[30] 「新開」9
Mやその他の病院スタッフが騒ぎに気付いて駆け付けると、拘束されるいわれのない患者たちは急に我に返り、状況が理解できぬまま憤慨しつつ散り散りに消えたそうである。すすり泣くような声を上げていたことも、なぜ皆が同じ場所に集まっていたのかも、その時どんな精神状態だったのかも、誰も何も覚えていなかったそうだ。
「悲鳴っていうとキャーとかギャーっという叫び声を想像しますが、そういうものでもなかった…?」
Mは僕の問いに頷いて答え、「もっと酷い有様だったよ」とこぼした。
「原因がこうだってはっきりしてれば対処のしようもあるじゃない。考えてみなよ、その病棟の待合いスペースなんて正面の総合受付前と違って小さなもんなのよ。そこに一般外来含めたほとんどの患者が寿司詰めになっておいおい泣いてるのよ。ヒーヒー言ってる人もいた。全く意味が分からなかったよ。地獄を見た気がしたね」
「な、なるほど」
確かにそれは怖いと思う。「だけどそんな大変な騒動のさなか、有紀さんはどこでなにをしていたんでしょうね?」
同情に寄せた僕の問いかけに、Mは苦々しい顔で僕を見つめた。
「患者さんと一緒んなって泣いてたよ」
「……え」
僕はゾッとし、思わず首の後ろを抑えた。何か得体のしれないモノが這い上がってくるのではと、そんな恐怖にかられた。
「その、ユウキさん?って人も、私らが発見した途端何食わぬ顔で頭をボリボリ掻いて、また別の病棟へ歩いていったよ。そこからは知らない」
「そ、それっていつの話ですか!?」
「だから昼過ぎだって」
「その後有紀さんの姿は誰も見ていないんですか!?」
「なんで見なきゃいけないのよ。勝手に来て勝手にうろつき回ってたんだから知らないって」
僕が図書館の駐車場で有紀さんからの電話を受けたのが、午後七時過ぎ。Mの言う昼過ぎというのが仮に午後一時だとして、およそ六時間も一つの場所で聞き込みなど行うだろうか。ないとは言い切れないが、すでに別の場所に移動し、そこから電話をかけてきたと考える方が自然のような気がする。
僕はMに丁寧に頭を下げて礼を述べ、院内を一周だけさせてくれと断りその場を後にした。廊下の角を曲る直前に振り返ると、詰所から半身を出したMがじっと僕のことを見ていた。
この病院内でもまだ何かが続いている、そう判断せざるを得ないと思う。
坂東さんの話によれば、九坊の呪いは霊能力持ちにしかかからない、発動しないはずである。K病院を訪れた患者全てに霊感があるなど考えられないし、今回の騒動は前提条件を覆しかねない可能性を孕んでいると言えた。
正脇茜を死に追いやった呪いと同じ現象なのか、また何か別の力が働いているのか、現段階で確証を得るものは一つもない。しかし、集団ヒステリーにも似たMの話が全て本当に起きたことだとして、僕にはそれの意味する重要な部分が現実から抜け落ちている気がしてならなかった。もし、此度の一連の事件に『九坊』が深く関わっているとした場合に、当病院で起きた奇怪な現象の原因を考えようとしても、すぐに答えは出ない。僕がこの時疑問に思ったのは、その集団ヒステリーの行きつく先がどこにあったのか、という部分だ。おそらく異常な光景に出くわしたMを始めとする他の病院スタッフには、その場に見えていないものがあったはずなのだ。つまり、集められた患者たちは最終的にどうなるはずだったのか、という結末を示唆する重要な真実が抜け落ちている…。
もし、有紀さんがその事に気付けていたら、血眼になって病院内を駆けずり回ったはずだ。Mの証言では、有紀さんも他の患者同様意志薄弱の状態にあったというが、チョウジ職員としてベテランの域に達する彼のことだ、鵜呑みにするわけにはいかないだろう。この後坂東さんと連絡を取るにせよ、院内をひと回りした後でなければ話すに話せない。
僕はその後、多くの患者たちが集められたという病棟へ向かい、現場を確認した。
「……こんな所に?」
確かに、正面玄関から入ってすぐに広がる、総合受付の待合スペースとは比較にならぬほど狭い場所だった。複雑に伸びた廊下の交差点といった印象でしかなく、整然と並んだ固定式の椅子と曲がり角にある小さな受付窓がなければ、気付かずに通り過ぎるだろう。こんな細い通路の一画に大勢の患者たちがひしめきあっていたなど、想像しただけで寒気に襲われる。
だが周囲を見回しても、これといって特別な霊障の残滓は感じられなかった。何かがいたとか、あるいは呪式を打たれた痕跡がどこかに残っているとか、期待したものは何も発見出来なかった。
坂東さんは僕に、『九坊とは伝染する呪いである』、と語って聞かせた。しかしその言葉の意味を問い質す前に異形と化した少女の襲来を受けてしまい、彼の真意を理解出来ずにここまで来た。いわゆる呪いが必要とするような、正しい知識と手順で組み上げた仕掛けを何も用いずただ伝染していくと言うなら、きっとその痕跡を辿るのは甚だしく困難だろう。現場を訪れてぐるりと見渡した所で、何も発見できるはずがないのだ。
「お腹の調子はどうですか?」
待合スペースの椅子に腰かけていた僕に、そう声を掛けて来る者があった。K病院に足を踏み入れた際、醜態を晒した僕を心配してくれたあの看護師だった。見たところ、三十代ぐらいの落ち着いた女性である。
「ああ、もう平気です。先程は変なとこ見せちゃってすみませんでした。遅くまで大変ですね」
「ええ、まあ、夜勤なんで。あのう、もう面会時間終わっちゃってますけど、入院されてる患者さんのご家族の方ですか?」
「ああ、実は…」
こういう時、坂東さんや有紀さんと違い、警察手帳を持っていない非正規雇用の立場は辛い。坂東さんたちも、自分が公安の人間であるとバレる身分証は携帯していない。だがこういった場面ですぐに警察手帳を提示できれば、おかしな目で見られることも、はぐらかす理由を考える手間も避けられるのに。
「先日この病院で亡くなった、正脇茜の妹と縁がありまして」
「ああ、……あの件ですか」
その看護師は、胸に名札を付けていた。ここではHと呼ぶことにする。Hは先程話を聞いた看護師のM同様、今日の午後から当病院に出勤していた。が、お偉いさんに付いて院外の会議へと出席していたため、奇怪な騒動についてはよく知らないとのことだった。しかしながら恐るべきことに、このHは、正脇茜が死んだ現場に居合わせた看護師であることを自らで告げた。
僕は思わず息を呑んだ。……本当にこの出会いは、偶然ということで良いのだろうか?




