[100] 「新開」31
逃げて。
由宇忍の唇はそう動いた。
憂いを称えた煌めく瞳の下で、由宇忍の震える唇が続けてこう告げる。
「三神さんによろしく伝えて」
「……あ、あな、……あ」
あなたはどうするつもりか。
そんな簡単な言葉さえ、恐怖に身の竦んだ僕には発することができなかった。
「逃げて」
と由宇忍は言った。「あの人が戻ってくる前に……」
突如出現した空間の裂け目より現れ出でし、傀儡と思しき異形の化け物。
轟音。
振動。
そしてビスケさんが語ったという、「次に来るヤバイもの」。
光政は言った。「俺は逃げるぞ。呪われたくねえかんな」。
もしもそれが今目の前にいる傀儡の出現を意味し、霊能者を次々と呪っていく『九坊』を運ぶ器を指していたのだとすれば、穂村兄弟が今日まで生き伸びて来たのはこの上ない奇跡だった。
空間を裂いて出現する異形から逃げ延びるなど、相当な運が味方をしなければまず無理だ。
しかし僕はこの時、死を覚悟するほどの恐怖と緊張感の中、ようやくずっと謎だった怪現象の正体に近づけたことを薄っすらと喜んでいた。
轟音と振動の正体は、『九坊』が時空を飛び越える際に巻き起こす、空間断裂の衝撃波だったのだ。
この美晴台にて傀儡の襲来を受けた秋月めいは、立っていられない程の振動を感じた後、雲間から飛来する発光体に被弾したという。また、R医大病院にて僕が同様の揺れを感じた直後、有紀さんが首を吊られて死んだ。そして僕が借りている仕事部屋で傀儡に襲われた幻子は、傀儡に仕込まれた『九坊』の発動を防いだおかげで振動を感じることがなかった。もしくは、幻子が到着する前から敵の侵入を許してしまっていたか、だ。さらにはもう一つ、警察署内で感じた振動である。これについては推測の域を出ないが、おそらくあの場でも『九坊』の呪力が発現しかけていたのだ。が、なんらかの力(おそらくは不死の生命力)をもってして残間京がその呪力を跳ね返したのではないだろうか……。
それでもやはり、僕たちはとんでもないものを相手にしていたと改めて思い知らされる。例えどこにいようとも、恐怖はこうして、向こうからやってくるのだから。
蟷螂が自分の手の鎌を開閉するがごとく、目の前の傀儡は節くれだった長い指を曲げ伸ばししながら獲物の居場所を探っているように見えた。手、顔、肩、足、胴体の順番に柳家のダイニングキッチンに現れた傀儡は、人工的な照明に煌々と照らされ、吐き気を催すほどの嫌悪感を漲らせた体を僕たちの方へと反転させた。
「あっ!」
思わず僕は叫んでいた。
見覚えのある顔だった……。
食卓についている由宇忍の背後に立つそれは、図書館にて僕と坂東さんを襲ったあの若い女の子に似ているのだ。あの時はまだ人としての原型を多く残していた。着ていた制服も、短い髪も、それは人間的な特徴に他ならない。そしてその特徴は、この家に住む女子高生、柳奈緒子ちゃんの特徴とも一致するのである。
「早く行って」
由宇忍の言葉に、椅子ごと引っ繰り返っていた光政が起き上がった。
目を離した隙に、食卓の上に異形が移動してきた。
戦う術を持たない僕たちはただただ息を止めて傀儡を見つめた。
「ウ、ウゲッ、オエエ」
光政が口を押えて嗚咽を繰り返した。
タス……ケテ……。
食卓の上の異形なる傀儡が、人語を話した。
ビシャ、と光政が吐いた。
光政は匂いで霊感を察知する。その感度が高すぎるあまり、強力な霊障に当てられ、精神を侵されかけているのだ。
「私がここにいる間はコレもこの場に留まり続ける。だから、早く今のうちに」
憐れな者を見る目で光政を見下ろしながら、由宇忍はそう忠告する。
「あなたはこいつをご存知なんですね? それなのにあなたは、どうしてそんなにも落ち着いていられるんですか」
口を突いて出た疑問に、由宇忍は悲しげに微笑んだ。
「……見たことがあるんですね。これまでにも、そしておそらく、何度も……」
「早く行ってって」
「心当たりを教えてください」
粘る場面でないことは、この世界で十年生きてきた僕には分かり切っていた。今すぐ光政を連れてこの場を離れなくちゃいけない。そんなことはとっくに分かっていた。抗う方法のない傀儡という高位の呪術を相手に、僕に出来ることなどほとんどないのだ。
「恥だから」
と、由宇忍は言った。
「……恥? それはどういう意味ですか」
「私の恥。身内の恥。家の恥。人に語って聞かせるような物語じゃないんだよ。もう、いいから」
「なにを言ってるんだ……」
「もう行って。私のことは放っておいて」
「そうは行かない!三神さんが命を懸けて救おうとした人なんだ!僕になにか、僕にも何かできることはありませんか!」
食卓の上で、異形の化け物が直角に首を傾けた。血の気の無い顔面から、ニュ、と黒紫色の舌が突き出た。
「お前は……やっぱりあの時の!」
図書館で遭遇した『ベロ出し』。制服を着た女子高生に近い見た目の若い傀儡である。チョウジに確保された後、警察署から脱走したとは聞いていたが……。
「い、息が。息が出来ねえ……」
光政が苦悶に喘いだ。
あの時は私を追い払ったくせにさぁ。……今更言ったって、もう、遅いんだってば。
驚いて顔を上げた時、由宇忍の唇は閉じていた。
それが実際に放たれた言葉だったのか、あるいは念話による意志の疎通だったのか、その時の僕は分からなかった。背後で喉を鳴らして震える光政の危機に焦りを感じつつ、それでも僕は由宇忍から眼を離せなかった。
……ドチャリ。
食卓の上に留まる異形の腹部から、臓物のような気色の悪い物体が落下した。見ればそれはピンク色をしたブヨブヨの脂肪や髪の毛、血液などが入り混じった不気味な肉塊で、青白く発光する紙切れが肉塊全体を覆うように貼り付いていた。僕はその白い紙を見た瞬間、本能的にそれが「ヤバイもの」であると感じとった。
「走って!」
由宇忍の合図と共に僕は光政の腕を取って駆けだした。
そして振り返らずに家を飛び出した僕たちのすぐ背後……息がかかる程のすぐ後ろで、僕たちを追いかけて来た何者かが倒れ込む音が聞こえた。家の前の敷地は砂利である。その砂利に突っ込んだような激しい音に、僕は飛び上がって背後を振り返った。
目の前には、気色の悪い肉塊を砂利の上に片手で押さえ付ける一人の男の姿があった。
「ちょろちょろちょろちょろしおってからに、あのババアは。こっちは車の免許を持っとらんのだぞ」
ふ、ふた、ふたた、ふた……。
驚愕する僕の口からはまともな声すら出てこない。
「ああ? なんじゃこの不細工な呪物は、汚らわしい。これで厭魅
のつもりか、下らん。まったくもって下らんわ。おう、そこな貴様、……なんじゃあ、貴様新開か? そう言やあ……おっと、いかんいかん。オホン! 我地にありて天変を正す七権と化す! なんてなぁ。 ……久しいな三神の弟子。息災か?」
天正堂階位・第二。
齢九十を超えて尚、呪い師たちの頂点に君臨する生ける伝説。
二神七権、彼がその人である。




