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『九坊 - kubo -』  作者: 新開 水留
33/146

[32] 「新開」11


 有紀さん……?


 だがそれは、僕の知っている有紀さんではなかった。

 天井に埋め込まれた空調設備の送風口に手錠をねじ込み、もう片方の輪にベルトを通し、有紀さんは首を吊って死んでいた。長時間そのまま放置されていたと見え、首は異常に伸び、力なく垂れさがる足先が床に届きそうだった。そして彼の足元には糞尿が溜まり、まだ乾ききってはいなかった。


「どうして……」


 有紀さんは決して自ら死を選ぶような人ではない。

 これも一種の呪いなのか。

 彼もまた九坊の犠牲者なのか。

 何も分からない。

 僕は一体どうすればいいと言うんだ……。


 電話が鳴った。


 慌てて携帯を取り出し確認すると、相手は坂東さんではなく、妻の希璃だった。携帯の画面に表示された時刻は、午後十一時。K病院を訪れてから、いつの間にか三時間近くが経過している。まるで、時間を一、二時間素っ飛ばされたような感覚に陥った。僕は震える手で通話ボタンを押す。

「はい」

「……新開くん?」

「はい。先輩どうしました?」

「うん。なんか、ちょっと何か気になって。大丈夫かなと思って、電話してみたんだ」

「……そうですか。そちらは、変わった事はありませんか?」

「うん。相変わらず三神さんとは話せてないけどね」

「そちらには今、どなたが?」

「斑鳩さんの側に小原さんがついてるよ。あと、なんとかっていう目付きの悪い兄弟が来て、さっき帰ってった。今日はもう、君は戻れそうもない?」

「いえ、この後戻りますよ。先輩は特に変わりないですか」

「うん。私は大丈夫」

「はい」

「新開くん」

「はい」

「……私も、やれることはなんだってやるからね。だから、一人で抱え込まないでほしい。気持ちをしっかりもって、こういう時こそ心を折られたら駄目なんだよ。だからね、新開くん……」

 そう僕を励ます妻の声がいつの間にか、涙で震えていた。恐らく彼女自身何故泣いているのか理解してはいないだろう。勘が鋭い割には、そこに根拠を求めようとしないおおらかな人なのだ。僕はそんな妻に心配をかけぬよう、片方の手で鼻と口を強く握りしめていた。それでも涙はどんどんと僕の手を乗り越え、冷たい床に滴り落ちていった。




 重たい体を引き摺り、車に戻った。慎重に慎重を重ねて廊下や看護師の詰め所前を通った事が馬鹿らしくなるほど、帰りは誰にも出会うことなく、人影を見ることさえなかった。僕は駐車場に出てすぐ、携帯電話で坂東さんへ連絡を取った。

「坂東」

「新開です。有紀さんにお会いしました」

「なんの用だったんだ?」

「駄目でした」

 脈絡のない僕の返答に息を呑む音が聞こえ、

「……なんだって?」

 と坂東さんは掠れた声を発した。

「坂東さん。有紀さんは、お亡くなりになられました」

「……」

 罵詈雑言が飛んで来ると思った。

 有紀さんの死の責任がどこにあるのか、無理に答えを出そうとすれば、恐らく有紀さん自身にあるのだろうと思う。それはひとえに、僕たちが一般市民ではないことから来る覚悟の問題だ。霊障、あるいはそれらを繰る人間と戦って勝たねば先はない、そういう仕事を生業にしているという、覚悟だ。有紀さんは何かと戦って、負けたのだ。

 だが僕はそれでも、怒り狂う坂東さんの声を期待していたし、火の点いたような勢いで罵倒された方がマシだとさえ思っていた。残された人間は常に、救えなかった人々の分まで痛みと傷を背負い、一生後悔し続けながら生きて行く。僕も坂東さんも、嫌と言う程その事を知っているのだ。

 ……だからだろうか。

 坂東さんはひと言も発さず、最後に「分かった」としか言ってはくれなかった。

 とても冷静な声だった。僕は一瞬携帯電話を投げ捨てそうになり、きつく握り締めた。

「所轄への手配だけ頼めるか。上には俺から報告しておく。こちらも状況が良くない。切るぞ」

「え?」

 一方的に電話は切れ、僕は大きく吸い込んだ息を吐き出すタイミングを失った。坂東さんにとっては長年共に働いて来た同僚の死だ。同年代の、同じ時代の同じ空気を吸って来た仲間の死である。それでも坂東さんは前を向いたまま振り返らず、非情な決断で電話を切った。その事に対して怒る気など僕には毛頭ない。ただただ、有紀さんの無念と坂東さんの鋼の精神に触れ、僕の胸は例えようもなく痛んだ。

「……」

 だが、俯いてばかりもいられなかった。

 状況が良くない。坂東さんがそう言うからには、やはり美晴台でも何かが起きていたのだ。坂東さんの口調と声色から察するに、恐らく秋月姉妹とは合流出来ているのだろう。もしそれすらまだならば、あんなに落ち着いた声は出そうと思っても出せないはずだ。となると問題は、秋月姉妹の方にある……。

 僕はどんどん浅く速くなって行く呼吸を整えようと、強く息を吐き出し、そして大きく息を吸い込んだ。糞尿の匂いを嗅いだ気がして、咽た。僕は何度も咳き込み、涙を拭い、上着の懐にしまい込んでいた『小福』を握りしめた。

 何とか気持ちを落ち着かせ、車のエンジンを掛ける。

「……まぼろ」

 言葉が不意に口を突いて出た。そして掛けた瞬間エンジンを切った。

 僕は再び携帯電話を手にすると、幻子の番号を呼び出した。



「はい」

「……平気かい?」

「……なぜ、聞くんです?」

「何故、か。何故だろうね」

「部屋に、侵入されました」

「……し、侵入って泥棒か!?」

「まあ、何を取ろうとしていたかは、一般のそれとはまた違うのでしょうけど」

「…い、な、…なんだって?」

「探さなくても見える所に大福ちゃんを置いていてくださって、助かりました。さすが、新開さんですね」

 僕は幻子の言葉の意味を理解し、ギュッと目を閉じる。

「……何が来た?」

「…さあ、はっきりとはまだ。ですが、分かった事もあります」

「何だい?」

「やはり……新開さんの懸念されていた通りでした」

「懸念? 三神さんの話かい? 自然発生した呪いを偶発的に受けたわけじゃないかもって、僕がそう言った話か? じゃあやっぱり、狙いは僕たちなのか?」

「あるいは、我々のうちの、誰か」

「呪いの正体は、九坊だと思うか?」

「……おそらく、そうではないかと」

 やはり、そうなのか。

 幻子が言うからには確証に近い何かを得たのだろう。だがそれは同時に、坂東さんが言ったように、この事件にはまだまだ先がある、犠牲者が増え続けるという予言が現実味を帯び始めたということだ。

「今からそちらへ向かうよ」

 いてもたってもいられなくなり、僕はそう申し出ていた。だが幻子は即答で突っぱねた。

「結構です。皆さんそれぞれが奮闘なさっている筈です。新開さんも、ご自身の役目を一刻も早く。どうか、お気を付けて」

「……わかった」

「それでは」

 通話が終了する。

「まぼろ…ッ」

 何かを言いそびれたわけではない。

 単独で動き続ける彼女に何かひと言でも、気の利いた言葉をかけたかったのだ。だが本当は、臆病者のこの僕こそが、彼女に何かを言って欲しかったのかもしれない……。






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