[37] 「希璃」3
女性看護師の悲鳴が、静まり返っていた夜の廊下に反響した。声は、玄関前の、総合受付待合の方から聞こえて来た。
「姉さん、あんたはそいつを持ってめいの側にいてくれ。こっちは俺と新開で向かう。小原さん、姉さんたちを頼めますか?」
坂東さんの咄嗟の判断に、
「分かりました」
と、小原さんは力強く頷いた
六花さんは見開いた目に悔しさを滲ませながらも、頼れる仲間を信じてめいちゃんの元へ走った。
「先輩も下がっていてください」
新開くんがそう言うも、今回ばかりは私は退かなかった。
「いや、実際に何が起こってるのか自分の目で見てみる」
「え?」
「おいおい」
力を貸してくれと言いはしたが、こういう場面で期待しているわけじゃない。
新開くんの目ははっきりとそう告げていたし、坂東さんにいたっては完全に迷惑そうな顔をしていた。だが、それでも私は退かなかった。
「覚えてる?この並び」
私の言葉に、新開くんと坂東さんは二人して首を捻る。
「しもつげ村以来だよねえ、この三人の並びは。あの時は紅さんのご自宅で、相手はあの黒井七永だった。それでも私たちは無事に帰ってこれた。……何気に最強のチームだと思うんだよねぇ」
私はそう言いながら、受付待合へと向かって歩き始めた。
「……まじかよ」
愚痴る坂東さんの声が聞こえ、新開くんが私の隣へ追い付いてくる。彼は何も言わず、私の半歩先を歩いた。
「……っ」
ふとした事で、すぐに私の涙腺は緩む。思い起こせば、新開くんはずっとこうだった。本当に怖がりで、すぐ怒るくせに、危険な場面には率先して自分から前に出るのだ。私は新開くんのこういうところに惚れたのだ。自分よりも他人を大切にできるところ。恐怖に負けない心の強さを持っているところにだ。
「一日でも早く成留のもとへ帰れるように、頑張りましょう」
私の両親に預けているまだ三歳の娘は、我儘を言わずに良い子でいるそうだ。ありがたいことに、娘は父親に似てくれた。私は両目を手の甲で拭い、先を行く新開くんの背中を追った。
「調子狂うわー」
そう言いながら、坂東さんが私を追い越して行った。
一瞬、自分が何を見ているのか分からなかった。
ぽつんと一人で立っているのはおそらく二十代前半の、検査着を着た若い男性である。
首に巻いたぐるぐる巻きの包帯が解けてだらしなく垂れ下がっている以外は、別段変わった様子はない。ただその男性は、裸足のまま微動だにせずぼーっと突っ立ち、両手をだらんと下げたまま、二メール程前方の床を見つめ下ろしていた。何をしているという風にも見えなかったが、そこに立っているだけで異様な気配が漂っていることだけは感じ取れた。
「斑鳩ッ!」
と坂東さんが叫んだ。
「……え」
彼がそうなのか、と思う。私がこの病院に連れてこられたのは彼が来るよりも前の事で、名前と素性を聞いた以外、実際に会うのはこれが初めてだった。
業務中に呪いの効果が発動してしまい、首から上が千切れかかるほどの傷を負った状態で運びこまれた、そう聞いている。それからずっと入院しているためか、無精ひげや目の下の隈が重病人を思わせ、肌艶の悪さが出で立ちの異様さに拍車をかけていた。
だが、ただそれだけであれば私も驚くことはなかっただろう。斑鳩さんとは隣同士の病室ではなかったが、同じ病棟の同じフロアであることは気配で感じていたのだ。
「どうやって抜け出したんだお前……?」
疑問を口にする坂東さんの声にも反応せず、整然と並んだ待合の椅子の間で、斑鳩さんはただ立って床を見ていた。
なんとなくだが、私にはそんな斑鳩さんの姿に違和感があった。三神さんの病室から漂ってくる異常なまでに濃密な、常にそこだけ夜の帳が降りているような気配とは違い、確かに斑鳩さんも苦しんではいただろうが、小原さんの力添えもあってか、そこまで酷い状況には思えなかったのだ。なのに。
……今目の前に立っている彼は、一体どうしたっていうんだ? 一度はまぼちゃんの力で、体内から呪いを押し出したんじゃなかったのか?
「先輩とは違い、彼はもともとの症状があまりよろしくなかった」
と、新開くんが私の耳元でそう囁いた。「部屋には、中からは開かない鍵がかけてあったんです」
どうやって部屋の外へ出たか、という坂東さんの詰問はその為だろう。私は納得し、頷いた。その拍子に、視界の端で揺れ動くもうひとつの人影に気が付いた。
「……あれ」
私の指さす方向に、先ほど悲鳴を発した主だろう、バインダーを胸に抱えた女性看護師が立っていた。斑鳩さんからは五メートル程離れているが、視線は釘付けにされ、足元には水溜まりが出来ていた。失禁してしまったと思われる。
「大丈夫ですか?」
思わず、といった口調で新開くんが声をかけた。しかし看護師はわなわなと震える両手を口元に添えたまま、こちらを見ようともしなかった。
何がなんだってんだよ、と坂東さんは独り言ち、
「おい、斑鳩しっかりしろ!」
と声を荒立てながら斑鳩さんに歩み寄った。
その瞬間、看護師が叫んだ。
その人は斑鳩さんじゃありません!!
「何?」
振り向いた坂東さんの目の前で、
オオオオオアアアアアアアッッ!!
斑鳩さんが口角に亀裂が生じる程の大口を上げて叫び始めた。それは絶叫でも悲鳴でもなく雄叫びだった。一番近いのは甲子園のサイレンだ。低音から中音域へ移動し、そのまま喉が潰れるほどガラガラとした声で斑鳩さんは尾の長い雄叫びを放ち続けた。
「うるせえ!」
坂東さんが斑鳩さんの頬を殴り飛ばした。その瞬間斑鳩さんの身体がパシャンと水音をたてて弾けたかと思うと、ほんの一メートル右側で、再び斑鳩さんの形となってぞれは復元された。
「あぁ?なんだァ?」
目を見開いて茫然とする坂東さんのすぐ側で、斑鳩さんはこう呟いた。
「馬淵さん…」
「…馬淵?」
私は斑鳩さんに釘付けにされる一同の視線を掻い潜るようにして移動し、女性看護師のもとへと近づいた。
「彼が斑鳩さんじゃないって、どういう意味ですか?」
なるべく平然とした声で尋ねたつもりが、その看護師は驚きのあまり腰を抜かし、水溜まりの中に尻もちをついてしまった。申し訳ないと思うが、今はどうもしてあげられない。
「教えてもらせませんか、先ほど看護師さんが仰った言葉の尾意味を…ッ?」
顔を覗き込んでそう問う私の言葉に、その看護師は手に持っていたバインダーを差し出した。
「……これは?」
「巡回記録です」
と看護師は答えた。「ほんのついさっきなんです。私、斑鳩さんの病室で検温をすませたばかりなんです。そこにその時の記録が書いてあります。私が書きました。その足でここまで戻って来たら、たった今会ったばかりの斑鳩さんがそこに立っていて……それで……」
悲鳴をあげたというわけだ。
新開くんを見やると、彼は私に目配せし、上着の懐から三代目大福を取り出すところだった。
名を『小福』という。何を隠そう、小福の身体であるフェルト人形を作成したのは、この私である。




