけではないし、生活スタイルの違いから朝晩の短い時間しか顔を会わせるタイミングがなくなった、ただそれだけなのだ。
しかし、と今にして思う。
もし、学生時代のように姉にべったりとひっついていれば、もしかしたら私はこうはならなかったのかもしれない。きっかけは単純だった。面倒見のいい職場の先輩から健康についての話題を振られ、「神社へお参りしたり、願掛けをすることに意味があるかどうか」を問われた。そして、この世ならざる者の存在を子供の頃から身近に感じていた私は、当たり前の顔をして「ある」と答えたのだ。その先輩は一瞬ぽかんとした表情を浮かべ、次の瞬間には満面の笑みで喜んだ。私たちは少しずつプライベートな話をかわし、全てではないにしろ、やがては私に霊感が備わっていることを打ち明けるに至った。
その時点で姉に報告していれば、他人との距離の取り方や、自分たちに備わった力が他人の目には脅威として映ること、それらについてのアドバイスを受けられたかもしれない。姉は、私などとは比べ物にならないほど強力な、いわゆる霊能力を持っている。マイノリティである私たちならではの処世術というものを、もっと勉強しておくべきだったのだ。
その日、十年来の友人である新開さんと、彼の愛娘である成留ちゃんに出会えたのは偶然でしかしない。私は自分が呪いを受けていたと聞かされた時、正直、霊障という名の目に見えない恐怖なんかよりもずっと、生きている人間の持つ悪意に打ちひしがれた。
「姉が、なんらかの霊障を受けて苦しんでいる……」
私に相談をもちかけた職場の先輩、正脇汐莉さんにその意識があったどうか、定かではない。新開さんが言うには、姉である茜さんが亡くなる前日に掛けてきた汐莉さんの電話の内容から、汐莉さん自身も私と同じ呪いを受けているらしいとのことだった。
茜さんが私を呪った理由が、分からない。あるいは理由など最初からなくて、誰でも良かったのだとしても、私が呪いを受けたという事実は覆らないのだ。
知人であり、昔からよくしてもらっている三神三歳という人物が私と同じ呪いを受けたと聞いたのは、それから間もなくのことだ。いや、正確に言えば『同じ』かどうかは分からない。ただ、三神さんという人は、親身になって依頼者の相談にのり、歩むべき道を占ってくれる祈祷師だ。私や姉、そして新開さん同様その身に強い霊力を宿している。その三神さんが呪いを受けたという話は、ただ単にこの世ならざる者から霊障を受けたとか、言ってしまえば私が攻撃されたこととは語るべきステージが全く違う、そういった印象を受けた。
姉は本来、このような事件に私を関わらせようとしない。だが、今回は私自身も当事者として扱われた。これを一連の事件と呼んでよいか分からないが、それでもカタがつくまでは目の届く場所にいて欲しい、と、姉が普段からお世話になっている坂東さんという男性に説得されたのだ。
この日、姉とともに足を運んだのは、都内にある人通りの多い雑居ビルだった。
この辺りには出版社も多く、普段からよく利用する地域でもあったため、不思議な気持ちでその建物を見上げた。何度も通った道なのに、おそらくその建物を見るのは初めてだった。
「はー。…ほら、あそこのコンビニも、あの銀行も、私普段よく使ってるのよ。この先に取引先の卸問屋があってね、何度も顔を出してる。こんな所に坂東さんたちのオフィスがあったなんてねー…」
「そういうもんさ」
と、前に立つ坂東さんが振り返らずに答えた。
そういうもん、か。
言われてみれば、そうなのかもしれない。意識するかしないかで、物の見え方は変わってくる。
私は一度は、この身に呪いを受けた。その事実はどう足掻いても動かせない、真っ黒い山として私の目の前に居座っている。そしてふとした瞬間、お気に入りだったはずの名前を呼ばれただけで、動けなくなる程の恐怖となって襲い掛かって来る。
今、私を取り囲むようにして、数人の男女が同じ建物を見上げている。彼らがいるだけで、たったこの一瞬にしろ、私の物の見え方は変化したように思う。今だけは何も怖くないと、そう思うことが出来たのだ。