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末永くよろしくどうぞ魔王様!

作者: 餡子


 海を隔てた向こう側にある大国の王との婚姻が、翌日に迫っていた。

 今夜使い慣れた自室のベッドで眠って朝が来たら、王女である私、エステルは16年暮らした国を出てその王の正妃として嫁いでいく。

 もう明日には、私はここにいない。帰ってくることもない。


(とても恵まれた婚姻だと、わかっているのに)


 胸の奥がざわめいて眠気は訪れてくれない。

 一つ溜息を吐くと、ベッドから起き上がった。

 寝間着の上にストールを羽織り、少し熱を帯びているように感じる頭を冷やすためにテラスへと出る。

 見上げた空には丸い月が浮かんでいた。空は雲一つない。私達を祝福するかのように、きっと明日は抜けるような青空が広がるのだろう。

 それなのに、私の心は重い。

 婚姻前には不安が湧いてきて心が曇ることがあると乳母が言っていたから、これがそうなのかもしれない。

 なんて言い訳を胸の内でしたものの、すぐにそんな誤魔化しでは通用しないと苦く笑った。


(嫁ぐことが、こんなにも嬉しくないだなんて)


 相手は私より12歳年上とはいえ、まだ28歳。

 王としては即位したばかりで、まだ若い。けれどなよやかなところは一切なく、常に凛と伸ばされた背は頼もしい。

 光を弾いて輝く金髪とエメラルドのような瞳をした王は、女性ならば誰もが視線を奪われてしまうような方だった。

 そのうえ聡明で心根も優しく、王子の頃から民思いの素晴らしい方だと言われている。

 以前にご挨拶にいらした際に一度お話しさせていただいたけれど、優しい声で話す終始穏やかな方だった。

 

『私にはもうひとり最愛の側妃がいるが、とても優しい娘だ。だからなにも心配することはないのだよ。彼女もとても楽しみにしている。ぜひ、姉のように慕ってあげてほしい』


 悪意の全くない笑顔でそう言われさえしなければ、きっと私だって幸せだった。

 そのあまりにも楽観的な考え方に、二人の妻を平等に愛せていると思い込んでいた自分の父王の姿が重なった。


(女性というものを、甘く見過ぎていらっしゃると思うの……っ)


 側妃が、私が来るのを楽しみにしている?

 頼れる姉のように慕ってほしい?


(なぜ、そんなおめでたい考え方が出来るのかしら)


 側妃である彼女が、正妃を迎えることにあからさまに反対できるわけがない。

 王に嫌われないよう、嫌でも笑顔でそう言うしかなかっただろう。

 万が一、もし本心からそう言える女性だったとしたら、それこそ聖女としか言いようがない。

 そんな人が相手だとしたら、まだ16歳の小娘である自分が敵うわけがない。


(しかも既にお子様が二人もいらっしゃるだなんて)


 側妃は身分が低いせいで正妃にはなれなかったものの、既に7歳の王子と4歳の王女の母である。それに彼女は王がどうしてもと望み、彼女も王の熱意に打たれて嫁いだのだと聞いている。

 そんな彼らは今日までずっと、仲睦まじく暮らしてきたのだと噂で聞いた。

 王に寄り添う彼女の姿は慎ましく献身的で、民からの信頼も厚いという。

 この度、彼が王子から王に即位したことで私との縁談話が持ち上がらなければ、もしかしたら二人はそのままの形で暮らしていったのかもしれない。

 それほどまでに、微笑ましい話しか耳に入ってこなかった。


 そんな場所に単身嫁ぐ私は、どう見ても悪役。


 仲睦まじい二人の間に割って入り、平穏を掻き回す悪女としか思われないだろう。

 それも場合によっては王位争いすら引き起こしかねない、火種のようなもの。

 どう考えても、歓迎されるとは思えなかった。

 王は優しい方だから、私がないがしろにされることはないだろう。

 それにもしかしたら、王が私を選んでくださる日が来るかもしれない。


(でもそれは彼女たちの幸せを踏み躙った上で、成り立つのでしょう?)


 たとえば王のことが、どうしても好きならば仕方ない。

 誰を蹴落としてでも振り向いてほしい程に好きで好きで、諦められないのならば、そういう手段も仕方なかったかもしれない。

 けれど王に対して、恋愛感情はない。

 王としては素晴らしい方なのだろうとは思うけれど、そんなことをしてまで手に入れたいと思える熱は全くない。

 それに王が彼女を愛しているのは、一目でわかった。

 彼女のことを語る際の眼差しはあたたかく、優しく、声には甘さが感じられた。

 それほどまでに既に心に決めている方がいる相手に恋をするなど、不毛でしかない。

 自分以外の誰かを一番に愛している人を一途に愛せるほど、私の心は広くもなかった。

 けれど勝手な話だけど、嫁げば自分が振り向いてもらえないことに、自尊心は傷つくのだろう。

 王は彼女が良いというだけで、私だから駄目というわけじゃないと理解していても、自分が女性として認められないことに傷ついていく。

 きっとたくさん嫉妬して、認められないことに絶望する。

 そんな未来が、手に取るように見える。

 ……昔、自分の母がそうだったように。


(王が私を選んでくれる可能性も、ないわけではないけれど)


 しかし心から愛していた女性をないがしろにして、新しく現れた私を選ぶ男など、その時点で論外。

 自分から側妃を求めておきながら簡単に心変わりするようなら、私は王を軽蔑する。

 もし私も彼女も同じぐらい愛している、などと言って同列に扱うならば、それも当然論外。

 それは彼女と私の妥協と忍耐の上に成り立っていると理解できない時点で、本当に愛しているとは言えない。


(王族同士の婚姻など、政略結婚でしかないことぐらいはわかっているの)


 でも報われない私の傍らで、王と側妃は幸せな恋愛の末の結婚をしている。

 ずっとそれを見せつけられるの?

 場合によっては、その幸せを壊す厄病者扱いされたりするの?

 私は自分で望んで嫁ぐわけでもないのに、そんなのってあんまりではない? 


(……それでも、私は幸せな方だわ)


 今にも泣き叫びたい衝動を唇を噛み締めて堪え、そう自分に言い聞かせる。

 用意されているのは、優しく聡明な王の正妃の座。約束された何不自由ない生活。

 自分だけを愛されることさえ望まなければ、きっと誰もが羨む恵まれた立場。


(別に羨まれることなんて望んでない! 私を、私だけをちゃんと好きになってくれる人の元にいきたかっただけ)


 父王と正妃である自分の母、そして愛されていた側妃の姿を見てきて、こんなにも愛情と憎悪が混じり合った結婚なんて絶対に嫌だと思っていた。

 それなのに、私は母と同じ道を辿りそうになっている。


(私だから愛してくれて、そして私もその人を好きになって……そう夢を見るのは、そんなに悪いこと?)


 こんな考え、甘いのだとわかっている。

 だけどせめて今ぐらい、こんなの嫌だって、密かに涙を零すことぐらい許してもらってもいいでしょう?


(だってどう考えても幸せになんてなれないじゃない!)


 ぐっと唇を噛み締めて、嗚咽が零れそうになるのを必死に堪える。

 勝ち目なんてない。長い年月をかけて愛情を培ってきた人たちの間に、今更割って入れるわけがない。

 それに、誰かの幸せを壊したいわけじゃない。


(でも、私だって幸せになりたかった……っ)


 私が一番だって、そう言われることはないんだって最初からわかってしまうのは、悲しくて堪らない。

 それでも浮かびそうになる涙を、目頭に力を入れて耐えてしまう。

 だってわかっているの。

 こんなのわがままだって、ちゃんとわかっているの。

 私は王女。両国親善の楔となるための道具。そのためにだけ大切に育てられてきた。民の税で生きてきた。自分の役割は理解している。

 だけど私の異母姉妹達は、好きな相手と婚約している。

 私と違って生まれ育ったこの国から出ることもなく、守られて生きていく。

 自分とは違う待遇に、どうしたって胸の奥が軋んで苦しい。

 このまま全部投げ捨てて、逃げ出せてしまえたら……そんな妄想が脳裏を過る。

 けれどそんなことが許されるわけもない。手段もなければ、勇気だってない。

 これはほんの一時だけの感傷。明日になれば、私はきっと朗らかな笑顔の仮面を被って足を踏み出すのだ。

 それでも今だけ、弱音が口から零れ落ちていく。


「……いっそ誰か、さらってくださればいいのに」


 涙に滲む声で呟いて、すぐに馬鹿みたい、と首を横に振った。

 掌で目尻に浮かんだ滴を拭ってから、顔を上げる。


(馬鹿なことを言っていないで、おとなしく部屋に戻って休まなきゃ。明日は早いのだから)


 諦めて踵を返した、その瞬間。

 誰かに、強く腕を引かれた。


「!」


 驚いて目を瞠り、しかし振り返るよりはやく唇を大きな手で塞がれた。悲鳴を上げる間もない。

 その手を外そうと口を覆う手に咄嗟に爪を立てても、ビクリともしなかった。

 それどころか、そちらにかまけている間に腰に腕を回される。ぐっと力が入り、体が浮く。


(いや!)


 浚うつもりなのだと、そうわかった。

 浚ってほしいと、一瞬でもそう望んだのは私自身。

 けれどいざ本当にその立場になると、全身が恐怖で強張って動けない。

 逃げなければ、と頭の片隅では冷静に思うのに体が言うことを聞かない。叫ぶことも許されず、ゆらりと足元が揺らぐ。

 それと同時に、視界が急速に真っ暗な闇に包まれた。


(なっ……に、なんなのこれは!?)


 夜だから暗い、そういう次元の話じゃない。

 闇だ。真っ暗で、何も見えない。

 目隠しをされているわけでもないのに、視界が闇一色に染まる。

 焦燥と恐怖で、心臓が胸を突き破りそうなほどドクドクと強く早鐘を打ち出した。体がカタカタと震える。

 真っ暗で、不安で、怖くて怖くて堪らない。


「んぅっ、んん!」


 塞がれた口からくぐもった悲鳴を上げ、必死に身を捩る。


「おとなしくしてくれ。万が一ここではぐれたら、私でも探し出すのに苦労する」


 すると、すぐ背後から低い声が掛けられた。

 ぞわりと全身が粟立つような、けれど耳に心地いい低音。

 聞いたことのない声だった。それが、私を浚う相手の声だとすぐに気づく。

 彼の言うことを鵜呑みにするのならば、何とかこの手から逃れればすぐには見つからない、ということだ。

 けれどこんな場所で放り出されても、右も左もわからない。

 たぶん、というかここはどう考えても人ならざる力で繋がれた空間。どこかとどこかを繋ぐ、その合間。

 ただの人では、決して入れない場所――。

 そして、そんなことをできるのは。


(魔族!)


 自分を浚った相手が何者なのか思い至ると、背筋に戦慄が走り抜けた。顔から一気に血の気が引いていく。


(なぜ。どうして魔族が、私を?)


 混乱している間にも、風を受けているわけでもないのに体が落下していくような感覚に襲われる。

 こんな感覚は今までに一度も味わったことがない。

 忠告されたように、ここで離される方が自分の身が危ないということはさすがに理解できた。

 こんな状態なのに頼りに思えるのが、自分の口を覆う手と腰に回された腕だなんて、なんという皮肉。

 その時間が数刻だったのか、実際には数秒だったのか。


「……っ」


 不意に、視界に色が戻ってきた。

 眩しく感じて咄嗟に目を綴じる。ゆっくりと瞼を持ち上げ、何度か目を瞬かせれば、そこまで明るいわけじゃないとわかった。


(ここは、どこなの)


 視界に映るのは、自分が今まで暮らしていた城にもあった謁見の間のような高い天井の広い空間。

 蝋燭の灯りが揺れる中、周りより数段高い位置に無人の玉座と思われる椅子が一つある。

 そのすぐ脇に、自分達は唐突に現れていた。


「――おかえりなさいませ、王よ」


 動揺と混乱に襲われる中、急にそんな声が聞こえてきてビクリと体が震えた。

 反射的に声の方に視線を向ければ、黒髪の青年が深く首を垂れているのが映る。


「無事に花嫁をお連れ出来たようで、なによりでございます」


 黒い髪は、魔族の証。

 そしてその魔族が、私を浚ってきた彼を「王」と呼んだ。


(王ということは……どういうことなの?)


 耳に飛び込んでくる言葉がすぐには理解できない。

 単語の意味は勿論わかる。けれど、今ここで聞く言葉とは思えなくて頭が理解するのを拒否している。

 だって魔族が王と呼ぶ相手なんて、それは即ち。


(魔王、ということになるのではないの!?)


 思い至ると同時に、胸を突き破りそうなほど脈打ち続ける心臓と反比例して、息が止まる。


「しかしながら花嫁が今にも倒れそうな顔色をしていらっしゃいますよ。離してさしあげたらいかがですか?」

「逃げられたら面倒だ」

「ここまで来て逃げられはしないでしょう。一体この魔界の、どこに逃げ場所があるというのです」


 青年は赤い目を細め、柔らかい口調で、けれど残酷な現実を告げた。

 魔界という言葉に、ゾッと体が竦み上がった。実際、改めて肌に感じる温度がさきほどよりずっと低いように感じられて背筋が凍りつく。


(うそでしょう? ここが魔界なの?)


 魔族がいて、魔王がいて、それならばここは魔界であるのも当然と言える。

 信じられないことが自分の身に起こっているのだと知って、恐怖で体の震えが止まらない。

 緊張と焦燥で喉が乾いて、けれど喉を嚥下させる動作ひとつ怖くて出来ない。


「おまえが話す度に、花嫁が怯える。少し下がっていろ」

「そもそもなぜ逃げられる前提でいらしたり、怯えられていたりするのでしょうか。もしや、何のご説明もなく連れてこられたのですか?」

「戻ってきてからすればいいと思っただけだ」

「王よ。それは、誘拐……」

「いいから下がれ」


 私を捕まえている相手が苛立たしげに言えば、青年は首を垂れて靄のように姿を消した。

 人間ではありえないことを目の当たりにして、喉の奥で悲鳴が引き攣る。


 ――この世界には、魔族が存在している。


 けれど昨今では魔族なんて一生に一度出会うかどうか、と言われるほど稀有な存在である。

 魔獣はもっと高確率で出会うこともあるけれど、それでも今までの人生でお目にかかったことは幼い頃に1度だけ。


(そんな相手が、どうして私を浚ったの)


 頭の中にはそんな疑問が浮かんだものの、どうして、なんて考えるまでもなかった。

 古来から、魔王が姫を浚うのは様式美にすらなっているのではないかと思えるほど、幾度となく続けられてきたことだ。

 そして浚われた姫は、勇者によって助けられる――なんてことは、ほとんどない。

 無事助けられるのなんて、お伽話の中だけだ。


「一応離すが、騒がないでもらえると有り難い。手荒な真似をして悪かった」


 そう告げて、やっと口と腰から手を離された。

 恐怖で立っているだけの力もなく、そのままその場にへたり込んだ。逃げるだとか、悲鳴を上げるだとか、そんな力もない。

 恐る恐る顔を上げて、自分を浚ってきた魔王を見上げた。


「あなたは、魔王、なのですか」


 震える声で、けれどなんとかそれだけ喉の奥から絞り出した。

 真ん丸く見開いた自分のスカイブルーの瞳に映るのは、魔族の特徴である漆黒の長い髪。

 人の姿を模しながらも、けして人には持ちえない金色の瞳。

 ぞっとするほど、冷たく見えるほど整った顔立ちの男だった。見ているだけで魂を抜かれそうな、まさに魔王の名が似合う、そんな存在。

 

「人間からはそう呼ばれているようだな」

「私はこれから、あなたに殺されて、食べられたり、するのですか……?」


 気丈さを保って訊いてみたけれど、口に出しただけで恐怖で吐きそう。顔から血の気が引いて、今すぐにでも倒れてしまいたい。

 これは悪い夢なのだと、そう思いたい。


「いいや。私は人は食べない。おまえを殺すこともない。殺すつもりなら、わざわざ連れてくるわけがないだろう?」


 半分くらいは、自分の言った通りになるのだろうと思っていた。

 だから私の前に立つ相手が、呆れた声で切り返してきた内容に息を呑んだ。


(食べないし、殺さないの?)


 確かに、殺すつもりならあの場で殺していればよかった話だ。

 でもならばなぜ、私は浚われてきたのだろう。


(それは、世界を恐怖と混乱に陥れるため)


 いつだって、魔王の与える恐怖は姫を浚うところから始まる。

 それは国々が落ち着きだした頃。人々が魔族の脅威を忘れかけたのを見計らったかのように、魔王は姫を浚い、国々を恐怖に陥れる。

 そして各国は人の世界の平定と、姫を取り返すという大義名分の元に勇者を募り、魔族との交戦が始まる。

 けれど姫が取り戻された事例など、お伽話でしか聞いたことがしかない。

 なぜなら姫を浚った後、十数年も経てば魔族たちは引いていくのだ。

 そうなると浚われた姫の存在はいつしかただの悲劇として扱われ、救い出されることなく消えていく。

 浚われた姫がどうなってしまったのかは、誰も知らない。


 ――そんな状態に、自分が陥っているだなんて。


(明日になったら、私は嫁いでいたはずなのに)


 たとえ望まぬ婚姻だとしても、それなりに生きていったはずなのだ。

 それがなぜ魔界なんかで、魔王相手に、こんなことになってしまっているの。

 堪えきれずに、じわりと涙が浮いてくる。握りしめた拳に爪が食い込んで痛い。

 なぜ私ばかりが、こんな目に遭わなければならないの。

 いったい私が何をしたというの。


「ならば私を、どうするおつもりですか」


 悔しくて、悔しくて、八つ当たりも込めて睨みあげた。

 どうせ何を言っても、何をしても、私は幸せになんてなれない運命なのだ。

 そう、疑っていなかった。

 だからこそ、人ならざる金色に輝く瞳で私を見据えて告げられた次の言葉に、目を丸くした。


「おまえには、私の妃になってもらう」


 至極真面目な顔だった。

 魔王はへたり込んでいた私に手を差し伸べながら、全く予想もしなかった言葉を口にしたのだ。


(きさき……妃? 魔王の?)


 一瞬、言われた言葉が理解できなかった。


(魔王の妃!?)


 理解なんてできなくて当然だと思う。予想外過ぎて、まったく頭が付いていかなかった。 

 だって、魔王の妃になる? 人間の私が? なぜ!?


(確かに魔王は人と同じ姿をしているけれど)


 魔族は醜悪だと思われていた。特に魔王など、人が視界にいれたら発狂するとすら思われていた。

 それなのに、実物は人間よりもずっと綺麗。違う意味で、人生を狂わされそうな美しさ。

 隣に並んだら、確実に見劣りしてしまう。

 けれどそんな相手が、なぜよりによって人間の私なんかを?

 魔族の女性に飽きてしまった? だから、たまには毛色の変わった人間に手を出そうとでも?


「私は、貴方の子を産むのですか……?」


 震えた声でこんなことを口にするだなんて、私は相当動揺していたのだと思う。


「生んでくれるというのならば喜ばしいが、世継ぎという意味でなら必要はない。魔王は世襲制じゃない」


 青ざめた顔で問うた私を見下ろしたまま、しかし魔王は僅かに首を傾げてあっさりと言い放った。


「世継ぎが、いらない?」


 思いもよらない返事を寄越されて、丸く目を瞠る。


「ならばなぜ、妃を必要とされるのですか。どうして、私を選ばれたのですか」


 魔王に浚われたら周辺諸国を動かせそうな大国の姫は、私以外にもいる。

 それに魔王の外見年齢は、私と10歳は違って見える。それこそ嫁ぐ予定だった王と同じぐらい。

 妃を求めるのならば、もっと早くても、逆に遅くてもよかったはずだ。別に今、私でなければならない必要性を感じない。


「おまえが浚ってほしいと言ったのだろう。それに、都合も良かった」


 魔王は面倒そうな顔をしながらも、溜息混じりにちゃんと答えてくれた。

 確かに、浚ってほしいと思わず言ってしまったのは私。

 祝福された婚姻を控えた大国の王女である私を浚うことで、周辺の国々を恐怖に陥れるためには一番都合がいい女だったのかもしれない。

 でも。


「たった、それだけなのですか……?」


 期待していたわけではないけれど、言われた言葉がショックで目頭が熱くなる。

 だって、そんなのあんまりじゃないの。

 うっかり言ってしまった言葉が原因で、それもたまたま都合がよかっただけなんて。

 運が悪いと言えばそれまでだけど、そんな理由だなんて泣きたくなっても仕方がない。


「……。あとは、おまえの泣く声が耳障りだったからだ」


 ぐっと奥歯を噛み締めて涙を堪えていると、頭上から躊躇いがちな声が降ってきた。

 期待していたわけではなかったけれど、まったく予想もしていなかった文句を続けられて余計に涙が浮かぶ。

 だって、耳障りだなんて。


(そんなに大きな声で泣き叫んだ覚えはないのに!)


 嫌がらせで魔界に連れてくるほど、私の泣き声は耳に触ったというの!?


「ひどい……あんまりです」


 恨めしげに見つめ上げれば、堪えきれずに涙が頬を零れ落ちた。

 それを見て、魔王があからさまに絶句した。数秒間見つめ合い、苦々しく舌打ちされる。

 その音にビクリと体を震わせれば、溜息を吐き出しながら魔王が私の前に屈みこんだ。

 驚いて身を引きかけた私の顔を覗き込まれ、伸びたきた手が怖くてぎゅっと目を閉じて体を竦ませる。

 けれど身構えた自分の身に、恐れていた衝撃はいくら待ってもなかった。

 恐る恐る瞼を持ち上げれば、こちらに伸ばしかけた手のやり場に困って固まっている相手と目が合う。


(……なにをしているの)


 まるで私が触れて怖がるのを、恐れているみたい。魔王なのに。

 まじまじと魔王を見つめれば、口をへの字に曲げて魔王がゆっくりと語り出す。


「おまえのいた城とこの城は対になっていて、ここはちょうど真下の位置にある」


 驚きの事実を告げられて、コクリと喉を嚥下させた。

 まさか自分が生まれ育った城の真下が魔界だなんて、誰が考えるだろう。


「おかげでここにはいろんな声が落ちてくる。おまえの声もよく聞こえてきた」

「私の声が……?」

「おまえの母が亡くなった日も、おまえが内緒で飼っていた魔獣を殺された日も、もう一人の妃や姉妹に苛められた日も。子供らしく大声で泣き喚けばいいものを、いつもおまえがめそめそと啜り泣く声が聞こえてきて耳障りだった」


 淡々と語られる言葉に、身に覚えがありすぎて息を呑む。

 いつも声を殺して泣いていた。弱い自分を見せたくなくて、誰にも気づかれないように息を潜めて泣いていた。

 それでも本当は、いつだって誰かに気づいてほしいと、そう願っていた。

 だから告げられた言葉に、ドクリと心臓が大きく脈を打つ。


「だがこれでようやく結婚が決まって泣き声が聞こえなくなるかと思ったら、またぐずぐずと泣いている。さすがにこれだけ聞かされると嫌になってきた」


 うんざりだと言いたげな顔で言われたものの、さすがにそれには反論したくなった。


「私は明日には嫁いでいくのですから、もう聞こえなくなるではありませんか」

「生憎と私の耳はいい。おまえの声を覚えてしまっているから、向こうに行ってもおまえの声は聞こえ続ける。このままいけば毎日のように泣き暮らされて、こちらの方の気が滅入る」


 わざとらしく溜息を吐いて、魔王がゆっくりと立ち上がった。

 そしてへたり込んだままだった私に、再び手を差し伸べてくる。


「ならば私の妃にして、泣かないように監視しておいた方が安心できるというものだ」


 理由になっているのかいないのかわからないような理屈を並べられて、まじまじと魔王を見上げる。


「……魔王の妃になる方が、泣き暮らすとは思われなかったのですか?」

「思わないな。泣かれないように、私が幸せにするのだから」


 とんでもない告白を受けた気がして、一瞬息を呑んで絶句した。

 思わず心が揺らいでしまいそうになる口説き文句が耳に飛び込んできた気がする。

 でも待って、相手は魔王。


「ですがあなたは、これから人の世界を乱すおつもりなのでしょう?」


 やはりどうしたって、人間とは相いれない存在でしかない。

 私を妃として迎えたとしても、人の世界を乱すことに躊躇いは覚えなさそう。

 強張った顔で問いかければ、魔王は「それが神に命じられている仕事だからな」と鷹揚に頷いた。


「神に命じられている、ですか?」


 魔王から神という言葉を聞くとは思わなくて、目を丸く見開いた。


「そうだ。私たち魔族が人の世に恐怖を振りまくのは、必要悪というやつだ」

「必要悪……?」

「人間は定期的に争いを求める習性がある。魔族の脅威が薄れてくると、今度は国同士を取り合って戦争を起こそうとする。今もそうだ。おまえが婚姻を結ぶことで国の力を強固にしようとしているのも、それに備えてのことだ」


 魔王が「まったく面倒なことを考える」と、嫌そうにぼやく。


「太古の昔に、それが行き過ぎて人は世界を更地に変えたこともある。それを見かねた神が、私たち魔族を作った。魔族という一つの種族にだけ敵意を向けさせるようにして、人間同士を結託させることで人同士の争いが起こるのを防いでいる」


 淡々と説明されるものの、正直なところよくわからなかった。

 私が理解していないのがわかったのか、「簡単に言うとな」と呆れることなく魔王が説明を続けてくれる。


「ここで魔族が人間にちょかいをかけなければ、人間は人同士で国を取り合って大きな戦争になる。でも魔族が現れれば、人間はそんなことをしている場合ではないから、仲良く手を取り合って魔族と戦おうとする。ここまではわかるか?」

「……はい」


 なんとなく。


「魔族側も人が向かってくる以上はある程度迎え討つが、人同士が戦争を起こすよりは格段に人死にの被害は少なくて済む。だから、その辺は目を瞑ってほしい」

「よくわからないのですが、魔族は人を滅ぼすのが目的ではないのですね……?」

「魔族が本気で人を滅ぼすつもりなら、とうの昔に滅んでいる。神にはもう少しうまく考えてほしいと思うが、命じられている以上はやるしかない。魔王などと呼ばれていても、実際はただの中間管理職だ」


 語られる内容は、正直なところよくわからなかった。

 それでも、好き好んで人間と争いたいわけじゃないというのはなんとなく伝わってくる。むしろ面倒そうな雰囲気すら感じられる。


「こちらとしても手早く必要最小限で終わらせたい。私も騒がしいのは好みじゃない。で、手始めにおまえを浚ってきたわけだが、連れてきた以上は責任は取る」

「それで、私を妃に?」

「そういうことだ」


 責任感があるようだけど、その責任感が斜め上を言っている気がしてさっきから絶句しかできない。


(……でも、ちゃんと言葉も通じるみたい)


 言語が通じるという意味ではなく、最低限の常識は一応は通じそう。

 連れてきた手段はかなり手荒だった。とはいえ、黙らせるために暴力を振るわれる気配はなかった。

 冷静になって思い返してみれば、さっき、手荒な真似をしたことも謝罪された。


(殺さないし、食べないとも言われた)


 しかも『妃』ということは、それなりの立場を用意している、ということでは?

 何とかそれなりに話は通じそうな、美しい王。


(もしかして……悪くない嫁ぎ先なのでは?)


 いえ、でも、待って。落ち着いて。

 相手は魔王であって、人ではない。


「それで私は、何番目の妃になるのでしょうか」


 さっきの物言いからすると、実はものすごく長い年月を生きているようにも聞こえてくる。もしかして数十番、数百番目の妃かもしれない。

 拒否権がないことはわかっているけれど、なんとなく気になって訊いてしまった。


「妃など一人もいれば十分だろう?」


 そんな私の疑問に、魔王は眉を顰めて答えた。


「以前のお妃様達はどうなさったのでしょう?」


 ここ数十年、姫が浚われた記録はない。だとすると、既に天寿を全うされているという可能性もあるけれど。


「以前も何も、私の妃は今も昔もおまえ一人しかいない。何人も愛せるほど私の懐は深くない」

「あなたは、実は数百歳だったりしないのですか……?」

「そんな爺に見えているとは思いたくなかったが、一応人と同じ見た目通りの年だと言っておく」


 苦虫のような顔をしながらも、ちゃんと答えてくれる。

 そう言っている間もずっと、魔王は私に手を差し出してくれていた。

 強引に掴むわけでもなく、動かない私に怒るわけでもなく、私が手を伸ばすまで待っていてくれていると感じる。

 面倒そうな顔はしているけれど、悪い人では、ないのかもしれない。

 いえ、私を浚ってきた相手なのだから、間違いなく悪い人なのだけど。

 でもあれは、私を救い出してくれたようにも、思えてくる。


(不思議と、こわくない)


 もちろん、怖いと言えば怖い。未知なる存在だ。当然、怖くないわけじゃない。

 でも、いつのまにか背筋が凍るような恐怖は感じなくなっていた。

 私を見下ろす金色の瞳が、ひどく静かに見えるからかもしれない。差し出された手を握っても、きっと大丈夫な気がする。

 そんな不思議な安心感を覚えている自分がいた。

 なんとなく幼い頃に出会った、魔獣に似ているせいかもしれない。

 柔らかい黒い毛並みの、綺麗な金色の瞳の魔獣の仔。

 まだ小さかったその生き物が魔獣とは知らず、くるくると輝く金の瞳とそっと擦り寄ってくる姿が可愛くて、庭に迷い込んだのを見つけて内緒で飼っていた。

 魔王と魔獣を一緒くたにするのは、自分でもどうかとは思うけれど。


(これって、悪くないお話なのではない?)


 それに、私だけを愛してくれるというのなら。

 願ったり叶ったりというものではないでしょうか。


(……魔王だけど)


 でもどちらにしても、私に拒否権があるとは思えない。

 帰ってきた姫は、いないのだから。

 それなら、私が選ぶべき道は一つしかない。


「わかりました。これからよろしくお願いいたします」


 魔王からのプロポーズに、覚悟を決めると頷いた。

 差し伸べられた手に恐る恐るだけど自分の手を乗せて、日々鍛えていた笑顔を浮かべてみせる。

 ちゃんと妃として迎えていただけるというのなら、文句もありません。

 はっきりきっぱりと言い切った私を見つめ、しかしなぜか私にプロポーズをしたはずの魔王が眉根を寄せた。

 数秒の沈黙の後、訝し気な表情のままゆっくりと口を開く。


「…………魔王の妃になるのだぞ?」

「はい」

「理解しているのか。ここは泣き喚いて拒否するものではないのか?」


 まるで泣き喚いて許しを乞うた方が良いような言い方をされた。

 でもそれを望んでいるようには見えない。ただ魔王の顔には困惑が見える。

 ……もしかしたらこの方はやはり、そんなに悪い人ではないのでは?


「泣き喚いたら、私は元いた場所に返していただけるのでしょうか?」


 首を傾げて一応問いかけてはみたものの、魔王は私の手を引き上げながら首を横に振った。


「それは出来ない。返したら、また泣くだろう」


 少しだけ心配そうな顔をして、そんなことを言う。


(本当に、おかしな方)


 魔王のくせに。

 魔王なのだから、もっと強引に堂々と浚えばいいはずなのに。

 不器用な優しさに触れて、自然と笑みが零れてしまう。

 勿論、まだ混乱が抜けきったわけではないけれど。


「でしたら、よろしくお願いしますとしかお返事しようがございません」


 それに一度魔王に浚われた姫が戻ったところで、傷者扱いされるのは必至。

 そうなれば縁談も破談になる上に、それはまだいいとしても、魔王に一日で突き返された姫という汚名を負ってしまう。

 どちらにしろこうなると、私には行く場所がない。むしろ縋りつくしか道がない。

 そしてこの道は、案外とても素敵な場所へと続いているように見えるのだ。


「一度妃にすると決めていただいたのなら、責任をとっていただかないと困ります」


 だからこそ今度はちゃんと、心から微笑んで。


「どうぞ末永くよろしくお願いします、魔王様」






◆その後の話【魔王と姫の異類婚姻日常茶番事】

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