[29] 「新開」8
眼鏡をかけた若いその女性看護師を、ここではMとする。
Mの話はこうだ。
あまり人相のよろしくない、ガタイの良いスーツ姿の男性が総合受付を尋ねて来たのが、午前十一時。名刺などは差し出されなかったが、自分を「ユウキマサル」と名乗ったそうだ。
有紀さんと直接話をしたのがあなたかと尋ねると、首を横に振ったMからは、
「私は今日は夜勤だから午後出勤」
と愛想のない答えが返って来た。
有紀さんは受付にて、先日亡くなった正脇茜に関する調査を行っていると正直に告げたそうだ。この辺りに噓はないと思う。管轄違いで所轄の刑事たちと揉める可能性はあるものの、坂東さんや有紀さんたち(むろん僕もだ)が所属するチョウジの存在は、一般の刑事達の間でも割と知られている。極秘部署であるがゆえに『公安部の暗い連中』程度の認識しか持たれていないが、とかく陰惨な殺人現場などでよくチョウジの面子を見かけるのだと、僕も実際に聞かされたことがある。あまり良い印象をもたれている気はしないが、捜査の縄張りに関して揉めた経験は幸いにして一度もない。……僕は、だが。
「そう言われてもねえって、その、有紀さん?に言われた子も戸惑ったらしくて。人が亡くなった事件だから、当初物凄い騒ぎにはなったわけ。色々伏せられてたけど、ニュースにもなったし。だけどなんていうか、サーーーって、騒動自体がうやむやなまま、あっと言う間に沈静化しちゃって。院内でもなんとなくその話はご法度っていうか。まだそんなに日数経ってないのよ? 変でしょう?」
そうですね、と僕は応じるも、正直これはよくある話だ。
個人の霊障被害についての相談事ならいざ知らず、こういった集団生活と呼んで差し支えない労働条件の現場では、常時様々な人間が出入りしている。医者、研修医、看護師、患者、その家族、薬剤の外商スタッフなど、その瞬間現場に居合わせる可能性のある人間は相当数に上る。だが、国家権力を使って戒厳令を敷くと、人は必ず抜け穴を探すものだ。
そこで、こういったケースでチョウジの使う主な手段は、「スパイ」と揶揄される方法である。
まず、一部の上層部や責任者を呼びつけ「事件は解決した」という噓の情報を流す。これこれこういう理由で事件は起き、犯人はある程度絞られた(あるいは鋭意捜索中)と宣言すれば、ひとまず現場の混乱は収まる。その後タイミングを見計らって、こう付け加えるのだ。
「現場の方々にもそのようにお伝えください。もしも……目立った動きをするような人間があれば、すぐに我々にご一報を」
勘の良い人間であれば、その一言で事件がまだ完全には終わっていないことを察する。そして人がもともと持っている正義感から、目立った動きをする人間がいないかを無意識に監視するようになるのである。最初に選ばれた人間は細心の注意を払いながらも、言い方は悪いが、チョウジの番犬となって目を光らせてくれるというわけだ。
だが実はこれは、チョウジが仕掛ける『真犯人をあぶりだす為の常套手段』でもなんでもない。チョウジの思惑は、単純だ。「いいから黙って、大人しく協力しろ」、本当にただそれだけである。
此度の正脇茜事件において、警察からK病院へどのような通達が降りたのかを僕は知らない。しかしMの話が本当なら何かしらのアクションはあったと推測されるし、その証拠にMはこう続けたのだ。
「だけどさ、通りすがった内科の医師がさ、偉そうに言うわけよぉ。『ちゃんとお相手してさしあげなさい』だって。はあーー!?って思うでしょ、お相手よ!? 私らはなに!? キャバ嬢かなんかなの? え? どう思う!?」
Mがまたもヒートアップし始め、僕は苦笑しながら両手で「まあまあ」となだめた。
とにもかくにも、有紀さんはまんまと単独で調査し始めたわけだが、午後三時を回った辺りから、院内の様子がおかしくなり始めたそうなのだ。
午後の受付が始まった段階で、いつもなら多くの外来患者で溢れかえっている受付待合から忽然と人が消えた。だがその程度であれば、珍しい事があるもんだな、で済んだ。ところがだ。
「急に静かんなったもんだからさ、聞こえちゃったわけ」
「何がです?」
「……悲鳴」
「悲鳴? 病院内でですか?」
もし本当なら確かに大事だ。不安や恐怖、痛みといった負の感情を抱えた人間が多く交錯する病院という現場において、悲鳴はたった一発でその場をパニックに陥れる事が出来るからだ。
「物凄い混乱になりませんでしたか?」
「それがね、悲鳴が聞こえたのはこの詰め所とか受付付近じゃないのよ」
「どこです?」
「それが最初、全然分かんなくってさぁ」
……遠くの方。どことも知れぬ場所から漂うように、悲鳴が流れ聞こえてきたのだという。
「近くに人がいなくて良かったですね。もしそれが悲鳴として患者さんに認識されたら、結構な騒動ですよね」
同情するフリをしつつ僕がそう言うと、Mは眉根を寄せて深刻な表情を見せた。
「結構な騒動だったのよ」
「そうなんですか?」
「この一階フロアの廊下、緑のテープが貼ってあるでしょ? このテープは道案内の為に他の病棟や利用者の多い検査室まで繋がってるわけ」
「ええ。赤、オレンジ、緑、白とありますね」
「緑はこの奥の別の病棟まで続いてるの」
「なるほど」
「正脇茜が出入りしていた病棟なの」
「え?」
「長期入院の患者さんがたくさんいる棟で、生前正脇茜が調子の良い日なんかに散歩してたわけ。今日の悲鳴ね、その病棟から聞こえてきたのよ」
なんとなく首筋の後ろ側が気になって、右手でさする。
「それもね、聞こえてくる悲鳴はひとつやふたつじゃなかったの」
「……」
僕はこの話を聞いた時、死んだ正脇茜が彷徨い出たのだと思った。生前顔見知り程度になっていた他の患者さんが正脇茜の亡霊を目撃し、混乱に陥ったのだと、そう思っていた。
Mはこう続けた。
物凄い数の外来患者がね、狭いフロアでぎゅうぎゅうに寄り集まって、怖い怖いって泣いていたのよ。




