[104] 「新開」32
僕とともに柳奈緒子の家から飛び出した光政は、砂利の上を転げ回った後四つん這いになり、背中を波打たせて盛大に胃の中のものを吐いた。だが僕はこの時、手助けが必要な光政よりもまず、その男から目を離すことが出来ないでいた。
見事な白髪、洗いこまれ年季の入った作務衣、顔全体の三分の二を覆う包帯のような白い布、その布に横一列に描かれた四つの目。奇怪な面相と言える。しかしこの日、この場でこの男と出会えるなんて僕はラッキーだ。運はまだ僕たちを見捨てたりはしていなかった……。
「二神さんがなぜここへ!? 一体今までどこに!? というか、そんなもの素手で触って平気なんですか!?」
興奮のあまり、僕は取り留めもない質問を矢継ぎ早に連発していた。
「後にせえ」
二神さんはひと言で切って捨てると、気色の悪い物体を右手でぐっと握り込んだ。ビクンと跳ねる肉塊の表面には、僕が怖気を感じた白い紙が貼られたままになっていた。突如出現した傀儡から落下したコレはやはり、僕と光政の後をぴたりと追いかけて来ていたのだ。
「こいつは、呪物ですか?」
二神さんの耳にも聞こえるように話したつもりだが、二神さんは手の中の肉塊を睨んだまま答えなかった。
僕たちが普段から口にする呪物という呼び名は、一般的に霊力が宿るとして神聖視される品物とは意味合いが違う。霊力がある、という点で同じなのだが、術者が呪いを施す際に用いる「強力な念が封じ込められた呪具」にその発想は近い。だが本来呪具が身近な装飾品や数珠、人形といった無機物である場合が多いのに対し、呪物は人体に関連する物体を指すことがほとんど。つまり、僕たちにとっての呪物とは、神聖とは程遠い呪われた依代なのである。
本来なら災厄を退けるものとして重宝される呪物だが、本物の霊能者たちが見る呪物はそのほとんどが正視に耐えない。そこに封じ込められている力の根源が、見えてしまうからだ。
先ほど家の中で肉塊を見たときは青白く発光しているように思えたが、今はそのような現象は起きていなかった。すると、
「おぞましいのぉ」
二神さんが深い所から声を出した。「貴様、こいつが一体なんなのか理解しておるか?」
と聞いた。
「え? で、ですから『九坊』のじゅ……」
「そういう意味合いで言うとるんじゃない。こいつに込められた、謂わば……人の持つ悪意についてだ」
「人の、悪意……」
二神さんは低く念仏を唱えるような声を発したかと思うと、肉塊に対して片手で略礼の合掌を向けた。すると手の平の肉塊から白煙が上がり、見る間に燃え尽きた炭のようにその姿を変えた。
「匂いが、消えた。そ……そいつは一体何なんだッ!」
四つん這いのまま光政が叫ぶ。
「貴様、こいつを誰から?」
と二神さんが聞く。
「それは」
由宇忍の背後に突如現れた、人体を用いた傀儡の体から零れ落ちたものです……。
僕が答えようとした瞬間、二神さんが勢い良く背後を振り返った。その視線は古い方の柳家へと注がれ、続いて、
「んんんんんッ」
と怒りのこもった唸り声が迸った。
「まただ、また来るぞ!」
顔を真っ赤にして光政はそう叫び、自身は尻餅をついて砂利の上を後ずさった。
突如、激しい音を立てて古い方の柳家の玄関戸が砕け散った。古めかしい木製の引き違い戸である。一瞬、熱線の残像が見え、それが坂東さんの仕業であることが分かった。
しかし呆然と見つめる僕たち目には、誰の姿も映らなかった。誰も、出てこないのだ。
「……いかん」
二神さんが独りごちて一歩を踏み出した、その時だった。
それは、なんと形容してよいものか理解に苦しむ光景だった。
背中に穂村直政をおんぶする坂東さんが、ゆっくりと姿を現した。坂東さんはトレードマークの眼鏡を失い、右足を引きずっている。誰の目から見ても、坂東さんの右足首の骨が折れているのは明らかだった。そんな状態にも関わらず、彼は自分よりも体の大きい直政をおぶさり続けていた。そしてその直政は奇妙なことに、やたらと体のバランスが悪く見えた。
「に、兄さん!」
光政が立ち上がって叫んだ。
異様な光景の理由はすぐには分からなかった。しかし足の踏ん張りがきかない坂東さんが危うくよろめいたことで、ようやくその事に気付いた。直政の背中が、まるで肉を削がれたように目に見えて薄くなっているのだ。着ていた衣服は硫酸でもかけられたように焼け焦げている。だがそれでも直政は意識を失わず、血走った目で眼球をぎょろぎょろとせわしなく動かしていた。
そしてそんな二人の横を、一人の老婆が付き添うように歩いていた。それが柳菊絵であることは、説明されなくても分かった。
「六花は来ておらんのか」
と、二神さんが小声で僕に尋ねた。
「いません、僕と坂東さんと、穂村兄弟だけで来ました」
「坂東はまだしもあのおぶられておる坊主は、そう長くもつまい」
僕たちの背後で光政が兄の名を呼び、叫ぶ。
「病院に連絡を取ることが出来ても、めいちゃんの側から六花さんを引き離すわけにはいきません。彼女の妹も『九坊』の呪いを受けてるんです。なんとかして直政を病院へ連れて行かないと」
答える僕に二神さんは舌打ちし、忌々しそうに顔の包帯に指を掛けた。
「お久しぶりでございます。二神さん」
二神さんの先手を制するように柳菊絵はそう発し、僅かに体を前に傾けた。「なにやらちょろちょろちょろちょろと、私の行く先々に現れる御老体の姿が目撃されていましたが、ああ、貴方でしたのね」
「……食えぬよなぁ」
僕にしか聞こえない声で三神さんが愚痴を零した。
「柳菊絵さんですね」
と僕は言った。「僕は今から、坂東さんたちを病院に連れて行きます。邪魔をしないでいただけますね」
事件に対する話題には一切触れることなく、目の前の急務にだけ焦点を当てて喋った。お互いの立場からじっくりと話をする時間など、今の直政には残されていないのだ。ところが、
「どちらさんでしょう」
柳菊絵は小首をかしげて僕を見返し、そのまま黙った。
六花さんからは凛とした姿勢を崩さない、清冽な雰囲気を称える女性だと聞いていた。年の頃は七十後半から八十歳前後。豊かな白い髪を頭の真上にまとめ上げ、エンジと白の配色が美しい着物に身を包んでいた。一筋縄ではいかない雰囲気は、全身から立ち上る妖気に似た気配からも察することができる。それ以前に、人間的な狡猾さが滲み出ていた。まともにぶつかりあっては、僕などでは相手にもされない気がした。
「『天正堂』階位・第七、新開水留と申します。お互い腹に据えかねる諸々の事情があるでしょうが、ここは一旦退かせてもらえないでしょうか」
僕はそう言いながら、本心ではない、と自分に言い聞かせた。そもそも僕が柳菊絵に願い事をせねばならない理由などない。僕は奥歯を噛みながら真っすぐに坂東さんのもとへ向かった。
だがそれは、柳菊絵の斜め前に立つ、ということでもあった。
「来るな」
と坂東さんの唇が動いた。
それでも僕は、止まる気はなかった。
母の守護を過信していたわけでも、あてにしていたわけでもない。
臆してばかりでは、目の前の命は決して救えないことを知っているからだ。
「来るな、新開」
坂東さんの目から涙が流れた。
僕は坂東さんの前に立ち、柳菊絵の姿を視界に入れないようにしながら、
「行きましょう、坂東さん」
と声を掛けた。
「第、七……」
ポツリと柳菊絵が呟いた。「……力なきものが、なぜこのような真似を」
それは質問ではなく、理解に苦しむという自問に近い声だった。僕は自分が馬鹿にされたことには全く腹は立たなかったが、七位を受けた時に感じた素直な喜びという思い出を汚された気がして、反射的に柳菊絵を見てしまった……。
鬼がいた。
そこにいるのは年老いた婦人ではなかった。
眼の中に冷徹な殺意をありありと浮かべ、それでいで全く表情には出さない本物の悪意がそこにあった。他人の命を脅かすことに感情の起伏など起こらないのだろう。彼女の目に映る僕はきっと、計画に邪魔な名前のない何かだ。ひとつの命であることすら認識されていない気がした。
三神さんの周囲を取り囲んでいた傀儡どもをその目で見た『結界師』ツァイ・ジーミンは、「悪鬼」であるとそれらを表現した。台湾特有の言い回しなのかもしれないが、正しくその通りだと思った。傀儡どもを使役する術者が柳菊絵で間違いないなら、彼女もまた人ではない。悪鬼だ。




