[47] 「新開」13
坂東さんと小原さんの到着を待つつもりは初めからなかった。
美晴台へ到着した僕たちよりも先んじて穂村兄弟が動いていたことは驚きだったが、考えている暇はない。今は自分たちに出来る事を行動に移す方が先決だった。穂村兄弟が立ち去った後、僕と先輩は右棟にある管理人室へと向かった。時間の流れが都会とはまるで違う山間の村だ。十六年前まで僕が住んでいた頃と何も変っていなければ、右棟に団地の管理人が住んでいるはずだった。
「アポなしで怒られない?」
と声を潜める先輩に、
「の時もあります」
と僕は正直に答えた。
二棟建ての集合住宅、正式名称は当時、「望景団地・右棟、左棟」だった。山の斜面に建つだけあって側を走る国道よりも標高が高く、確かに景色だけは良い眺めだった。棟の名前が1号、2号でない事が子どもの頃には面白く感じられ、今でも記憶に残っていた。とは言え字面は綺麗ながら聞き慣れない望景という名前には違和感しかなく、住人たちですら崖団地と呼んでいた。今時珍しく、五階建てにも関わらずエレベーターはない。僕が住んでいたのは二階だったが、四階、五階の住人たちは毎日息切れしながらぼやいていた。
一階の階段そばにある薄暗い一画に、「管理人室」という昔から変わらないプレートを見つけた。
ノックするも、反応はない。
「留守かな」
「そうかもしれませんね。ただ、先輩は覚えていないかもしれませんが、ここの管理人、僕が住んでいた頃から既にそこそこのお年だったんです。今はもう別の管理人に変わってしまってるかもしれません。そうなると、話を聞こうにも当時の事を何も知らない人だっていう可能性もあって……」
「覚えてないなぁ。話したことあるの? 当時の管理人と」
「ありますよ、僕この上だったんで」
「へえ、そっか。懐かしい? 昔住んでた部屋、見てみる?」
「いや、そういうのはやめておきます。父は昔っから忙しい人でしたから、僕ずーっと一人だったんで、ここにもあまりいい思い出があるわけじゃないんです」
「そか」
話をする間も室内からの反応はなく、意味もなく立ち話を続けていてはただの不審者だ。諦めて別の場所へ移ろうかと考えた矢先、上の階から人が降りてきた。右手に箒、左手に塵取りを持った老人だった。
「……あ」
思わず口を開いた僕を見つめ、その老人は訝りながら、どちらさん?と尋ねた。
「いやーぁ、なんとも珍しいお客さんだわなぁ」
「すみません、突然お邪魔して」
頭を下げる僕たち二人の前に淹れたての日本茶を滑らせ、その老人はにこやかに笑った。
「ここを出た人間でまた舞い戻ってきたのなんて、私の知る限りじゃあ、あんただけだねえ」
老人は名を、三島要次さんといった。口調は明るく元気そうだが、見た目はやはり僕の記憶よりも随分と老けていた。聞けば、今年で八十一歳になるという。
三島さんは突然の訪問にも関わらず、僕の顔に見覚えがある、と仰った。十六年前までここに住んでいた新開ですと名乗ると、三島さんの瞳はきらきらと輝いて、入りなさい入りなさいと自室の鍵を開けてくれた。
ファミリー向けの間取りではあったが、玄関から入ってすぐの六畳間以外は、全て襖で閉ざされていた。見るともなしに見た室内には必要な家具が一通り揃っており、恐らくだが、そのほかの部屋は現在使用していないように感じられた。
僕たち夫婦と三島さんは、磨き上げられた木製のローテーブルを挟んで向かい会って座った。
「今でも管理人をされてるんですか?」
と僕が尋ねると、三島さんは「いやいや」と手を振って笑い、
「温情で住まわせてもろうとるだけですよ」
と仰った。
温情、とはどういう意味だろうか。
「私は生まれが西の方でねえ、昔色々あって体を悪うしてから、こっちに移ってきたんですよ。管理人言うてもなんぞそれらしい勉強はしてこんかったのですがね、村側の駐在にオサムラという男がおったのですわ。まあ、大分と昔の話ですけど」
「はあ」
話が見えずにただ頷く僕たちを前に、三島さんは嬉しそうに身の上話を続けた。
「そのオサムラが私を誘うてくれたわけなんです。ここいら一帯に開発の手が入る際、先を見越して鉄筋の集合団地をブチ上げるから、そこの管理人をやってみんかと、こういう誘いでした」
「それを……村の駐在さんが、仰ったんですか?」
先輩が尋ねると、三島さんは思ってもみない返答を投げて来た。
「こう見えて、昔刑事をしとりました」
驚いて先輩は僕を見やる。僕は当然頭を振って、三島さんを見つめた。
「刑事って、警察官だったんですか? 三島さんが? へえ、それは知りませんでした」
「まだこっちへ出て来る前のことで、もう三十年以上前に辞めましたわ。家内はもうとうに死にましたが、今でも息子夫婦が東京におりますもんでね、田舎よりは近い方が何かとええじゃろう言うてくれて、ええ、そのオサムラがね」
「はぁ。……それからずっと、ここで管理人を?」
すると僕の問いに、三島さんは「いやいや」と片手を振り、
「刑事辞めてから、東京で庭仕事なんぞしとったのですがね、身体を悪くしてままならんようになりましてな。そこへ運良くここいらの開発が始まって、そっからです。ただまあ、見ての通りの老いぼれですから、十年くらい前からはただの死にかけの爺です。主な手入れは管理会社が行ってくれてますが、これもまあ、こんな奥まった場所に建つひっそりとした団地ですんでね、適当といいますか、まあ、……まあまあ」
確かに、外観からではなんの確証も得られないが、満室が契約済みというわけでもないだろう。それは僕が住んでいた十六年前からそうだったのだ。誰にうるさく言われるようなことも、今や殆どないのかもしれない。
「こちらにお住まいになる条件として、管理人の仕事に就く、というお話しだったんですか?」
先輩が尋ねると、三島さんはお茶を飲みながら頷いた。
「最初はそういう話でした。計画は大きいもんだったけど、先行きの見通しは誰にも分からんもんねえ。管理人言うても、そうそうなり手がおらんかったらしいですわ。当時はまだ管理会社と話がついてなかった状況で、体裁が整えば正直誰でも良かったのと違いますかねえ。ただ、今さら出て行けともよう言えんみたいでね、本来なら私も息子夫婦の家に移ってもええのやが、まあ、身体が動くうちは掃除くらいさせてもらうかな、と」
「お丈夫ですねえ。とても八十歳には思えません」
正直な感想を述べると、三島さんは嬉しそうに笑って、
「刑事してた頃は体が資本だったもんねえ」
と、遠い思い出を見つめるように目を細めた。「むちゃくちゃな時代を生きたんですわ。それがあって、今があるんでしょうなあ」
「なるほど」
「……時に」
そちらさんは今頃どうして、と三島さんが僕たちを見つめた。
言われてみれば刑事のそれを思わせる、静かで思慮深い瞳だった。




