[43] 「幻子」4
その日の夜遅く、頃合いを見て父の家に入った。
傍から見ればそれは侵入に近い様相だったろうが、数年前までは私もこの家で暮らしていたのだ。何もやましいことはないし、鍵だってちゃんと持っている。ただやはり、警察が張り巡らせた黄色いテープを無断で潜る直前、無意識に周囲をキョロキョロと見渡してしまった。なるべく音を立てないように鍵を開け、カラカラと音のなるスライド式の扉をゆっくりと滑らせた。
本来なら懐かしいはずの室内には、まだ血の匂いが残っていた。
借家でないこともあって、現場保存の観念からも、家の中は惨憺たる有様のまま放置されていた。特に父のくつろぎの場である居間が最もひどかった。父はおそらくこの六畳の居間で呪いの効果が発動し、そして…。
「……ふう」
思わず溜息が出る。
目をやると、壁に備え付けられた年季の入った救難信号装置周辺に、父の赤い手形がべっとりと生々しく残されていた。赤、白、黄とあり、家の屋根から煙を断ち昇らせる、いわゆる狼煙を炊き上げる為のスイッチだ。新開さんから聞いた話では、父は黄色の煙を炊いたという。『当方、霊障により瀕死』。近くに住む小原さんが在宅中だったことがなによりの救いだ。父の受けた呪いの効果は尋常でない量の吐血を伴ったというし、呪いの正体がなんであれ、被害者が父でなければ助けが来るまでの間に絶命したことは間違いないだろう。
見れば、いたるところに血が飛んでいる。バケツに張った液体に巨大な筆を浸し、吸わせ、めちゃくちゃに振り回したかのように、無数の血飛沫が縦横無尽に飛び散っていた。父がその身から吐いたであろう血が床に溜まって黒くこびり付き、壁、天井、家具、座布団など、おそらく血のついていない部分がないくらい、視界が真っ赤に染まっている。すでに乾いて変色しているものの、その色は間違いなく血の色として私の目に映った。
坂東さんに言われたからというわけではなく、私も『U』には会うべきだろうと思っていた。父は恐らくそれを望まない気がするが、今回の被害者は父だけではない。感情を廃して客観的に見た場合、やはり会わないわけにはいかないのだ。ただし、当てがあるわけでもなかった。連絡先を知っているわけではないし、それが記された書類等の見当がついているわけでもない。そもそも、『U』の本名に関しては誰も知らない。Uというイニシャルが名前なのか苗字なのか、それすら分からないのだ。
天正堂の看板を表に出して仕事の依頼を受ける場合、本来であれば依頼者の名前と生年月日、住所などを用紙に記載させてこちらで保管する。たまに偽名を用いる人間もいるが、本人が目の前で書いたものなら別段真実を書いていなくてもあまり問題はない。個人情報だなんだと騒がれ始めた昨今だが、それとこれとは別の話なのだ。呪い師を生業とする者であれば正確な基礎情報を必要とするだらろうが、生粋の霊能者である私や父は、そういった意味では邪道と言える。本人が握ったペンや本人が書いた文字、又はその紙などがあればそこから様々な情報を読み取ることが出きるからだ。それは目には見えない情報で、人間が微弱に発する生命信号のようなものだ。『気』、という捉え方も出来るだろう。だが言葉や言い方がなんであれ、指し示すものは同じである。
今回の場合厄介なのは、父の残した日記を読む限り、『U』と仕事の契約を結んだかどうかの記載がないことだ。あるいはこの部屋にくれば、『U』に関する手掛かりを見つけらはしまいかと思って訪れてみたが、見る限りそれらしきものは何も残されていなかった。警察とて馬鹿じゃない。例え紙切れ一枚でも父の書き残したものが発見出来ていれば、持ち帰っていることだろう。だからこそ父は、その胸に大切な日記を抱えたまま運ばれて行ったのだ。機転を利かせた新開さんのちょっとした働きかけにより、警察の手に渡ることなく今もその日記は私の手元にある。
私は父が普段使っていた物書き用の小振りな机の前にしゃがみ込んで、そっと手を置いた。
父の記憶や残留思念とシンクロするのは少しだけ勇気がいったが、迷っている暇はなかった。
深呼吸し、意識を指先に集中する。
頭の中にノイズが走り、本来なら映像を映し出す筈の瞼の裏には、何も見えない。
真っ暗闇だった。もちろん、私が目を閉じているからではない。
……んだ、簡単な話ではないか。
突然、父の声が聞こえた。
誰かと話をした記憶が、まだこの部屋に残っているのだ。映像ではなく、声だけが私の中に入って来た。
……しは、…一体なんの……めに……きて……
父ではない人間の声が聞こえる。
それは女性の声に聞こえ、おそらくこれが『U』なのだろうと思われた。
……ああ、そうであったの……おまえさ、んは……
……かみさん……しは、……わたしは……
……れでよい。……これで、
……よいのだ。
ドーンと轟音が響き渡り、急激に視界が揺れ、視界が赤く染まった。
たった今瞼を開いたかのように、鮮血を受け止めた父の両手が見えた。
震える両手の隙間から大量の血が滴り落ち、「しまった」と父が独り言ちた。
まだ早い。まだもう少し。
父はふらふらと立ち上がり、壁に設置された救難信号のスイッチに手をかけた。
……すまない。
……幻子。
……すまない。
突然目の前が弾けたようになり、私の視界が自分の目で見る現実へと取って変わった。
ゾッして振り返る。
どこからか私を見ている視線を感じた。
「誰だッ!」
私は気合と飛ばしながら視線の先を追ったが、すぐにその視線は断ち切られ、辿れなくなってしまった。
「……何者だろうと決して逃がさないぞ」
私は独りごち、立ち上がって部屋の中を見回した。『U』らしき人間の声まで聞こえたということは、おそらくこの部屋の中に彼女にまつわる何かがあるはずなのだ。だが、血に塗れた室内には父の私物しか見受けられなかった。
ペン。
便箋。
書物。
封筒。
食べかけのチョコレート。
湯呑。
爪切り。
老眼鏡。
写真立てには父と並んで映る私がいる。
机とその周辺に散乱しているものだけ見ても、たくさんの物に溢れていた。その全てに父がいるのだ……。
室内全体ともなれば、どこから探して良いのか見当もつかない。そして私がこの部屋にいることを誰かさんに知られてしまった以上、悠長に家探ししている暇もない。
ふと気になって封筒を手に取った。便箋もあることから、誰かに手紙でも書くつもりだったのだろう。だが以外な事に、封筒の中から千切れた数珠が転げ出て来た。
見覚えのある、父がいつも手首に付けていた呪具である。
思い出し、私は持っていた父の日記をめくる。
『某月某日。何故今日、自宅ではなく外で会おうと私を誘い出したのか、その理由を聞く。……するとUは、この日が誕生日なのだ、と言った。一瞬疑ったがどうやら本当のことらしい。私は普段手に何も持たずに外出するくせがあり、唐突な祝い事にはまるきり対応できない。「とりあえず…」と喫茶代の伝票を手前に引き寄せた折、己の左手首にあった数珠が目に入り、抜いて手渡した。
「おっさん臭い」
と笑いながら、Uはその場で自分の手首に嵌めた』
これか、と思わずつぶやいた。
何故父の数珠が千切れて封筒に入れられていたのかは分からないが、
「これで、少しは『U』に近づける」
私はそう確信した。




