[31] 「新開」10
「妹の汐莉さんからは、何故お姉さんがお亡くなりになったかを聞けませんでした」
僕は看護師のHに座ってもらえるよう促しながら、慎重に言葉を選んで言った。「僕がふらっと現れて病院側に尋ねた所で教えてもらえるとは思えませんが、面会に訪れた知人に聞いた話では、割りと元気そうだったというものですから……なんというか」
「ああ、ええ、まあ」
僕はいかにも病院側の医療ミスを疑っているような顔を作り、その線でHを押してみることにした。これだけ大きな規模の病院だ。例え埃の立たない体であっても、いらぬ嫌疑をかけられるのは体裁上よろしくないはずだ。
すると意外なことに、
「実はその事に関して言えば、私も思う所があって」
と、Hは視線を自分の膝に落としたままそう答えた。「今日、その事で捜査にいらした刑事さんにも同じようにご相談したんです」
「刑事…」
「ユウキさんと仰る方でした」
心臓がゴンと跳ねる。
ここでその名前が出るのであれば、正脇姉妹の知人を騙ったのはまずかった。看護師のMには僕の名前を名乗ってあったのだ。功を急いたかと下唇を噛む。
「相談事というと、茜さんが亡くなった時の事ですか?」
「そうです」
僕は一瞬、本当に医療ミスが起きていたのかと思った。現場に居合わせた看護師の証言である。告発の材料としては十分すぎる。
「私、主治医や他の看護師と一緒にその場にいたのですが、その、見てしまったんです」
「何をですか?」
「……どうせ、信じてもらえないと思います」
「正直に仰っていただけるなら、信じますよ」
Hは逡巡し、リノリウムの廊下に視線を泳がせ、やがて囁くような声でこう言った。
手足の長いバケモノが、正脇さんの頭を持って……そのまま引きちぎったんです。
「え?」
詳しい事情など何も知らない顔をして座っている以上、それしか返事のしようがなかった。だが内心では、その可能性もなくはないと思っていた。世の中には、自分が霊力を所持していることに無自覚な人々が大勢いる。正脇茜の件で言えば、チョウジが呼ばれる程の異常な死亡現場だ。何が行われたのか、その目で見てしまった人間がいたとしても不思議ではない。
めいちゃんは正脇茜のいた病室で、「怖い、怖い」と繰り返す声を聞いたそうだ。突如として何者かが現れ正脇茜の首をもいだという可能性も、選択肢の一つとして考慮せねばならないとは考えていた。僕はそれでも理解不能であるという顔を崩さぬまま、
「どういう意味ですか?」
と問うた。するとHは首の後ろを片手で掻きながら、
「私、昔から霊感があって」
と消え入るような声をだした。ひどく恐れている様子だった。
僕は早鐘を打ち始める心臓の音を掻き消すように、努めて明るい調子で、
「やだなー」
と返す。坂東さんの話が本当であれば、このHもまた九坊の呪いを食らう危険に晒されている。事態はどんどんと深刻な方向へと枝葉を伸ばして行く。
「……え、揶揄ってるー、とか、じゃあ、ないんですね?」
「だから信じてもらえないと」
「いや、信じますよ。僕も感じるタイプなんで」
「え?」
「でもー、刑事さんにはそういった話は通用しなかったんじゃないですか?」
「いえ、びっくりです。その刑事さんも、あなたと同じことを仰ったんです。僕も感じるタイプだからって」
ゾッとすると同時に、恥ずかしくもあった。……次からは違った返事を用意しなければ。
「あー。それでその刑事さんは、なんと?」
「現場を見せて下さいと仰られて、今は使われていない例の個室に案内しました」
「茜さんが療養されていた部屋ですね。何時ぐらいの話です?」
「時間ですか。……会議から戻ってすぐでしたから、三時過ぎだと思います」
それでも五時間以上前だ。やはり有紀さんは既に病院を出た後だろう。
「その後刑事さんとはお話しされました?」
質問の意味が分からないのか、Hは首を傾げて僕を見返した。
「だって、怖いですよね。実際自分の目で見た物が現実なのか、興奮状態で見た錯覚なのか、そういうのって人に指摘してもらって初めて理解出来るっていうか」
「ええ、そう思います。私もこの病院十年いますけど、やっぱり、見るんですよね、時たま」
「やっぱり、病院という場所はどうしてもねえ」
「はい。だから見たものは全部同僚に話して怖さを共有し合うようにしていたんです。だけど今回の事はどうしても、なんだか口に出してはいけない気がして」
「へえ。となると、その刑事さんが初めてなんですね?」
「はい」
「なら尚更、調査結果を知りたくなりませんでした?」
「それはそうですが……刑事さんの方から、何か分かり次第ご報告いたしますと言われて、それきりです。その後は私も会議の報告書をまとめたりなんだり、忙しくしてましたので」
「そうですか。…あのー」
「はい」
「あ、いや、なんでもないです。すみません、色々聞いちゃって」
僕もその個室を見て良いかと口にしかけて、やめた。正脇姉妹の知人として訪れた人間には、さすがにそれは出過ぎた真似だと受け取られる、そう判断したからだ。だがHに礼を述べてその場で別れた後、僕は当然正脇茜のいた個室へと向かった。
406号室。部屋番が分かれば探すのは容易い。周囲に気を配りながら階段を使い、看護師の詰め所を通過する際には廊下を這って身を隠した。最終的には見つかったとしてもなんとでもなる。だが途中で発見されて、部屋まで辿り着けないことだけは避けたかったのだ。
その病棟の四階に到達した時、僕は自然と流れ落ちる温もりに気が付いた。頬を拭うと濡れていた。疲れているのか、久しぶりに階段を使って息があっているせいか、僕はいつのまにか泣いていたらしい。
廊下に目をやり、部屋の番号を確認する。この病院の消灯時間が何時なのか分からないが、幸いにも人気のない廊下にも照明は灯っていた。音を立てないようゆっくりと歩を進め、やがて406号室の前に立った僕は、無意識に、
「ふうぅ」
と、何かそのような声を漏らしていた。
「何故だ……」
そしてそう呟く声は震えていた。
溢れ出る涙を両手で拭う。
どうして誰も気づかないんだ。ここが病院だからか? 入院患者が多く療養する病棟だからか? だからって、この匂いに気が付かないなんてことがあるか?
正脇茜のいた406号室の前に立った時、僕は強烈な糞尿の匂いを嗅いだ。
それは単なる排泄物の匂いではない。
僕にとってそれは死の匂いだった。
病室の扉に手を伸ばした時、僕は有紀さんの声を聞いたような気がする。
新開。僕の名を呼び、そして「すまん」と、彼はそう詫びた気がするのだ。
コの字型の取っ手に手をかけ、扉をスライドさせる。
明かりの点いた部屋の中央に、おそろしく背の高い人物が立っていた。




