Escape
「星谷。」
「うん。」
星谷は、大きく息を吸い込んだ。
その間に私は素早く、ワイヤレスイヤホンマイクの電源を切り、耳栓を付けた。
キ ィ ィ ィ ヤ ア ア ア ア ア ア ア ア ア ア ア ア ア ァ ァ ァ ァ ァ ァ
星谷の叫び声が、廃墟となったビルの壁に反響し、甲高く響いた。星谷の声は、ワイヤレスマイクを通じて私の持つスピーカーに伝わり、超音波となって、暴漢を直撃した。どうやら、暴漢の耳を一時機能不全に陥らせるのには、十分な音量だったようだ。突然、背後に、車の急ブレーキ音が聞こえた。廃墟の入り口の方向へ目をやると、見慣れた黒いミニバンが、荷室をこちらに向け、バックしてくるのが見えた。焦りの色が強くにじみ出ている社長の顔が見えた。ダンカン社長が、約束の時間から二分遅れて、到着した。
「遅い!」
星谷の苛立った声が聞こえる。
「すまん、乗れ!」
社長がそう答える前に、星谷は依頼人を連れ、サイドのスライドドアから、車へ乗り込んだ。前を向き直ると、暴漢が、耳をふさぎながら怯んでいるのが見える。私は、車までの距離を試算した。あと、約30メートル。
私は、地球を押し返すように、足の裏で地面を捉えた。重心を真後ろへと傾けていく。足から腰、上半身ににかけて、身体を下から順に後ろへねじる。視界はやがて、暴漢から、車へと変わった。私と社長達を最短距離で結ぶ一直線の上に、遮るものは、何もない。私は、社長達の待つ車へ、全力で駆け出した。それはまるで、運動会の徒競走のスタートを切るようだった。
パーンッ
スタートを告げる雷管のような音がした。音と同時に、私から五メートルほど離れた廃墟の壁が、削り取られるのが見えた。廃墟と化した建物の壁は脆くなっているようで、削れた部分は土煙に包まれた。相手は、発砲可能な銃を所持している。そして、彼は、私達を狙っている。弾を避ける必要がある。盾になるものは、何もない。目の前には、廃墟の壁と、車だけが見える。盾になるものは、持っていない。物陰も、脇道もない。流れ弾が、依頼人や星谷達に当たる可能性がある。一度に処理できる情報量を超えた私の頭は、答えを見つけ出すことはできず、一つの言葉を導き出すことしかできなかった。
どうする。――
ふと気づくと、車の中にいる星谷と、目が合った。星谷は、耳を指差している。私は、自分のイヤホンマイクの電源を入れ忘れていることに気がつき、すぐ電源を入れた。
「…かにし!赤西!」
耳をつんざくような音量で、自分の名前の一部が呼ばれた。思わず、先ほどの暴漢のように、私の顔は大きくゆがんだ。
「星谷!相手が発砲してきた。銃弾を無効化する手立てがない。どうしたらいい?」
「左に2歩移動して!」
私は左にステップし、車と私を結ぶ一直線上から外れ、廃墟の壁に近づいた。
「壁にスピーカーを向けて!」
私は走りながら、廃墟の建物に向け、スピーカーを構えた。
「次は?」
ドンッ
頭の上で、壁のえぐれる音が聴こえた。私は、思わず首をすくめ、上を見上げた。暴漢の手から放たれた銃弾は、私の頭上およそ50センチに着弾したようだ。着弾した部分が破片となって私に降り掛かった。徐々に、着弾する場所が、私に近づいてきている。文字通り、危険が身に迫って来ている。
「音量を最大にして!」
私は走りながら、手元のスピーカーを操作しようとした。音量のダイヤルが掴めない。身の危険を感じ、手元が狂う。焦りが、更なる焦りを生む。どうにかダイヤルを掴み、音量が最大となるよう、ダイヤルを
ギィンッ
ひねり損ねた。銃弾が、車の屋根をこそぎ取った。
「赤西、一回サイドドアを閉める!荷室のハッチバックを開けるからそっちから乗り込んで!」
車内の星谷は、サイドドアを閉めながら、依頼人に頭を下げるよう促した。暴漢は、車と私を結ぶ一直線上から、少し外れていたらしい。しかし、弾丸は私の体側を通ったに違いない。暴漢は、確実に狙いを絞りつつある。焦りながらも、ダイヤルを最大へひねった。
そのとき、風切音が一際大きく聴こえた。走る速度は変わらない。手元のダイヤルから目線を車に戻すと、星谷は、叫ぶ構えを取っていた。いっそう大きく聞こえた風切音の正体は、星谷の息を吸い込む音だった。まずい、そう気づいた瞬間、私は、イヤホンのスイッチを
ヲ゛ォォォォォア゛アアアアアアアアアアァァァァァァァァァァ
間一髪で切ることに成功した。星谷の唸り声は、まるで、地震が起きたかのように、壁一面を揺らしていった。もしも、スイッチを切るのがあと一秒遅かったとしたら、この地鳴りのような唸り声が、イヤホンを通じて、私の脳を揺さぶったことだろう。私は、肝を冷やした。
スピーカーで増幅された星谷の唸り声が、建物の壁を揺さぶる。さながら、高圧洗浄機で壁の汚れを洗い流すように、塵や埃がボロボロと舞い落ち、土煙となって、辺りに濛々(もうもう)と立ち込めた。私は、星谷と協力し、煙幕を張ることに成功した。おそらく、暴漢が、この煙幕の中で、私達を狙撃してくる可能性は低い。ターゲットを失った状態、かつ、砂塵の中で銃を撃つことは、銃弾の浪費にしかならず、また、目詰まりや暴発など、撃つ側に大きな危険を伴うからだ。
私は最悪の危機を免れた安心から、少し走るスピードを緩めた。風が吹き、土煙が車の方へと流れていく。私が乗り込むスペースとして、星谷は車の後ろの貨物室のハッチドアを開けておいてくれた。普段は、その部分に私が飛び乗り、貨物室のドアを上から下に閉め、ドアが閉まったことを合図に、社長は車を発進させ、緊急脱出を完了することになっている。が、視線の先には、依頼人が咳き込みながら、車内から手を伸ばし、ドアを閉めようとする姿が見えた。「待ってくれ」と叫びたかったが、声は居場所を示すことにつながり、それを目安に狙撃されることもあるので、声を上げることは避けた。私は、すっかり冷静さを失い、緩めたスピードをトップギアへと押し上げ、再び全力で走り始めた。最後の最後に、最悪の危機に直面した。
ハッチドアがゆっくりと閉まる。閉まり切る前に、乗ればいい。いや、乗りたい。走る。閉まる。走る。走る。間に合わない。跳ぶ。一歩、二歩、三歩目で大きく跳躍した――ふと、この試供品のスーツが、三段跳びができることがコンセプトだということを思い出した。残念だが、そのコンセプトは、見直しが必要なようだ。素材の伸縮性に文句はないが、ジャケットが向かい風をまともに受け止めてしまうため、思いのほか、飛距離を稼ぐことができない。『三段跳びができる』ことに間違いはないが、『三段跳びの記録が伸びる』わけではない。過大広告ではないかと、担当に訴えることにしよう。
土煙の渦巻く中、洗練されたデザインの車体が、重厚なエンジンを轟かせ、大地を駆け抜けた。依頼人を乗せた車は、非襲撃地帯からの緊急脱出を、無事、完了した。私は、その姿を、非襲撃地帯から、見送った。
依頼人がドアを締めたことに、苛立ちはない。車内に土煙を巻き込みたくない思いは、私にも分かる。星谷は、先ほどの唸り声で体力を使い果たしたようで、ぐったりとしていたのが見えた。依頼人の手を止める余力もなかったのだろう。それも、依頼人を守るという使命を果たすために、全力を尽くした、という証拠だ。仕方がない。約束の時間より二分遅れた上に、ドアが閉まったことを理由に、私が乗り込んだかどうかも確認せず、車を発進させた社長は、どうだろうか。社長が、依頼人だけでなく、社員の命に関わる現場に遅れてきたことも、私を目視確認しなかったことも、仕方がないことであろうか。
汗に砂埃がまとわりつき、私は、全身の肌を砂に覆い尽くされた。私は、無性に叫びたくなった。しかし、私は、この状況から、心の中で、一言呟くことにした。いや、星谷の唸り声のつもりで、心の中で、叫んだ。
「ダンカン、この野郎!」
念が通じたのか、社用車がバックして戻ってくるのが見えた。私の後ろの土煙の中には、まだ銃を持った輩がいるはずだから、早くしてほしい。ふと、冷静になって考えてみると、依頼人がドアを閉めるとき、イヤホンのスイッチを入れ直し、中の星谷に声をかければよかったような気がする。