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『九坊 - kubo -』  作者: 新開 水留
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[35] 「希璃」1


 それが本当に悪夢だったのかと聞かれると、もっともっと陰鬱で、何日も余韻を引き摺る夢を見た事があるだけに、正直戸惑う。ただし夢の内容がどうとかいう前に、そもそも私は美晴台に住んでいた頃の記憶自体が、あまり好きではなかったのだ。

 新開くんと結婚し、子供をもうけた。成留だ。異常に可愛いく、異常におしゃまさんだ。今でも新開くんが夜家にいる時は必ず彼と一緒の布団に入り、ゆくゆくはお父さんと結婚するのだと私に豪語している。聞かれなくても自分で宣言してくるのだから、彼女の愛は本物だろう。

 そんな、娘に愛されまくっている新開くんがまさか、かつて同じ団地に住んでいた事があるなどとは毛ほどにも思わず昔話をした時、私はなんとなく、運命の赤い糸とは真逆に位置する、湿った暗い予感に胸騒ぎを覚えた。その暗さは、崖団地と呼ばれた集合住宅の、日の差さない廊下の雰囲気に似ていたような気がする。冷たく、静かで、日常的な風景でありながら、何故だか心底怖かったのだ。

 子供の頃の記憶だからと、私のそんな感想は、新開くんにはあまり同意を得られなかった。

 だが私は気付いている。

 彼は優しい。

 そして見た目のひ弱さからは考えられない程、男気に溢れている。

 その気質は彼が天正堂の看板を背負い、同時にチョウジの非正規職員として奮闘し始めた頃から更に強くなっていったように思う。

「あの団地って怖かったよねえ。なんか、ちょっと変わったお爺いちゃんみたいな人がいたりしてね」

「さあ、どうだったですかね。よく覚えてないですけど、あんまり怖かった記憶はないですねえ。静かな場所でしたけどね、そりゃ、色んな人がいますよ、団地ですもん」

 そんな風に、私の思い出を少しでも平坦なものへと変えようとしてくれていた。

 だから、私は自分が見ていた夢の話を、あまり彼の耳に入れたくなかったのだ。それにその時はまだ、なんとなく嫌な予感がする、寝ざめの良くない夢を見るという、どこにでもあるような不快感程度の悩みでしかなかった。私と新開くんの奇妙な接点を誰かに聞いて欲しい気持ちもあったし、相談相手である秋月六花さんにも会いたかった…。本当に、ただそれだけだった。


 新開くん。

 もし分かっているなら教えてほしいんだ。

 私はどこで、一体なにを間違えたんだろうねえ?


 その夜、めいちゃんを抱きかかえた坂東さんが病院内へ駈け込んで来る光景を見た時、私は瞬間的に自分を責めた。詳しい事情など何一つ分からないにも関わらず、原因は私だと思った。 

 私が崖団地の話なんか六花さんにしたからだ。

 全部そのせいなんだと、本気でそう思ったのだ。

 事前に知らせを受けていたのか、坂東さんたちを出迎えるように、小原さんが廊下の奥から走って駆け付けて来た。私はその時、一階受付そばにある、自販機コーナーの小部屋でペットボトルのお茶を買った所だった。面会時間を過ぎ、人気の絶える夜中の十二時以降であれば、短時間の外出を許されているのだ。外出といっても院外へは出られない。もちろんそうせねばならない理由も新開くんから聞いて理解していたが、やはり十二時になるのが待ち遠しかった。緊急外来の入り口が同じフロアにあるため、総合受付待合は夜中でも暗くならない。私がわざわざ、自販機が立ち並んだこの小部屋で飲み物を買う理由はそこにある。

 色んな偶然が重なって、私は坂東さんとめいちゃん、そしてフラフラな状態の六花さんがよろめきながら院内へ入って来るタイミングと鉢合わせした。

「ろ…ッ」

 だが、声を上げそうになる私の姿をひと目見た瞬間、六花さんは蒼白な顔を歪ませて叫んだ。

「近寄るなッ!」

 私は怯えて手に持ったペットボトルを落とし、そのまま自販機部屋へと後退した。

「希璃!来るんじゃない、そこにいろ!」

 六花さんは尚も言い募り、私は誰の顔も見えない場所で震えながら何度も頷いた。

 小原さんは良くて、私は駄目なのか。

 私は傷つき、そんな風に考えもした。だが見苦しい嫉妬はすぐに掻き消し、頭の中をクリアにしようと気持ちを切り替えた。切り替えようと努力した。だが、出て来るのは前向きな発想ではなく涙だった。



 遅くなりました!すみません、道が混んでて……

 やがて新開くんが戻って来た時も、私は震えたまま自販機コーナーから出て行く事が出来なかった。新開くんにまで「近寄るな」と拒否されるんじゃないだろうかと、馬鹿な被害妄想に憑りつかれていたのだ。

 新開くんは当然私に気が付かず、そのまま待合受付を通り過ぎていった。

 とっくに、その場から動いて良い事は頭では分かっていた。誰かに迎えに来て欲しいと駄々をこねる程若くもない。ただ、何も考えず、無邪気な顔で振舞う事も出来なかった。もし私に何某かの責任があるのなら、私にどんな償い方が出来うるだろうかと、ずっとそんな風に考えていたからだ。

「先輩……、そこにいますか?」

 突然声をかけられ、私はまたもやペットボトルを落っことしそうになった。慌ててそれを抱きかかえ、深く頭を垂れた姿勢で、

「います」

 と私は小さく返事をした。

 すると新開くんは姿を見せないまま、自販機コーナーの小部屋で一人座っている私に、こう言ったのだ。

「めいちゃんが、再び呪いを受けました」

 私の腕の中で、ペットボトルが音を立ててつぶれる。

 ……どうして……ッ。

「もう今回は、成留がやったように術者へ打ち返すような単純な対処は出来ません。おそらく完全に、めいちゃんの魂とその呪いは繋がってしまいました。もう僕たちに出来るのは、一刻も早く術者を見つけだして呪いを解くしか方法はありません。医者の話では三神さんの体調も良くない。小原さんが言うには斑鳩くんの精神状態も限界に近いそうです。……先輩」

「……うん。聞いてる」

「人手が足りません。力を貸して下さい」

「……うん」

「僕は本当は先輩をこれ以上巻き込みたくありません。六花さんの話ではすでに先輩の中にも、呪いの着弾点は埋め込まれている。その六花さんが側にいてもなおめいちゃんは呪われてしまった。僕がどれだけ細心の注意を払った所で先輩を守り切れるとは限らない。それでも僕は…ッ」

「分かってるよ」

「……」

「私は新開水留の妻だから。君が考えてる事はよく分かってる。君の優しさがどれほどのものか、私も成留もよおく分かってるよ。だからこそだよ。どうか、君のその優しい手を今一番大変な人に、一番困ってる人に差し伸べてあげてほしい。私はその手伝いがしたい」

「すみません」

「謝る場面じゃないよ。ありがとうでしょう?」

「だって」

「だってじゃないって」

 泣き笑う新開くんの声が、私の胸を千々に引き裂いた。

 私は立ち上がり、外へ出て彼の俯いた顔を抱きしめた。



 ……守られることが幸せだとは限んないでしょ。私だって君を守りたいんだよ。たまには私にも格好つけさせておくれよ、昔みたいにさぁ。






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