[115] 「新開」36
僕の背後で崩れ落ちた柳奈緒子の手はとても冷たかった。
しかし胸に抱え込んだ光政の首は火傷する程に熱かった。
この世から去った両者の間に存在するこの差は、一体何なんだろうか。
光政の長い髪が血に塗れて滑り、両腕で抱えていても取り落としてしまいそうになった。まるで生きて動いているみたいだった。
直政には言えないけれど、僕は光政に残された最後の温もりを感じながら、ひょっとしたらまだなんとかなるんじゃないかと、心のどこかではそう思っていたのだ。一度死んで戻ってきた坂東さんがいる。残間京がいる。今この場には二神七権だっている。そうだ、彼らがいれば光政もなんとかなるんじゃないか? そんな風に、愚かな妄想を巡らせていたのだ。
柳奈緒子の変わり果てたその体に触れた時、僕が感じたのは絶望だけだったというのに。
この差は一体何なんだろう。
唯一分かるのは、どちらにせよ、僕はまた人の命を弄ぶ連中に対して無力だったということだ。
ピリリリリリリ、ピリリリリリ。
突然、携帯電話の着信音が鳴り響いた。
甲高く耳障りな電子音が、どこからともなくり返し発せられている。
僕の携帯電話ではない。
坂東さんでも、ビスケさんでも、残間京でもない。
由宇忍でも、二神さんでも、うつ伏せに倒れている穂村兄弟から聞こえてくるわけでもなかった。
「あ、ああ……」
震え慄く声を漏らしながら、残間京が視線の先を指さした。
そこにあるのは、光政に刺されて横たわる柳菊絵だった。
携帯電話の発信音は、柳菊絵から発せられていたのだ。
ピリリリリリリ、ピリリリリリ。
ピリリリリリリ、ピリリリリリ。
ピリリリリリリ、ピリリリリリ……。
僕は地面にハンカチを敷いて光政の頭部をその上に置くと、立ち上がり、振り返って坂東さんを見た。坂東さんは珍しく狼狽えた様子で二神さんと僕を交互に見やり、そして柳菊絵へと視線を向けた。
ピリリリリリリ、ピリリリリリ。
ピリリリリリリ、ピリリリリリ。
ピリリリリ……「はい、ただいま留守にしています。ご用件のある方は、ピーという発信音の後に、メッセージをお願いしいたします」。
……ピーーーーーーー。
誰もが固唾をのんで見守った。
まだ僕は、背後に母の気配を強く感じていた。危険が去ったわけではないことを、母の存在が知らせてくれている。ただ単に携帯電話が鳴ったわけではなのだ。坂東さんと二神さんが持して動かない事実が、それを裏付けている。
永遠とも思える沈黙が流れた。
柳菊絵の携帯電話にメッセージが吹き込まれることも、いつかのようにこの場にいない人間の携帯と繋がってしまうこともなく、ただただ緊張感漲る静寂が訪れただけだった。僕には僕の心臓の音だけが聞こえ、視界の中で動いているものと言えば、変異した柳菊絵の左腕の先端が、まるでそれ自体が単独の生き物であるかのようにうねっているだけだった。だがそのことが、「人外のモノをこの目で見ているという事象」、それだけでは済まされないこの事件の根深さを露見していた。諸悪の根源だと思われた柳菊絵ですら、傀儡として使役されていたのかもしれないのだ。
「あれは……?」
そう発したのが誰なのかは分からない。だが僕の無意識下の本能が、柳菊絵の家の屋根を見ろと僕に訴え掛けた。そして実際に見上げたそこには、二人の女性が佇んでいた。屋根の上である。
K病院の堀口看護師と、正脇茜の妹・汐莉だった。そしてその背後から、ゆっくりと若い女性が歩いて姿を現した。
「ああああ……」
僕の眼から涙が溢れた。
僕は傀儡として変容してしまった柳奈緒子の顔しか、見たことがなかったのだ。
あんなにも、愛らしい顔をした女の子だったのか。
さらには柳奈緒子の後ろから、穂村光政が姿を現した。
彼ら皆生きていた頃となんら変わらない姿形をしていたが、唯一、歩くたびに自身の身体から影のような残像を引き摺っていた。僕にとってはそれが、彼らがこの世ならざる者であるという証明だった。
「新開依子の開けた霊道から、彼らは戻って来おったのだ」
と二神さんが言った。
全員が同じものを見ていたわけではないと思う。霊感の強さによって霊体の見え方は違うからだ。だが二神さんの言った通り、この美晴台の柳家の敷地内で死んだ者たちの魂が、母の開けた霊道を通って戻ってきたことだけは間違いなかった。
彼らは一様に、悲しいほどに感情の無い顔で屋根の上から僕たちを見下ろしていた。
「柳菊絵の姿は、ないな」
と坂東さんは言った。
まだ、柳菊絵は生きている、そういう意味だった。
その時、僕はうなじを撫でられるような怖気を感じて、坂東さんを見た。
「坂東さん」
「……あ?」
「柳菊絵の家には……四つの気配を、感じたんでしたよね?」
僕の問いに、坂東さんは目を見開いて前方へと視線を戻した。
「……ああ」
「誰かに会いましたか」
「ああ。今そこにいる、堀口と正脇汐莉さ。二人ともこの村出身の人間だそうだ」
「柳菊絵を入れて、三人ですね。まだ、家の中には人の気配を感じますか?」
すると坂東さんは眉間に力を込めて柳菊絵の家を睨んだ。
「ああ、いるなあ。……すぐそこにいやがる」
坂東さんがそう答えると同時に、霊体たちが一斉に啼いた。
それは声でなく、悲哀に満ちた魂の波動だった。
僕たちが驚いて見上げると、霊体たちは苦し気に顔を歪めてゆらゆらと体をくねらせていた。その場に立っていることすら維持できない様子で、今にもかき消されそうなほど彼らの幽体はその影を薄くしていた。
ピリリリリリリ、ピリリリリリ。
ピリリリリリリ、ピリリリリリ。
またもや柳菊絵の携帯電話が鳴り、そして今度はすぐに切れた。
来るぞ、と坂東さんは呟いた。
「ああー、そういう事でしたか。別段外が騒がしいわけでもないのに、どうして電話一本受けられないんだと思って来てみれば、なんのことはない、仕上げにかかっていたというわけですか……」
その男は柳菊絵の家の中から歩いて現れた。
坂東さんが破壊した玄関戸の破片をつま先で蹴り、携帯電話を上着の懐に仕舞うと柳菊絵の側にしゃがみこんだ。傍らには尻もちをついたままの残間京と、全く生気の感じられない由宇忍が立つ尽くしていた。その男は柳菊絵の脇腹辺りに右手を添えると、こちらには聞こえない程小さな声で何かを言い、そしてゆっくりと立ち上がった。
その男は離れて立つ僕と坂東さんと二神さんを順番に見据えると、やがてこう言った。
「天正堂がぁ、チョウジがぁ、はあ、聞いて呆れますねえ。雁首揃えてまあ、本当にこの……無能共が」
坂東さんが叫んだ。
それは出会ってから十年共に働いた僕でさえ聞いたことがないような、猛々しい怒りに支配された復讐人の声だった。自らの命を絶たれ、尊敬する上司を亡き者にした、坂東さんはその呪いを打った人間を追い続けて生きてきた。まさか、その先の未来に立っていたのがこの男だったとは、彼自身予想だにしていなかったに違いない。坂東さんは男の名を叫んだ。
小原、桔梗、と。




