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『九坊 - kubo -』  作者: 新開 水留
112/146

[111] 「新開」35


 こういう風に生きろと言われた憶えはない。

 誰かから教わったとか、そういった記憶もとくにない。

 だけど僕は子供の頃から、実はとても負けず嫌いだった。

 人と争うことは大嫌いだけど、自分が納得出来ない状況のまま物事が流れていく現実が、耐えがたいほど苦痛だったのだ。それは誰かや、何かを相手に思うのではなく、納得がいくまで物事を追いかけられない自分の弱さと無能さに我慢がならない、という話だ。だからこそ僕はいつだって、他人から見ればひどく不器用に映ると分かっていても、自分から諦めるという選択肢を選ぶことができなかったのだろう。

「いやー、君は本当に、呆れるくらいに、どこまでも負けず嫌いなんだねぇ」

 後に僕の妻となってくれた辺見先輩は、かつて僕にそう言い放ったことがある。その時は僕はその言葉を誉め言葉だと受け取ったが、だけど今なら分かる。時には諦めることも重要で、現実を頑なに拒み続けることがどれほど傲慢で、自分以外の他者を危険に晒す可能性があるということに、今の僕なら思い至ることが出来るだろう。人はそれを成長と呼ぶのだろうし、もしかしたら僕のことを大人になったと捉えてくれるかもしれない。三十歳になった今、子どものままでいたいなんて思うわけがないし、口が裂けても言葉にすることはないだろう。

 と、そう思っていた。

 だけど、どうかもう一度だけ、こう言わせて欲しい。


「僕は絶対に諦めないぞ……」


 無意識に持ちあげた僕の左手が、迫り来る柳奈緒子の手を掴んでいた。

 呪いを打つ傀儡を相手に、呪物であるその身に触れることなど誰がどう考えてもご法度である。しかし僕は嫌だった。ただされるがままでいることは、たとえ呪いを受けるとわかっていても御免だった。

 その時だ。


「それでいいんだよ新開、そのまま掴んでろ、離すんじゃないよ!」


 どこからともなく声が聞こえ、僕たちのいる柳家のダイニングキッチンにドドドと何者かが駆け込んできた。だがその足音は坂東さんたちのる玄関側からではなく、家の奥から聞こえてきたのである。見えない位置に勝手口があるのだろう。

「……ビっ!」

 姿を現したのはビスケさんと、

「ううーわわわ、これはちょっと無理だー」

 押し殺した声で柳奈緒子から顔を背ける、残間京の二人だった。

「ビスケさん、僕のことはいい、はやくそこの女性を!」

「よし!」

 着ていたモッズコートを脱いで、由宇忍の側に腰をかがめたビスケさんの動きが止まったのが、彼女の息遣いから感じられた。僕は柳奈緒子の足元を見据えたまま、言う。

「……足元に子どもがいます。たった今、生まれたばかりの……」

「わ、わか……た」

 体力を使い果たしてまとに喋ることもできない由宇忍が、ビスケさんにお礼の言葉を呟くのが聞こえた。そして僕の隣で、残間京が柳奈緒子を見上げて声を震わせ。

「し、新開さん……この、この人は?」

「……彼女は」

 人によって、霊障の見え方は様々である。

 柳奈緒子のように生身の人間が傀儡と化した場合、基本的には人に見えるだろう。だが体内から発露する呪式の効果が強すぎる場合、僕らのような霊感の強い者には人間以上の異形に見えてしまうのだ。手足の長いバケモノ、という目撃証言のほとんどはこれに該当するだろう。それは木を依り代とした場合の傀儡も同様で、祓いを済ませてしまえば単なる木屑、朽ちた灰のように見えるかもしれない。だが傀儡が効力を保っている間は、幽霊や妖怪の類だと勘違いれても不思議はなかった。

「……生きてるんですか?」

 と、残間京は聞いた。

 つまり、彼女には柳奈緒子が人に見えているのだ。

 驚いて顔を上げた僕は、思わず息を飲んだ。


 おかあさん……。


 傀儡と化したはすの柳奈緒子が、喋ったのだ。

「奈緒子!」

 と僕の背後で由宇忍が叫んだ。

 もう、いやだ。

 柳奈緒子ははっきりと、だが小さな声でそう言った。

 由宇忍の感情が痛ましい程にかき乱されて膨れがるのを背に感じ、

「ビスケさん!」

 と思わず僕は声を荒げた。判断の場だと思った。

「二人を連れて、早く、外へ」

「いや、でも……それは」

「早く!」

 由宇忍にとっては柳奈緒子も生まれたばかりの名もなき子も、等しく大切な我が子である。三歳の娘を持つ僕に、身を引き裂かれる程の彼女の苦しみが分からないわけではない。だが悲しいかな、ここまで呪力の浸食が進んだ人間ががもとの姿に戻った事例を僕は知らない。いまや『九坊』を打つ呪いの器でしかない傀儡が、こうして記憶を失わずに人の心を保ち続けていることが奇跡なのだ。あるいは残間京のように、死んで再び蘇るしか、他に方法はないのである。

「……行きましょう」

 ビスケさんがそう声をかけるも、由宇忍の気配はその場にとどまったまま動かない。僕が掴んでいる柳奈緒子の手に体温はなく、手の平から伝わって来る感触は、ほとんど木であると言ってもいい。僕は震える全身を気力だけで抑え込みながら、

「早く行ってくれ!」

 と叫んだ。

「行かないよ」

 と由宇忍は答えた。

「な?」

「赤ん坊だけ連れて逃げて。私は、奈緒子とここにいる」

「何を言うんですか!」

「私だけ助かろうなんて思わないよ」

「そんな事言わないで下さい!生まれたばかりの赤ん坊を見てください!まだ臍の緒だって切れてない。これから先あなたを失ったその子どもはどうやって生きて行けばいいんですか!あなにそんな決断をさせる為に三神さんは呪いを喰らったんじゃない!」

「なら……」

 由宇忍の声が、突然僕のすぐ後ろから聞こえた。「私とこの赤ん坊もここで奈緒子と一緒に朽ち果てればいいんだよ」


 おか……あ、さん……。


 握っていた柳奈緒子の手を離して振り返った瞬間、茫然と立ち尽くしていた残間京が僕の名を叫んだ。そして同時に、ビスケさんもだ。日本人離れした彼女の美しい顔が恐怖に歪み、その視線が振り返った僕の背後に注がれているのが見えた。僕が手を離したことで、柳奈緒子の動きに変化があったのだろう。

 だが、僕には分かっていた。

 ここへ来てからずっと、僕の側に母が現れる事はなかった。死んだ僕の母親依子は、僕の身に危険が迫ると自ら霊穴を開いてこの世に戻って来る。『BOOKS アーミテージ』に足を踏み入れただけで僕の背後に出現していた母が、恐るべき異形と化した柳奈緒子を前にしても現れなかったのだ。となれば考えられる答えは一つしかない。少なくとも、柳奈緒子は僕にとって危険な存在ではないということだ。それはひょっとしたら、その身から『九坊』を内包した呪物を産み落としたことが関係しているのかもしれない。既にその呪物は、外にいる二神七権が無効化してしまった。あるいはそもそも、彼女の純粋な愛情がただまっすぐに母親に向かうあまり、僕に対する敵意などもともなかったのかもしれない。僕は、そう思いたい。

「あなたはそれでも生きるべきなんだ」

 と僕は言った。

「嫌だ」

 と由宇忍は答えた。

「綺麗ごとを言うつもりなんかない。人間を育てることは本当に大変な事だと思う。だからこそ、他人の僕にこの赤ん坊の責任なんかとれない。死んだ気になって、あなたが育てていくしかない」

「だから、死ねばいいんだよ、もう誰にも迷惑なんかかけたくないんだよ」

「迷惑かけたっていいだろ!人に迷惑かけながらそれでもなんとか毎日を乗り越えてるのは、なにもあなただけじゃないんだ! この僕だって……ッ」

 あああッ。

 ビスケさんと残間京が同時に声を上げ、僕の背後で柳奈緒子の崩れ落ちる音が聞こえた。それは木片が食卓に落下するような、悲しい無機物の響きだった。視線を僕に据えたまま、狂ったような微笑みを唇に浮かべた由宇忍は、その場で意識を失い、そしてゆっくりと右に傾いて行った……。





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