[15] 「幻子」1
父の残した日記を隅々まで読んだ。
本来であれば父の(かつては私の)家で読みたかったが、まだ警察が出入りしていた為、諦めた。鑑識を連れた現場検証など一日程度で終わる筈だが、黄色いテープで封鎖された父の家にスーツ姿の男たちが出入する光景を、いつまでも眺め続けているわけにはいかなかったのだ。
父と同じ病院にいる新開さんの伴侶、希璃さんの顔を見に行こうかとも考えた。彼女がまだ、旧姓である辺見さんだった頃からの知り合いだ。もう十年になる。それに今回の事件において、唯一目立った霊障を受けていない彼女からも話を聞いておきたかったのだ。お嬢さんの顔も久しく見ていない。
しかしやはり、それも辞めておいた。私の手元には、父の日記があるからだ。
これを呪物と呼んで良いかは線引の難しい所だが、少なくとも父が呪いを受けた現場にあったものなのだ。そんなものを抱えて会いに行くなど、自ら霊障を振りまきに行くようなものである。
新開さんが結婚するまで一人暮らしをしていたマンションの一室を使わせてもらえることになった。海外でばかり仕事をする私には現在、父と住んでいた家以外に落ち着ける場所がなかったのだ。
用心深い新開さんは、拝み屋とチョウジ、二足の草鞋を履きながらこの世界で生きると決めた時、アジトを複数持つ選択をした。さすがは大卒、賢いなと思った。しかもかつて住んでいた一人暮らし用のこのマンションは、家賃をチョウジが払っている。というか坂東さんが払っているのだ。……ますます、ずる賢いと思う。
スぺアキーを玄関の下駄箱に置き、ボストンバッグを廊下に降ろした。
リビングに入る。
手入れの行き届いた、いかにも新開さんらしい綺麗な部屋だった。
今でも月に数度はここで仕事をしているらしく、確かに、生きた人間の放つ気がそこかしこに漂ったままである。このままではなんとなく、気恥ずかしい。
私は片足でトンと真上に跳ね、ストンと着地した。
「……よし」
新開さんの気配を全て追い払い、室内の空気をリセットする。
壁に掛かっている時計を見れば、時刻は夜中の十一時。
「眠い」
その前に、と気力を振り絞ってお風呂場を借りた。熱いシャワーを浴びて、「本当は浴槽にお湯を張って三時間くらい浸かりたい」という欲望を振り切って脱衣所に出る。
「時間がない」
言葉に出して自分に言い聞かせ、濡れた頬をごしごしとバスタオルで擦った。
ソファに座って、父の日記を読み返す。
気になるのはもちろん「U」というアルファベットで記された女性の存在だが、日付を跨いで散見する彼女の病とされる特徴と、そこから想起される霊障との間で、今ひとつ整合性が取れていない気がして、そこが引っ掛かった。
始まりからして、変だった。
記述によれば「U」というその女性は、数年前から頭痛・悪寒などの体調不良を抱えていた、とある。もし、父が受けた呪いが「U」によってもたらされたものであるなら、この記述はほとんど意味を成さない。「U」本人に呪いを打つ意識があったかなかったかは別として、万一数年来の病を抱えていたというのが本当だとすればこの場合、呪いとは全く関係がない。
例えば、「U」自身が初めから何某かの呪いを受けていたと仮定する。だがその呪いの影響が、すなわち霊障が、数年続く体調不良、などということは考えにくいのだ。もちろんあり得ない話ではないが、そもそも呪いとは攻撃の手段である。誰かが誰かを呪う時、「体調不良に陥れ」とは念じまい。十中八九、死を望むはずだ。
おそらくだが、「U」の体調不良は呪いとは無関係である、と私は考える。今はまだ、間違いでもいい。断じてみることで、また違った筋道も見えてくるというものだ。
そしてその一方で、もしも「U」の体調不良が彼女の受けた呪いの効果だとするならば、呪式を打ち返せない一般人が数年も持ちこたえることなど絶対にない。本来であればあの父ですら即死しかねない程、呪いとは恐ろしいものなのだ。そして更に言えば、死を願う呪いが飛んで来た場合、なにか理由があって呪力が低下し、体調不良程度の効果に弱まった、などという事も起りえない。呪いというものは、例えば坂東さんの『幽眼』が撃つ熱線や、父が放つ『気の遠当て』といった物理的作用をもたらすエネルギーとは根本的に違う。力の質が違うのだ。そう考えればやはり、「U」の体調不良は呪いとは無関係、と言わざるをえない。
もちろん父ならばその事に気が付いていただろうし、だからこそ、病院での検査を勧めたと、日記にも記されているのだ。
だが、しかし……。




