[63] 「幻子」5
日本へ戻り、加藤塾を出てからずっと、胸騒ぎが治まらなかった。嫌な予感とでも言おうか、それ自体は危機管理能力として優れていると思うし、これまでも重宝して来た。だけど私は自分が見る予知夢に頼り過ぎているきらいがあって、いざという時、他人との意思疎通に困ることが多々あった。
しかし分かってはいても、実際に困難な状況に直面した時などは、理屈のしっかりとした推測などより直感を優先することがほとんどだ。それは親譲りというか師匠譲りというか、私の周りにいた大人たちが皆そうだったのだ。父である三神三歳がその代表格で、普段チョコレートのこと以外何も考えていないような顔をして、事実誰よりも正解に辿り着くのが早い人だった。
台湾にいるツァイくんに連絡を取ったのは、もちろん予知夢を見たからだ。だがベッドの上でぐっすり眠った時に見た夢とは違って、自分でも今一つ整理しきれない夢の内容だったことは否めない。
「どうしたらいい? 僕に何が出来る? 日本へ行って、いつも通り君のサポートをするだけでいいのかい?」
電話でツァイくんにそう尋ねられた時も、答えに困った。
「〇〇にある、R医大病院へ向かってほしい」
と、それしか言えなかった。私が見た夢は一枚の地獄絵図に等しく、その情報量の多さは、夢から覚めた私には到底理解しがたいものだった。だから、そこに存在するだけで回数制限のない『いちご大福』みたいな人間であるツァイくんの力が必要だと感じたのだ。
しかしその後も、私の胸騒ぎが止むことはなかった。考え得る最良の手を打ったはずが、何一つ状況が好転したと思えない。こんなことは今までなかった。私は今自分が取るベき行動にずっと疑問を感じながら、父と暮らした家を訪れ、そして『U』の足跡を追った……。
今思えば、『U』にはあと一歩の所まで迫れていたと思う。
やがて一本の電話が私を立ち止まらせ、そして元来た道を振り返らせたのだ。それは秋月六花さんからの電話であり、私と新開さんが作成した『いちご大福』が、たった一度の霊障に遭遇しただけで無効化されたという、考えもしない内容だった。『いちご大福』には、家族を、そして仲間を守りたいという新開さんの強い執念が埋め込まれている。あれもまた、ある種の呪いであると私は思う。そんな新開さんと私の作り上げた結界が、たった一撃で打ち落とされることなど普通はあり得ない。
「……ツァイくん」
思わずその名を口に出していた。
私が彼を呼び寄せたのはこの為だったかと、直感に従った自分の判断に喜びもした。
……だがしかし。
やはり、私の目の前に広がったのは、一枚の地獄絵図だったのだ。
新開さんの絶叫が響いていた。
廊下に崩れ落ちて泣いている希璃さんがいた。
ストレッチャーを押す六花さんがいて、彼女の腕の中にはめいちゃんがいた。
ツァイくんの姿はない。
坂東さんも、小原さんもいない。
だがそこに、父の姿を見つけた。
「お……」
しかし、還暦を過ぎてなお肌艶の良かった父の面影はどこにもなく、雨に濡れた野良犬ように、骨と皮だけになったその姿は、もはや父と呼んでいいのか分からない程だった。それでも、どれほど肉体のシルエットが変わってしまっても、魂に刻まれた生命信号だけはそのままだったのだ。
「……お父さん」
ああ、私はこの光景を夢で見てしまったのか。
ほとんど死んでいると言ってもいい痩せ細った父と、心を砕かれた新開さんの姿だ。
私がこの光景を夢に見てしまったから、地獄へと通ずる霊道が開いてしまったのだろうか?
どォォしてェェェェッ!!
新開さんの悲痛な叫び声が、私の胸倉を掴んで引き寄せた。
一歩前に足を踏み出し、父に手を伸ばした。
だけど、父の、あんな空虚な目は一度として見た事がなかった。
十年前、強力な幻術に誰もが翻弄された時でさえ、父だけは、私を見失わないでいてくれた。私は今、父の前に立つことが怖かった。父の目は、知らない人間の目だった。確かに父であるにも関わらず、その目には一切の光がなかった。その事が、心底怖かったのだ。
ガクガクと膝が震えた。
足を踏み出せ。
「歩け」
父を助けるんだ。
「私がやるんだ」
何も怖いことなどない。
「お父さん」
傷ついた父を救えるのは私だけだ。
……父の目が、私を見た。
「おと、お」
その目には、私は映っていなかった。
「……もう駄目だ」
足が止まり、リノリウムの床につま先を引っ掻けて私は態勢を崩した。
その時だった。
ゴ、……キン。
変わった音がした。
足元を見やると、そこには私が落としたらしい手の平サイズの小箱があった。
「これは」
それは二神さんのご自宅で、柊木青葉さんから受け取った紙製の綺麗な箱だった。
「今はまだ開けずに、あなたが持っていて下さい」
柊木さんはそう言っていた。
「中身をお聞きしても?」
と私が尋ねると、柊木さんは頭を振り、
「思い出の品、とだけ」
そう答えたのだ。
ずっと、鞄に入れて持ち歩いていた。十センチ四方の四角い箱は、正直かさ張るためにどこかへ保管しておくことも考えたのだが、何故か踏ん切りがつかなかった。鞄の蓋は閉じているし、少々躓いた所で、勢いで落下するわけがなかった。そこに……意志を感じた。
私は膝をついてその箱を拾い上げると、震える手で包み紙を破いた。
「助けてください、柊木さん」
箱の中身を見た時、私は息が出来なくなる程の力強い感情に襲われた。
その感情とは、愛だった。
柊木さんが私に持たせてくれた紙箱の中には、自転車の呼び鈴が入っていた。
それは幼い頃、私が父に買ってもらった、あの白い自転車の呼び鈴だったのだ。
私は立ち上がり、叫んだ。
「お父さんッ!」
新開さんが振り返り、希璃さんが振り返り、六花さんが私を見た。
私は左手の上に自転車の呼び鈴を乗せ、右手の指先で懐かしいバネの重さに触れた。
リーーーーー…ン。
ッリーーーーーーーン。
ッリーーーーーーーーーーーン
「あの子は特別なんだよ新開くん、辺見嬢」
私はかつて、新開さんたちにそう語ったという、父の言葉を思い出していた。
「お前さんたちなら分かるだろう。ワシと柊木さんが初めて買い与えた白いコマ付きの自転車を、あの子は一生懸命漕いだ。必死になって漕いだ。それは今も何ひとつ、変わってなんかいない。実の親に捨てられ、ワシや周りの大人たちに甘えることをあの子自身が許さなかった。自分の足でどこへでも行ける、そういった希望の類ならば良い。だが、自分の足で歩いて行かねばならないという決意が、自転車を漕ぐ幻子の横顔に浮かんだ興奮の意味であったなら、ワシは……。もしもあの子が、産まれた瞬間からこの世の悲劇的な未来を背負う運命の子であるならば、この子の小さな背中に圧し掛かる重荷を、ワシが一緒に背負うてやらねばならんのだ! それが、このワシにも出来る親らしい唯一のことなのだ。それをせずして何がッ。…何が!親か!」
お父さんありがとう。例えあなが私を忘れてしまっても、私が三神三歳の娘であることに、なにも変わりはありません。




