[113] 「坂東」27
「きっかけは他愛のないことでした」
柳菊絵は言いながら自分の家の玄関へ向かい、外の壁に立てかけてあった箒と塵取りを手に持ち、掃き掃除を始めた。俺が粉砕した玄関戸を片付ける為だったとしても、今やることか? それは俺にとってはあまりにも脈絡のない、不安にならざるを得ないような意図不明の行動だった。
「この村出身である馬淵という青年がいました」
と柳菊絵は言う。
「馬渕……」
呻く俺を一瞥して老女は続ける。
「かつてのあなたの部下でしたね。その青年は、こともあろうにカビの生えたような古臭い昔話を持ち出し、挙句、村の恥部を捨て置けぬとして告発を考えていると、この私を脅してきたのです。若いというのは恐ろしいですよ」
「じ、じゃあ、馬淵を殺したのも、いやさあいつが呪いをかけられたのも、お前のしわざだってのか」
元チョウジ職員である馬淵が死んだのは今から二年前。大学の後輩だった斑鳩を職場に誘い、それからほどなくしてからのことだった。
「笑ってかわすことも当然出来ました。調査の結果何を知り得たのか分かりませんが、どうせ大した証拠などあるはずもない。ですが、彼の真っすぐな瞳を前にして私は思ったのです。この青年も、こちら側にくればよいのだと」
「なにを……」
「無力な馬淵」
と柳菊絵は言った。その男の存在に意味があると、はっきり含みをもたせた力強い声だった。
「結果、この村出身である馬淵が、斑鳩、そして有紀を捉えたのです。我ながら妙案でしたね」
「……捉えた?」
狼狽える俺を落ち着かせようと、
「呪いの連鎖か」
と二神七権が聞いた。
柳菊絵は頷き、
「そして、正脇茜」
と返した。
「その者も、この村の人間なのだな?」
「さようです。もともと茜は器として働いてもらう予定でしたが、妹がいたせいで迷いが生じたのでしょうか。少々手こずりましたが、ひとまず役目は果たしたと言えます。妹の汐莉とともに、姉妹はまんまと霊能者を連れてきた」
言わずもがな、それが、秋月めいである。
「ちなみに」
と奴はいう。「器として私の頼み事を聞いたくれた人間は皆、そのまま朽ちる手筈となっています。この段階で、馬淵から数え始めて秋月の妹までの間に何人もの候補者がいました。馬淵、斑鳩、有紀、三神三歳、三神幻子、秋月めい。この者たちが素直に死んでくれるだけで、すでに六人です。そして実際、三神幻子と秋月めい以外はみな素直でした」
……頼みを聞いてくれた、だって? 俺たちの前に現れた傀儡、看護師の堀口と正脇汐莉は、二人ともが口を揃えて「怖い怖い」と泣いていたのに? いや、思い返せば正脇茜からしてそうだったのだ。それなのに、頼みを聞いてくれた、だって……?
「まあ、三神幻子に関しては最初から期待はしていませんでした。足止め程度になればいいという考えでしたが、三神三歳があと一息、というところまで迫れたのは僥倖でしたねえ」
坂東ッ!こらえろッ!
二神七権の檄が飛び、俺は危うくぶっ放しかけた幽眼を手で抑え着けた。
「奴のペースに踊らされてはならん」
冷静な二神七権の言い草が、更に俺の怒りを煽った。だが、そんな俺の葛藤もどこ吹く風、
「ですが残念なことに、その他の器がうまく機能しませんでした」
柳菊絵は小振りな箒で器用に塵取りにゴミを溜めていく。自分が何をしでかしているのかも分からないふりをして。
「あくまでも」
と老女は続ける。「器は呪いを運ぶための器。とはいえ、大役であることには違いありません……途中どこかの馬の骨に隠されてしまったのは少し、困りましたがね」
馬の骨かどうかはさておき、それはおそらくツァイ・ジーミンのことを意味しているのだろう。R医大病院にて、呪いの効果と闘っていた三神三歳に攻勢を仕掛けていた傀儡どもを、台湾からきた結界師がまとめて自分の体内に格納してしまったのである。術を打った柳菊絵からすれば、忽然と傀儡の存在が消えたように見えたことだろう。
「もしだ」
と俺が口を開いた。
三神のオッサンやツァイのことは一旦さて置いてでも、柳菊絵の口振りからむくむくと頭をもたげた暗澹たる疑念を、どうしても直接本人にぶつけてみたくなったのだ。
「もしお前が傀儡の選別を村の人間、あるいは村出身の人間から行っていたと言うんなら、なぜわざわざ自分の孫を選んだりしたんだ……?」
言った瞬間、
「ああああ」
柳菊絵は心底嫌気が差したような顔でわざとらしいため息を付いた。
「よくぞ聞いてくださいました」
「なんだと?」
「そ……」
きっと何事か悦に浸った言い訳を口にする気でいたのだろう。だが、次の瞬間柳菊絵は齢八十とは思えないほどの大声で、
どこへいこうと行うのだッ!
そう叫んだ。
見れば今しがた俺の出てきた柳奈緒子の家の玄関に、新開と、崖団地に残してきたはずのビスケ、残間京、そして薄汚れた赤ん坊を抱く見知らぬ女が立っていた。それが『U』、由宇忍であることは誰に言われるまでもなく理解出来た。ひとまず新開は仕事をやり終えたのだ。俺はそのことに安堵し、自分の胸中にあった怒りがほんの少しだけ治まるのを感じた。
「しんか……」
だがしかし、新開水留の瞳こそが今まさに、思わず目を疑うほどの強烈な憤怒に満ち満ちていた。柳奈緒子の家の玄関からということは、瀕死の状態で倒れ伏せる穂村直政と、それに縋り付く弟光政の両者を捨て置いて出て来たということなのだ。非情な現実に対する新開の怒りは相当なものだった。
この時の俺たちの立ち位置は以下の通りだ。古い日本家屋の前に、柳菊江。そこから五メートル程離れて対峙する二神七権。日本家屋の手前に立つ柳奈緒子の家の玄関前に、新開ら四人。どちらかと言えば二神七権に近い場所へ移動していた俺よりも、新開たち四人の方が柳菊江に近かった。
「大人しく逮捕されてくれ」
と新開は言った。
間違いなく柳菊絵に対する発言だったが、それでも当の老女は箒と塵取りを持ったまま、由宇忍だけを見つめていた。
「どこへ行くのですか、そんな状態で」
「頼むから大人しくしていてくれ」
「ああ、生まれたのですね。ご苦労様でした」
「これ以上怒らせないでくれ!」
荒ぶる新開の声を受けてようやく、柳菊絵の視線がそちらへと移った。そして、老女はこう言った。
「……あなた、こんなところにいて良いのですか?」
「は?」
新開の目に嫌悪感が浮かぶ。
「大切なものを守らなくて良いのですか?」
「大切な、もの、……って」
聞くな新開。
惑わされるな。
柳菊絵は隙だらけの身を晒しながら俺たちに背を向け、再び玄関脇の壁に箒と塵取りを立て掛けようと動いた。そしてぽつりとこう呟く。
……可愛い娘が今頃どうなっているやら。
新開の顔が恐怖に歪み、奴の周囲にこの世ならざる空間への扉が顕現する。奴の感情の起伏を鍵にして、あの世とこの世を隔てる扉を自ら開いてあの女がやって来る。
新開依子がくる!
二神七権が慌てて両手を合掌の形へと動かした、まさにその時だった。
誰一人としてまともに動けなかったその瞬間、新開たちの背後を何者かが走り抜けた。そしてその何者かは一直線に柳菊絵へと向かうと、そのまま体ごとぶつかって行った……。




