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『九坊 - kubo -』  作者: 新開 水留
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[62] 「希璃」8


 それはある意味、小さな地獄だった。

 ある者は両耳を抑えて廊下に蹲り、泣きながら何事かを叫んでいる。ある者は両手で壁をどんどんと叩き、皮膚が破けて鮮血を撒き散らしながら「ここから出してくれ」と喚いていた。またある者は土下座したまま額を何度も廊下に打ち付け、そしてある者は車椅子を振り回した挙句に窓ガラスを割って、そこから飛び出して行った。

 阿鼻叫喚だった。

 いずれ見知らぬ患者と言えども、明らかに常軌を逸したその行動に私は戦慄し、恐怖し、ただ茫然と立ち尽くした後、膝から崩れ落ちた。

 自分が何を見せられているのか分からなかった。

 廊下の奥から全力で走って来た患者は、何かから逃げていると思われた次の瞬間飛び上がって頭から廊下に突っ込んだ。病室からふらふらと出て来た女性患者は、両耳と長い髪の毛を一緒に掴んだまま左右に引き千切ろうとした。新開くんがその手を掴んで止めなければ、その女性患者は泣き叫びながら多くのものを失っていたと思う。

 だけど、新開くん一人ではどうにも収集が付けらない程、その一画は混沌とした地獄へと変貌していたのだ。有紀さんが指を差して教えてくれたその場所とは……三神さんの病室の前だった。

「一体どうなってるんだ。この人たちはどこから現れたんだ……!」

 廊下の中央に立って、新開くんは哀れな患者たちを見回した。病院側と話をつけ、三神さんの病室は一般病棟よりも奥まった場所に用意された。他の患者さんたちの側にはいない方が良いという、悪影響を憂いてのこちら側の配慮だったのだ。しかしどこからともなく現れた患者さんたちは皆、三神さんのいる病室の前で異変をきたして転げ回っていた。こんな光景は、今まで見たことがなかった。


「新開くん…ッ!!」


 私は絶叫に近い声で彼の名を呼んだ。

 こちら側を向いて立っていた新開くんの背後で、病室の扉が開いたのだ。

 新開くんが振り返ったのとほぼ同時に、病室の中から右足が出て来た。裸足だった。次いで左足が突き出たかと思うと、ついには三神さんがその姿を現した。

 誰よりも紳士的であり、重苦しい空気を嫌う飄々とした人だった。年の割には軽快な身のこなしで、偉ぶった所のまるでない、腰の低い人でもあった。短く刈り上げた銀髪がトレードマークで、いつもMA-1ジャケットを羽織っている為今一つ体型は分からなかったが、いつだって健康そうに見えたのは間違いない。チョコレートが大好きな人だったから、痩せすぎということはないのだろう。

 その三神さんが、もはや見る影もなくガリガリに痩せこけていた。髪は抜け落ち、目は落ち窪み、前歯が何本か失われていた。だらりと下げた腕は針金のように細く、病院着から突き出た足はごぼうのようだった。


「あああ、ああッ……」


 新開くんの慟哭は二つの感情を孕んでいた。生きて動いている三神さんの姿を喜びたい気持ちと、直視出来ない程残酷な現実に動揺し、とても受け入れることが出来ない。巣から落ちた雛鳥に待つ死。変り果てた三神さんの姿は私にそんな悲しみを連想させた。


「三神さんッ!……三神さんッ!……三神さんッ!」


 新開くんは、わけもわからず名前を連呼した。

 私もそうだった。

 美晴台での調査を終え、三神さんとめいちゃんの待つ病院へ戻ってきた。そこには六花さんがいて、もしかしたら坂東さんと小原さんも帰ってきているかもしれなかった。あるいは土井さんという、天正堂で階位を持つ頼れる助っ人なんかもいたりして、状況は少しずつでも良くなっている筈だと考えていた。

 だけど、現実はそうじゃなかった。何がどうなっているのか全然分からない。もはやどうしていいのか、私には全く分からなかった。

 虚ろな目をしたまま廊下へと歩み出た三神さんは、自分の周囲で泣き叫ぶ患者たちなど目もくれず、私たちに背を向けて廊下の奥へと一歩を踏みだそうとした。そこへ、同じ病室の中からストレッチャーを押した六花さんが出てきた。ストレッチャーにはめいちゃんが仰向けに横たわっており、六花さんは妹を庇うように腕を回しながら、鬼のような形相で重たそうにストレチャーを押して歩いた。

「ろ」

「六花さんッ!」

 私と新開くんの声が聞こえないのか、六花さんは青ざめた顔に浮かんだ強い眼差しを廊下の手前側に向けながら、

「逃げるんだ、逃げるんだ、逃げるんだ」

 そう、繰り返し何度も呟いている。額には玉のような汗が無数に浮かび、目の下には分厚い隈が出来ていた。唇はチアノーゼを起こして小刻みに震え、美しい彼女の顔は五歳も十歳も老けてしまったように見えた。三神さんとは反対側へ、つまりは病院の正面玄関へと向かって六花さんは歩き出した。三神さん同様、周囲の患者さんや三神さんも含め、めいちゃん以外の何者も六花さんの意識には入らないようだった。ストレッチャーには車輪がついている。それでも、めいちゃんを運ぶ六花さんの足取りはひどく重たかった。すでに六花さん自身が、立っているだけでも限界なのだ……。

「新開くん!どうしたらいいのッ!」

 膝折れたまま私は泣き叫び、新開くんは茫然と天井を仰いだ。

「三神さん……」

 そして新開くんは、今にも病院着がずり落ちそうな程細い三神さんの背中を見つめ、手を伸ばした。

「しっかりしてください!あなたはこんなところで終わっていい人じゃないんだ!」

 新開くんは三神さんの手首を握り、意識のない徘徊にも似た彼の歩みを止めた。と、その時三神さんの足元に一冊のノートが落ちた。おそらく脇に挟んで持っていた物が、新開くんに手首を掴まれた拍子に落ちたのだろう。三神さんはゆっくりと振り返り、やがて新開くんを見た。

「三神さん!」

「……あー……」

「み、みか」


 ……あんたぁ、どなたさんでしたぁ?


「ううッ……!」

 この時響いた新開くんの絶叫は、この十年間前だけを向いて生きてきた彼の、悲しみの果てにある未来という今が、粉々に打ち砕かれたことを意味していた。私や、六花さんや、めいちゃんや、まぼちゃんだっていたし、坂東さんもいた。皆で、非情な現実を乗り越えた。だけどおそらく、新開くんをもっとも心配し、もっとも近くで支え、導いてくれたのはやはり、三神三歳さんその人だったように思うのだ。 

 新開くんは出会ってから今日という日まで、常に忙しくしておられるお父さんに対する恨み事を、ただの一度だって口にしたことがない。寂しいだとか、いつも一人だったとか、その程度の愚痴ならばある。だけど彼は頭が良い上にとても優しいから、自分の父親がどれだけ一生懸命に働き、そして自分を育ててくれたかをちゃんと理解している。愚痴をこぼす時でさえ、ちょっとした会話の味付け程度に言うだけであり、決して恨んでなどいないことを私は見抜いていた。

 だけど、こうして新開くんの奥さんになった私でさえ、彼のお父さんには三回しかお会いしたことがない。結婚する前を含めても、この十年でたったの三度しかないのだ。そして新開くんは、どんなに辛い事があった時でも、そんなお父さんを頼ろうとはしなかったし、実際に頼ってはこなかった。

 だから、新開くんにとって三神さんというのは。

 


「間に合わなかったっていうのか……? こんなの酷いじゃないか。あんまりだ。どうして……どうして……僕はどうしたらいいんだッ!三神さんッ!」



 新開くんにとって、三神さんという人は……。





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