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『九坊 - kubo -』  作者: 新開 水留
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[64] 「幻子」6


 父の目が、音の出所を探すように震え彷徨った。

 新開さんが私の名を呼び、希璃さんが立ちあがった。六花さんは幾分生気を取り戻したように唇を噛み締め、渾身の力でストレッチャーごとめいちゃんを押して歩く。私は駈け寄りたい気持ちをぐっと堪え、父に向かって大声で叫んだ。 


「先生!私はここにいます!」


 あえて、お父さんではなく先生と呼んだわけではない。無意識だった。十年前まではずっとそう呼んでいたのだ。消えかかる記憶を呼び戻すのであればその方が強く作用するのではないか、そんな風に判断できるほどの冷静さがこの時の自分にあれば、どれほど良かったことだろう。だが現実はそうではないし、ただただ必死だったのだ。

 父は、意識の定まらない目をしていたにも関わらず、私を見据えたまま動きを止めた。


「……ゲンコ」


 父は確かにそう呟いた。そして新開さんと希璃さんを見やり、「ワシは」と囁くように唇を動かした。三神さん、先生、そう口々に叫ぶ私たちの声に、しかし涙を浮かべた目で父はこう言ったのだ。

「なにも思いだせん」

 父の目には、ただ単に、棒立ちのまま自転車の呼び鈴を鳴らしている、不可思議な女の姿が映ったに過ぎなかったのだ。ゲンコと呟いたその言葉も、記憶の絞りかすだったのだうか。

 何が正しくて、何をすべきだったのか。この場でそれが分かるなら、もっともっと前の段階で、最初からその答えを探し出せていたはずだ。やはり全ては、こうなるように仕組まれていたのだ。私は、負けたのだ。

 その時、六花さんがストレッチャーから手を離し、父目掛けて踵を返した。希璃さんがその後を受けてめいちゃんへと駆け寄る。六花さんは駆け抜けながら新開さんの左手を握り、そのまま父のか細い首に右手を添えた。そして父の耳元へ唇を寄せると、囁きではなく廊下に響き渡る程大きな声で、六花さんはこう叫んだ。

「天より舞い降りたもうかなしみの子ら! 正しくあるべき姿へと導け……我らッ!」

 そこで言葉を切り、六花さんは父の反応を待った。続く文言はひと言、『天正堂』、それのみである。同団体の開祖、大神鹿目(オオガミカナメ)が残したとされる基本精神である。見る間に六花さんの添えた右手を起点にして、首から顔、肩、胴体へと治癒力が巡り、父の身体が修復されていく。問題は、記憶が取り戻せるかどうかである。

 父の、大神鹿目及び天正堂母体に対する愛情の度合いはよく分からない。しかし三神三歳一個人、拝み屋としての理念は合致しており、普段から「あるべき姿へと戻す」役割を己の使命だと心得ている人だったのは間違いない。六花さんも、そのことをよく知っていた。

「我ら!」

 尚も六花さんが叫び、

「三神さん!」

 新開さんが父の名を呼んだ。そして、

「まぼッ!こっちへ来い!」

 六花さんが私を呼んだ瞬間、六花さんと新開さんの身体が同時に崩れ落ちた。

 私は慌てて駆け寄り、二人の身体を抱きとめた。

 父は、見た目は普段通りの姿にまで回復していた。しかし、自分の置かれた状況が把握できないらしく、震える両手を見つめて目を瞬かせている。

「先生、力を貸して下さい!」

 両腕の重さに耐えかね膝を折って私が懇願すると、父は、私たち三人を見下ろしたその目から涙を流した。

「せ、先生……?」

 父は全身を戦慄かせ、必死に言葉を絞り出そうとしていた。皺だらけの手、手塩にかけて育てた弟子、気心の知れた天才霊能力者、そして私。ひと目見ればありったけの思い出が呼び覚まされるはずのそれらを前に、父は、ただただ怯え、震えていた。私は六花さんと新開さんの身体を廊下にそっと横たえ、立ち上がって、父の手に柊木さんから託された自転車の呼び鈴を握らせた。

「無理しなくて良いんです。あなたは、こうして、生きているだけで良い」

 私がそう声をかけると、父はすがるような目で私を見つめた。

「全部……私が終わらせますから」

 私の言葉に、おそらくただの一つも記憶を取り戻してなどいない父は、ほっとしたような笑顔を浮かべてその場に倒れこんだ。私は父の身体を引き寄せて抱き留め、坂東さんが駆けつけてくれるまで、ずっと父の小さな体を支え続けた。




 私は、呪いというものの恐ろしさをあたらめて痛感している。

 呪いは祓えず、退けてもまたすぐに戻って来る……。

 私たちの側に秋月六花という天才霊能者、いや、ひとつの奇跡とも呼べる存在がいなければ、とっくに全てが終わっていたはずである。……今現在、父である三神三歳、そして六花さんの妹であるめいちゃんの容態は、完全に呪いの効果に押し込まれた状態のまま、肉体を修復し続けることでその命を繋ぎとめている。

 その六花さんだけが持つ治癒の力も、むろん分かってはいたことだが、無尽蔵ではない。あの時父のいた病室で何が起きていたにせよ、私がR医大に到着した段階で、六花さんは限界を超えていたのである。最優先されるはずのめいちゃんの命を一時的とは言え手放し、父のもとへと駆け戻ってくれた六花さんの勇気ある行動には感謝の言葉が見つからない。彼女は、底をついた自身の霊力だけでは無理と判断し、咄嗟に新開さんの手を握って治癒に必要な生命力を借りようとした。が、やはり黒井一族が誇る霊能者の潜在力を持ってしても、秋月六花の起こす奇跡には到底足りなかったのだ。二人はそのまま崩れ落ち、その後丸二日間目を覚まさなかった。

 その間、三神三歳とめいちゃんの容態を抑え込んだのは、六花さんの治癒力を一時的に『借り受けた』私と、坂東さんと、そしてツァイくんだ。……しかしそのツァイくんは、あの時父のいた病室で何が起きたのかを、頑として話そうとはしなかった。

「ただ一つだけ、言えるのは、僕は、このままでは帰れない。台湾に、戻ることは出来ない」

 坂東さんがいくら熱弁を振るって説明を求めても、ツァイくんは涙ながらに首を振るばかりで、それ以上話してはくれなかった。……どうしてもというのであれば、秋月六花が目覚めた後だと、ツァイくんはそう宣言して固く口を閉ざした。

 そして残念ながら、天正堂階位・第四である代表代理、小原桔梗さんはK病院にて命を落としたとの報告を受けた。この時点で、天正堂本部団体は瓦解したも同然である。相変わらず、階位・第五を預かる土井零落なる人物は我々の前に姿を見せず、団体を立て直す気があるのかどうか、それすら定かではない。

 新開さんの奥さん、新開希璃さんにも、私は頭が上がらない思いで一杯だ。六花さんの咄嗟の判断だったとは言え、父の命を救うための手段として新開さんの生命力を強引に削り取ったのだ。丸二日間目を覚まさなかったということは、その二日の間、頭の隅っこで新開さんの死を覚悟しながら付き添わねばならなかったのだ。幼い娘さんをご両親に預けたまま、ご自身もいつ呪いの効果が発動するやもしれない緊迫した状況の中、希璃さんに圧し掛かっていた精神的負担は私には計り知れない。それでも希璃さんは、申し訳ないなどと杓子定規な言葉しか口に出来ない私に対して、こう言うのだ。


「……大福シリーズの、四番目の案だけどさぁ、こういうのはどうだろうねぇ……」


 決して諦めない希璃さんの前向きな言葉に、私は顔を両手で覆って泣いた。子どものようだなと、母のような優しい声に慰められながら。






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