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爪の間についたみかんの色は落ちにくい

 山口さん()のつとむくんは、この頃少し変です。どうしたのでしょう。


 幽鬼じみた青白い顔に、無機質めいた瞳。どこかふらふらとした足取りで、しかも日中に出歩いているところを目にすることがありません。


 つとむくんの家を訪ねた、お友達のたかしくんが遊びに誘っても、いつも答えは決まっています。


「あとで」


 どこか目の奥に赤々とした狂気的な光を宿し、ぐりんと振り向いて、つとむくんはそう言うのです。


「つとむのやつが、どこか変になっちまったのは先週、やつの叔父が住むA市に行ってからだ」

「そうだっけ」

「そうだよ」


 たかしくんの兄は少しイライラした様子で、たかしくんに伝えます。


 大人たちは『こどもにはよくあることでしょ』だとか言って、話を真剣に聞いてくれないのです。たまに真剣に聞いてくれた大人がいたかと思ったら、次の日からその人の姿を見かけなくなりました。

 そういえば、つとむくんの親の姿も、このところさっぱり見ていません。


「叔父って、あの変わったおじさん?」

「ああ。自分のことを『魔術師』だとか言ってる、変なジジイだ」

「昔、一度だけその叔父さんのお屋敷を探検したよね」


 つとむくんと一緒に忍び込んで、3人で探検した記憶が蘇ります。あのときは確か、たかしくんの兄だけが、自転車で逃げ帰ってしまい、たかしくんとつとむくんの二人は捕まって、とっても怒られたりしたのでした。

 そんな余計なことを思い出していると、


「昔の話だ」


 たかしくんの兄は吐き捨てるように呟くと、自転車に(またが)ります。


「どこに行くの?」

「A市。つとむのやつが『ああ』なった原因がそこにあるかもしれねぇ」

「わかった。僕は何をしたらいいかな」


 普段はいじわるな兄ですが、何かをやると決めたときは頼りがいがあります。たかしくんは、兄のそんなところが結構好きでした。また、冒険のような匂いを感じとる子供独特の嗅覚の賜物か、どこかわくわくとした気分だったのです。


 しかし、兄は薄く笑うと、


「俺が頼まれてるお使いを、代わりにやっといてくれ」


 そう言い残して、颯爽と自転車で走り去ってしまいました。


 やられた、お使いを押し付けたかっただけか! たかしくんが気付いたときには、もう後の祭りです。最近学んだ英語で言うと、アフター・ザ・カーニバルでしょう。うん、なんだかこのほうが少しばかり格好いい、そんなふうにたかしくんは自分の心を慰めました。


 曇天。今にも泣き出しそうな空模様は、じっとりとした湿気を運んできます。

 りんごを1つ、みかんを2つとお釣りの49円をじゃらじゃらと言わせながら、たかしくんは家路を辿ります。

 人里離れた辺鄙な村に暮らすたかしくんの元にも、消費税というのは容赦無く襲いかかってきます。小銭がぶつかり合う細かな音が、地面に吸い込まれていきます。


「せちがらいよのなかだな」


 あまり意味はわかっていませんが、たかしくんは曇り空に向けて呟きました。

 と、その時ちょうど、たかしくんの後ろで微かに軋むようなブレーキ音がしました。たかしくんの兄が、自転車で向かったA市から戻ったのです。


 たかしくんの兄は、曇り空の下でもはっきりとわかるくらいに土気色のような顔色で、顔中から汗を吹き出しています。それだけではなく、服やズボンは一部が裂けて血が滲み、自転車のフレームは折れ曲っているではありませんか。


「兄ちゃん、一体何が――」

「逃げるぞ」


 たかしくんの言葉を遮って、兄は右腕を掴みます。


「何言ってんだよ! わけわかんないよ! 怪我だってしてる、絆創膏取りに行かないと……」

「そんなのはいい、いいから――ぅ……く、ぁあああッ、ぁああああああああ"あ"ッ」


 ガシャアン!!


 勢いよく自転車が倒れる音が、閑散とした道路に響きます。


 どさりと投げ出されるように地面に倒れた兄は、もがき苦しむように喉を掻き(むし)り、悲鳴を上げる口からは涎が、目からは涙がとめどなく溢れ、顔中をべたべたに汚していきます。

 突然苦しみだした兄の様子に、たかしくんはどうすることもできません。持っているのはりんご1つにみかん2つ、それに49円だけ。いつもハンカチを持ち歩きなさいという母の教えを面倒くさがった我が身を、この時ばかりは悔やみました。


 苦しむ兄をどうすることもできず、ただ目をそらさず見詰めることしかできないたかしくん。尋常ではない苦しみ方をしていた、たかしくん兄は、やがて片目を押さえながらふらふらと立ち上がりました。家の倉庫の暗がりで腕に包帯を巻き片目を押さえて『俺の……邪眼が疼くッ』と言っていた時とは、真剣味も気迫も比べ物になりません。

 蹲まっていたたかしくんの兄の発作じみた苦しみは、しばらくするとやや弱まったようです。立ち上がった兄は、内ポケットから小さな薬瓶(アンプル)を2つ、取り出します。そのうち1つを、たかしくんに差し出し言いました。


「俺は、これから始祖体――ツトムを討つ。俺がしくじった時には、たかし。お前がやれ」


 ぐっと押し付けられた薬瓶(アンプル)を胸に抱き、たかしくんは兄の目を見上げます。焦点の合わない、血走った目が空虚に蠢いています。しかしその空虚さの中に、たかしくんは一筋の覚悟の光を見てとりました。


「いやだよ、兄ちゃんも一緒に逃げようよ――!」

「――ああ。心配するな、俺も失敗したらすぐ逃げる。ゔ……ぁ、ぁあ"ッ、あ、は、は。大丈夫、兄ちゃんは、大丈夫だ。

 俺には自転車(こいつ)があるからな。お前が逃げた10分後には時速15kmで追いかけるよ。

 時速6kmで逃げるたかしに追いつくまで、何分掛かるかでも考えてな」


 嘘です。たかしくんには、兄の嘘がすぐにわかりました。


 たかしくんの兄は自分では気付いていませんが、嘘をつくときに右手を首の後ろにまわし、首をごきりと回す癖があるのです。

 しかし覚悟を決めてしまった兄を止めることもまた、自分にはできないことを、たかしくんは気付いてしまうのです。


「でも逃げるったって、どこへ?」

「いいか、よく聞け。このまま進むとA市との中間地点Mがあるだろ。青い看板のあるところだ。そこからはまっすぐB市を目指せ」

「A市のほうが2/3の距離だよ」

「――A市はもう、だめだ。いいか、B市だぞ。

 B市についたら、大人を頼れ。『家出してきたが帰り方がわからない』とでも言えば、少なくとも交番には送り届けてくれるだろ。

 そのあとはT町に住んでる叔母さんを訪ねろ」

「はなこおばさん?」

「そうだ。……ちょっと待ってろ、電話番号書いてやるからな」


 荒い息を出来るだけ落ち着かせながら、震える手でたかしくんの兄は数字の羅列を紡ぎます。

 いつもの彼とは似ても似つかぬ、蚯蚓(みみず)が苦悶にのたうったような数字。それが、今、たかしくんの兄が書ける精一杯なのです。


「行け、振り返るな! 元気で暮らすんだぞ」

「やだ、いやだよ兄ちゃん。すぐ追いつくんだろ!?」


 血の気の失せた顔でありながら、どこかやりとげたような満足げな表情を見せる兄に、たかしくんは叫び返します。


「そうだったな。じゃあな、たかし。――また、後でな」


 たかしくんの兄は、首をごきりと回します。

 それを合図に、倒れた自転車を起こすと、村へ向けて軋む車輪を回し始めました。


「また、あとでね、兄ちゃんッ……!」


 約束だよ、という言葉は、胸が詰まってしまって言葉になりませんでした。

 言い知れぬ焦燥感が、たかしくんの凍りついた背中をせり上がってきます。


 薬瓶(アンプル)と紙切れをしっかりとポケットに押し込むと、たかしくんは踵を返しました。

 兄に言われた通りの道順を辿り、M地点を目指します。違う道を通ったら、行き違いになってしまうかもしれないからです。

 たかしくんの兄は、後から出発しても、いつもたかしくんに追いついてくれました。今日だって、きっとそうなるはずだと、たかしくんは自分に言い聞かせて足を動かします。それを一番信じていないのは自分なのに、何度も何度も言い聞かせます。

 りんごとみかんが邪魔ですが、それを捨てることはありません。追いついてきたたかしくんの兄はきっと喉が乾いていると思うので、みかんで喉を潤してもらおう、そう考えて今一度果物をきゅっと握ります。


 だから、はやく追いついてきて。


 M地点を超え、たかしくんがB市の目前まで迫っても、たかしくんの兄が追いつくことはありませんでした。


 この時、たかしくんの胸を締め付けた感情を、20字以内で答えよ。なお、頬を伝う雫の塩分濃度は1%とし、他の不純物は考えないものとする。

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