[34] 「六花」8
今となっては、バンビと電話で話した記憶も曖昧だ。恥ずかしながら、彼の声を聞いた途端気が緩んでしまったこともあって、実際に何を話したかを思い出せない。崖団地について話した気がするが、それも定かじゃない。
携帯電話の履歴を見た時、私が最後に話をした相手は新開だった。何かの間違いだと思った。携帯の通話履歴は消せるはずだし、何か別の操作中にボタンを押し間違えたのかもしれない。だがそんなことよりも、突然私たちを襲った傀儡という存在の方が、より強く私の頭と心に大きなひっかき傷を作った。
自分たちの相手にしている呪いという存在が、急に生々しい実態を伴って現れたことの、驚きと恐怖。相手をするのはそう難しい事ではなかったけれど、出来れば、傀儡のような忌わしい姿をめいの視界には入れたくなかった。
記憶の中のめいは、突然私の前に躍り出て、ただの木切れと化した傀儡の残骸に覆い被さるようにして倒れ込んだ。その瞬間、めいの身体の下で蒼白い光がボワンと飛び出したかと思うと、そのままめいの身体に入り込んで消えた。
私は一瞬何が起きたか理解できず、現実味の薄いそのワンシーンを茫然と見送った。
めいは四つん這いの姿勢から体を横に倒して尻もちを着くと、汗に濡れた額を拭いながら私を見上げてこう言った。
「ごめんね、お姉ちゃん」
「……なにが?」
その時だった。
どーーーんという轟音が大地と周囲の家々を揺らした。
めいは悲鳴を上げ、私は態勢を崩して片膝を着いた。
だが、
「……なんだ」
グラグラと鳴動する視界は何故か、切り取られた絵画を私に連想させた。目線を上げれば、村を取り囲むように連なる山々までの眺望が大きく開けているせいだろう。私はすぐに理解した。
揺れているのは、私たちのいるごく狭い面積だけなのだ…!
正確な範囲は分からない。しかし限られた一部分だけが激しく振動し、その向こうに見える家々や山並みは、揺れる視界の向こうで微動だにしていなかった。私はこの時、三神さんが書き残したと言う日記のとある記述を思い出していた。振動する家についての話だ。依頼者である『U』の家だけが、近隣住民に恐れられる程激しく、そして何度も振動していたという。そこには残念ながら、三神さんなりの考察は書き添えられていなかった。だが今、状況の違いはあれど、まさしく私たちは揺れている。影響の及ばない外界からまるで断然されてしまったかのように、私たちだけが揺れているのだ。
「お姉ちゃんッ!」
めいの悲鳴に私の意識が吸い寄せられた、その時だ。
それは、雲間から差し込む月明かりに照らされた何かだった。
ドドドッ。
遠くの空から飛んで来た何かがめいの身体に突き刺さった。
めいは再び悲鳴を上げ、両手をクロスさせて衝撃に耐えた。
「めいッ!!」
「う、あ……あれっ?」
だが次の瞬間には、めいは何事もなかったように自分の身体を見下ろしていた。胸の前で両手を何度もひっくり返し、肩や二の腕を摩って外傷がないことを確かめる。私の目から見ても、めいの身体にに異変はない。だが間違いなく、何かがめいの中に飛び込んだのだ。
「お姉ちゃん、今のって…」
「めい」
私はふらふらとめいに歩みより、彼女の側にしゃがみ込んで抱き寄せた。
私は真っ青な顔で狼狽えながらも、なんとか現実を見ようと抗う気丈な妹の顔を覗きこんだ。
「聞いて、めい」
「お姉ちゃん?」
「ごめんね。絶対に助けるからね」
「……私」
この瞬間、私は覚悟を決めたと言っていい。
めいの魂は今、再び呪われてしまったのだ。
私はめいの体を抱き寄せたまま立ち上がり、これから向かう筈だった崖団地の方角を睨んだ。そして元来た道を振り返り、どちらの選択肢を選べばよいのか必死に考えを巡らせた。
「……行こう」
「え」
しかし私の選んだ道は、崖団地へも、そして柳家に停めた車へも向かっていなかった。
「どこ行くの!?」
「郵便局まで戻ろう」
私が選んだのはTの字で言う縦線の道、幹線道路へと続くわが家への帰路だ。この時間郵便局は閉まっているだろう。だが午前中に立ち寄った際、職員が使用する配達車両が停車していたことを思い出したのだ。
「車を拝借する」
「ええッ? 菊絵さんの家に戻ればいいじゃない!」
「駄目だ」
「どうして!お姉ちゃん痛いよッ!」
強く引っ張り過ぎたせいか、めいが身を捩って腕を振り解いた。
めいは馬鹿じゃない。おそらく自分の身に起きた事を薄々理解している。一度その身に呪いを打たれた経験から、戻って来たと言っても過言ではないその感触に怯えてもいるだろう。だがあくまでも冷静だった。だからこそ、逃げるなら柳家に停めた車が良いと判断したのだ。
だが、私は違った。
「駄目だよ、めい。あんたはもう、人と触れ合っちゃいけないんだ」
「……」
「多分柳家に戻れば、また奈緒子ちゃんが心配して出てくるだろう。だけどめい、分かって欲しい。私があんたを命がけで守る。だから事が済むまでは、あんたは他人と…」
「分かった」
と、めいは答えた。
「めい……」
三神さんだけでなく、新開希璃、斑鳩調査員がなぜ自由を奪われ病院内で隔離入院させられているのか、その理由と同じである。業界の認識で言えば、呪いというものは霊障や残滓とは違って祓う事が出来ない。呪いの元となる人間の強い思いや怨念を断ち切るか、呪いの持つ機構を分解するしか助かる方法はないとされている。それは解呪と呼ばれるものだが、被害者の呪いが解けなかった場合の最終手段として、『呪い移し』なる技法を用いる事がある。これは本来誰もが行える業ではないが、稀に霊力を持たない一般人であっても、呪いの効果を近しい人間に伝染させてしまうことがあるのだ。『死に物狂い』という言葉は死をも恐れず頑張るという意味だが、私たちの間では、偶然呪いを他人へ飛してしまう行為も同じように表現する。
ただでさえ、めいは一般人とは言えない霊力を持っている。彼女が死に物狂いになれば、おそらく簡単に他人へ呪いを移せるだろう。まだ幼い成留がやったように、純粋な祓いの力だけで打ち返せる段階はもう通り過ぎてしまった。呪いはすでにめいの魂に紐付けられ、弾いた所ですぐに戻って来る。となれば、他人に移すしか助かる方法はない。だからこそ……駄目なのだ。
「人に迷惑かけちゃいけないもんね」
瞳をうるませながら、めいはそう言って微笑んだ。
「大丈夫だからね」
私が言うと、めいはうんうんと何度も頷いて、こう囁いた。
「まあ、車両泥棒はぁ……坂東さんに迷惑かけちゃうけどね?」
どうでもいいよと私は笑い、めいの手を取って歩き始めた。
そのままめいは、前のめりに倒れ伏せた。
どのぐらい時間が経ったのか、覚えていない。
バンビが駆けつけてくれた時、私はめいの身体を抱えて夜中の幹線道路を走り続けていたそうだ。
泣きながら半狂乱でどたどた走る私の姿を見た時、バンビは辺り構わず、乗って来た車を180度急旋回させて停めたらしい。事情を聞かなくてもバンビは全てを理解し、めいの身体を後部席へと運んでくれた。
火事場の馬鹿力だったのだろう。私はバンビにめいを預けた瞬間、ガス欠のようになって崩れ落ちた。




