[105] 「新開」33
柳菊絵の枯れ枝のような手が坂東さんの背後へと伸び、残酷な傷を背負った直政の背中から一枚の紙切れを手にして戻って来た。傀儡の体から分離して僕たちを襲った、例の肉塊に張り付いていた白い紙である。
「今さら何が出来ると思っているんです」
その紙を眼前で広げて見つめながら、柳菊絵は言う。「二神さん。あなたには随分と煮え湯を飲まされてきましたが、今更いくらあなたが出張ってきたとて、残された手段はそう多くはありますまいなぁ?」
旧知の間柄であることを隠しもしない語り口に、しかし二神さんは頭を振って応えた。
「心配には及ばんさ。手段があるかないかと聞くならいくらでもあると答えよう。ワシがお前を殺して終わりにしてやる。最初からそのつもりでここへ来たんだ」
「っは、それが天下泰平を説く求道者のお言葉ですか。嘆かわしいことですね」
「ワシはそんなもの一度として説いちゃおらん。開祖は開祖、ワシはワシだ」
「それでよく『天正堂』階位・第二が務まりますね」
「だからワシは嫌だと言ったのだ。それをあのボケナスが辞退なんぞしおって、ワシに全部押し付けたのよ」
「ボケナス?」
眉間を曇らせる柳菊絵に向かって、二神さんはこう言い放った。
かつて貴様にブチ殺された天才呪い師、……天原秀策を忘れたとは言わせんぞ。
二神さんの口から発せられた御曲がりさんの名に、柳菊絵の放つ妖気が刃のような鋭さへと変わった。僕は全身に粟立つ鳥肌に震えながら、必死に坂東さんだけを見据えた。今柳菊絵を見てしまえば、正気を保っていられる自信がない。
「煮え湯、と言ったな」
二神さんは続ける。「それを言うなら貴様らこそ、我ら天正堂に仇名す輩としてさんざん外道の限りを尽くしてきたではないか」
「逆ではありませんか」
と柳菊絵も負けじと応じる。「私どもの盛衰に思いを馳せれば、常に時代とともあらんとした我々こそが王道。あなた方のような異能者集団こそが人々の安寧を妨げる、歌舞伎者じみた愚連隊だったではありませんか」
「いつの時代の話をしとるんだ貴様は。先の大戦で脳みそに砲弾でも喰らったのか」
「言葉が過ぎますよ。天才呪い師とやらの方が幾分話し方はましでしたね。力量の方はともかくとして」
柳菊絵の言葉を受けて二神さんの気配に本物の殺意が混じる。
「……殺したろうかババァ」
「ご自由に」
「新開」
突然呼ばれ、全身がバネのように弾んだ。それまで僕は自分が生きて息をしているのかさえ分かっていなかった。二人の話し声とやりとりの内容は聞こえていた。だが聞いているという意識はなかったのだ。気がつけば僕は全身に汗をかいていた。
「ことのついでだ、貴様にも教えてやろう。そこのババアが何者なのかを」
……新開。
と、またも声が聞こえた。二神さんが念話を用いて直接僕の意識に話しかけているのだ。それはまるで指向性スピーカーのように、柳菊絵には拾われない角度で僕の脳、もしくは脊髄に向けて声が発せられていた。二神さんは言う。「ワシが合図を送る。二人を一旦、家の中へ避難させろ」
……お願いします、と僕は答えた。蚊の鳴いたような小さな声に、柳菊絵はため息をついて二神さんを睨んだ。……とその眼球がジロリと動いて僕をねめつけ、僕は咄嗟に両目を閉じた。
「昭和の最盛期、抱えた信者の数だけで言えば日本最大と目された宗教団体があったのよ」
と、二神さんが話し始めた。
それは、僕が以前調査した『大謁教』の歴史とほぼ同一の内容ではあったものの、やはりその時代を生き抜き、直接己が目で見てきた人間の発する言葉は、その重みが何倍も違って聞こえた。
「教主は代々天童姓を名乗っておってな。そこいらの話はそこの坂東が詳しいな。『右握左離』と書いて、ミギニギリヒダリバナシ、と読ませる教団特有の題目を掲げていた。一切の布施を集めない敷居の低さと、近隣住民の手を取り欲望を捨て去ろうと声高に叫ぶ教義が戦後の空気に上手くはまり、経済成長の過渡期であった昭和四十年代には日本を代表する宗教団体へと爆発的に膨れ上がったのだ」
二神さんが話す間、柳菊絵は黙って耳を傾けていた。その表情には一切の感情が浮かんでおらず、まるで他人事として聞いている様子だった。
二神さんは続ける。
「が、とある事件を切っ掛けに、それ自体は公にされる事がなかったにも関わらず、昭和の終わりを待たずして衰退の一途をたどる末路を迎えた。そして現在では跡形もなく教団は消え去り、団体名さえ残されていない、というのが世間一般の認知する常識であろう」
……大謁教の新興と衰退である。そして世間的に公表されずに時代の影へと消えた、教団消滅の引金となった事件こそが、三島要次さんが長年執念を燃やし続ける悲劇の正体であるに違いなかった。
「そこでひとつ疑問に思うだろう。このババアは一体、時代のどこに登場するのか」
そうだ。
二神七権と柳菊絵が旧知の間柄であることはもはや疑いようがない。だがその理由は未だ判然としない。今僕たちが立っているこの場所こそが、『大謁教』本部があったとされる因縁の地である。しかしだからと言って柳菊絵が教団とどのような関係にあるのかは、僕たちには分からなままなのだ。
「このババアはな……」
「話をすり替えてはいけませんよ、二神さん」
と、突然柳菊絵が二神さんを遮った。「例え時代は変わっても、そこに生きる人の名は違えども、お互いが掲げた理想理念は当代である我々が命を賭して守り通して来たもの。これら力なき未熟者がどうあれ、私とあなただけは決して言い逃れ出来ないのです」
「言い逃れなどするもんかよ。ならば問うが、今貴様が手にしておるものはなんだ?」
二神さんの指摘に、柳菊絵は自分が手にした白い紙を見つめて、とても美しい微笑みを浮かべた。
とても美しく、同時に禍々しくもある無邪気な微笑みだった。
「かつてワシが食い止めた時には、まだその紙きれはなかった。おそらくあれでもまだ、完成はしとらんかったのだろう。だからこそ食い止めることが出来た。違うかよ」
「完成というのが術の成りを言うならば、まだ完成ではありますまい。ただ、おっしゃる通り、いくら二神さんでもこれは止められませんよ」
そう言い、柳菊絵は白い紙をぴらぴらと眼前で振ってみせた。
紙には墨を用いた筆文字で何かが書き込まれていた。
一瞬垣間見ただけでは判読できなかったが、経文か祭文のような呪文字が書かれているのだろう。
続けて柳菊絵は、こう言った。
「六人まで来ました」
理解不能な言葉だったにも関わらず、その時僕の中の奥深い所で、何かが震えた。
六人……?
何が六人なんだ……?
「貴様ぁ」
二神さんがギリギリと歯噛みする音が聞こえる。
「それに、もうとっくに呪いは放たれていますからねえ」
と、柳菊絵は言った。
それは理由がなんであれ、彼女が呪いを打った張本人であると告白した瞬間でもあった。
だが僕はそれを聞いた瞬間からもうすでに、誰が犯人であるかなど、どうでも良くなっていた。
六人まで来た……?
とっくに呪いは放たれている……?
ちょっと待ってくれ。
その六人ってのはつまり、『九坊』で死んだ犠牲者のことを言ってるのか?
「貴様らの追い求める理想? 理念? それらの先にあるものがソレなのか?」
二神さんが口調を荒げ、僕の意識をほんのわずかに現実へと引き戻してくれた。
「答えてみせろ外道!答えろ、『北桑田六文銭』!」
今だ。
二神さんの声が脳内にこだました瞬間、柳菊絵が両目を見開き、彼女の霊圧が僕の体を跳ね飛ばす程に大きく膨らんだ。
僕は坂東さんの両肩から直政を引き受けようと腕を伸ばしたおかげで免れたが、その代わりに、すでに意識が飛びかけている坂東さんの体が斜めに傾いだ。とそこへ、僕の右側から素早く回り込んできた光政が坂東さんを支え、僕はそのまま直政の体を抱えて走った。手前の、柳奈緒子の家へと振り返らずに走った。




