[26] 「めい」6
その頭部は女性の顔に見えた。
濡れたような髪が額や頬に張り付き覆っているため正確な人相は分からないが、少なくとも恨めしい等の負の感情は読み取れなかった。ただ大きく見開いた目がじっと私を見つめており、それがひたすら怖かった。
生きている人間でないことは分かる。しかし地面に埋まってさえいなければ、あるいはその可能性に一縷の望みを託せたかもしれない。だが私が一瞬視線を外して姉の横顔を見上げた隙に、女は驚くほど俊敏に地面の下から飛び出して来た。
「ああッ!」
いや、正確には飛び出したわけじゃない。
とても長い腕、とても長い足、細長いその体躯をまっすぐに持ち上げただけなのだ。地面の下から伸びあがったその身体は見上げる程に大きく、優に二メーター以上はありそうだった。それでも尚、女の足首は地面に埋もれたままである。
最初に見た『手』と同じく精気のない土気色の顔、血と泥がこびりつき、破け放題でボロと化した衣服。だのに肩口からだらりと垂れ下がる腕は身の丈程も長く、物干し竿のよう両足は左側が内に向かって折れ、骨が露出している。……この折れた足で駆けてきたっていうの?
あるいはホラーゲームから飛び出して来たような造形の狂った化け物であった方が、まだいくらかはましだった。目を逸らせば良いのだ。何故あんなにも腕が長く、折れて骨が飛び出す程足が細く背が高いのか、全く理由は分からない。だが人間の姿から逸脱しすぎないからこその強烈な嫌悪感なのだ。……おぞましい。私ははっきりとそう感じた。
姉は右腕を解いて私の前に立ち、「下がってて」と前を見たまま囁いた。
私が言われた通りにすると、姉は両肘を真横に張って両手の平を合わせた。合掌したわずかな手の隙間から、輝く光線が四方に放たれているのが背後からでも見て取れた。
異形の女は巨体をふらふらと左右に揺らしながら、無感情な顔でその光を見下ろしている。
姉が言う。
「どこのどなたか知りませんがおあいにくさまです。私がいる限り、めいには指一本触れさせませんので」
「お姉ちゃん…」
姉は、人間を超越した力を持っている。
自分でも他人でも、損傷した肉体をたちどころに修復して見せるのだ。その驚異的な速度は、たとえ銃弾で心臓を撃ち抜かれようと、絶命するまでのコンマ数秒で全回復できる、とまで言われている。そして聞いた話によると、かつて姉はさる土地で暴走した土地神様にもその能力を使ったことがあるそうだ。その土地神の実態は蛇と目されていたが、姉が修復をかけ続けた結果、最終的には土偶にまで姿を変えたそうだ。
つまり姉の力は肉体の損傷だけでなく、老いや経年変化すら対象の傷と見なし修復させてしまう。これは言うなれば、局所的に時間を巻き戻しているのと同じことである。
「めいだけは、絶対に守ってみせるよ」
「無茶はしないで」
「無茶するさ。もう二度と後悔したくないからね」
私は普段、姉が心霊探偵として働く際、どのような仕事ぶりで問題解決にあたっているかを知らない。だがはっきりと分かっていることがある。姉が本気になった時、それは相手が人であれバケモノであれ、何人たりとも姉を傷つけることは出来ないということだ。
その時、手足の長い異形の女がやおら倒れ込むようにして、自分の顔を私たちに近づけて来た。もっとよく見せろと言わんばかりに見開いた目で姉を睨み付け、そして更にゆっくりと、首を傾けて背後の私を覗き込んできた。
「下がれッ!」
姉は私ではなく異形の女へと吠えたて、合掌したままの両手を異形の顎目掛けて振り上げた。
バゴ、と思いのほか重たい音がして、「痛ったッ!」と姉が合掌を解いた。
異形の女は後方へ仰け反り、姉の攻撃を受けた下顎と首筋が露わになった。
「…お姉ちゃん、あれ」
「ッたー! なんだこ……いつ」
そう言いながら見上げた姉は言いすぼみ、そしてこう呟いた。「……木?」
姉が振り上げ、両手が当たった異形の女の下顎部分は、暗いながらも確かに木に見えた。一部分だけを見て全容を語ることなど出来ない。しかし姉はその瞬間、ピンと来たようだった。
「傀儡……」
「傀儡って、操り人形のこと?」
私の問いに姉は頷き、だが理解しきれないという声で、「どうなってるんだ」と独り言ちた。
つまり異形の女は、見た目ほど単純な幽霊というわけではない。現実の物理法則を捻じ曲げるほどの存在でありながら、その正体は目の前に確かに存在する『木』なのだ。姉の治癒能力を受けたその部分だけが、本来の姿へと戻ったのである。
「こいつらは自分の意志で襲って来るわけじゃない。どこか別の場所に本体がいる」
姉の言葉に、私は周囲を見回した。あたりはすでに闇の色が濃く、どこになにが潜んでいても不思議ではない。
「見える所になんかいないよめい。美晴台にすらいないかもしれない。こいつら傀儡も、呪いの一種だからね」
「……これも?」
「ああ。呪式を打ったあとは言うなれば全自動だ。側にいて操る必要なんてないんだよ。だけどなんでこんなもんが」
私たちが話をする間に、異形の女は再び頭をもたげて見開いた目で見降ろしてくる。
その時だ。
……タ。…タ。タ。
「お姉ちゃん、まただよ…」
ぺたぺたぺたぺたぺたぺたぺたぺたぺたぺたぺたぺた……
裸足で走る不気味な音だけが響いた。
辺りを注視しながら身構える私たちの意表をついて、突然異形の女の腹が裂けた。すると中から地面に埋まって見えなかった女の右足首が飛び出し、子供のように小さな素足が私の顔面めがけて伸びて来た。
「ヒ……ッ!」
悲鳴すら間に合わないその足の速度を、
「だから」
……姉の反応が上回った。
薄く開いた私の目の前で、姉の右手がしっかりと女の足首を握り締めていた。「指一本触れさせないって言ったでしょ。足だって同じだよすっとこどっこい」
姉はそう言い、スーっと息を吸い込んだ。
「還れッ!」
叫んだ瞬間、姉の掴んだ足首から順に、バキバキと音をたてて女の身体が木へと変貌していった。いや、それは変貌なんかじゃない。あるべき姿へと戻ったのだ。二メートルを優に超える異形の女は、ガラガラと地面に崩れ去る時には完全に、木で出来た人形へと変わり果てていた。
パパンと姉は手を払い、「ま、こんなもんか」と強がった。だがその表情は心から安堵している様子で、私は自分が助かったことよりも、そんな姉の様子に涙ぐみ、鼻をすすった。
「ったく、何て代物を送り付けて来るんだよ…」
姉はそう愚痴をこぼし、糸の切れた人形のようにぐちゃぐちゃに散らばる異形の残骸へと、歩み寄った。
怖い。
全身が凍り付いた。
姉はぶつくさと文句を重ねながら、手掛かりはないかと朽ちてひび割れた木に手で触れる。
……駄目。
私は直感し、前へ出た。
怖い、怖い、怖い、怖い、怖い、怖い、怖い、怖い……
転がる木製人形の一部がぼんやりと蒼白く光っているのが見えた。
「お姉ちゃん駄目ッ!」
私は叫び、無我夢中で姉を突き飛ばしてその光に覆いかぶさった……。




