第九十二話 俺が帰りたくなるまでだ
安息神教会の朝は、ゆるい。
まどろみの中で好きなだけオフトゥンちゃんとイチャイチャした俺は、そろそろ帰りたい成分を補充するべくもそもそと這い起きた。
俺は働きたくないわけじゃないからな。帰りたいんだ。働くからこそ『帰る』という概念が生じ、適度な疲労がオフトゥンちゃんとの安息をより素晴らしいものへと昇華してくれる。帰ることの素晴らしさを実感できる。
とてもそうは見えないって?
いつも働きに出ることに文句を言ってるだろって?
当たり前だ。朝早起きして働きたいと思う人間が存在するわけないだろう。いたとしたらそいつは真正の変態だな。
「おはようございます、オフトゥヌス様」
着替えて部屋を出ると、そこには俺専属の司祭秘書が立っていた。眼鏡をかけたいかにも仕事できそうなおじ様だ。
「おはよう。ちゃんと休んでるか?」
「もちろんです。昨日もしっかり定時に帰って八時間睡眠いたしました」
「うむ、よろしい」
俺の傍付きはなんとも優秀な安息信徒だ。このおじ様、安息神教会に入信する前は月の残業二百時間が普通とかいう頭のおかしいブラック企業にいたらしいからな。この教会で司祭になって正解だと思うよ。
「本日のご予定ですが、教会内の巡回、先日捕らえた建労神教会の者への洗礼、『布楽の間』にてお食事をなされた後、王都各所で安息神教会の布教演説を行っていただきます」
「演説はキャンセルで」
「かしこまりました」
恭しく頭を下げる司祭秘書。そんな風に予定を聞かされるとか、まるでどこかの秒単位でスケジュールが詰まってる社長になったみたい! やだ帰りたい! 過剰労働反対!
これがエヴリルなら問答無用で仕事に駆り出されるわけだが、ここで暮らし始めてからそういうこともなく実に平和でよろしいです。文字通りの自宅警備員みたいになってる気がするけど俺ちゃんと仕事してるからね? 演説キャンセルしたのも面倒だからってだけじゃなく別の予定があるからだからね?
――って誰に言い訳してるんだろうね、俺。
「おう、オフトゥヌス! 今日も気持ちのいい朝だな!」
司祭秘書を引き連れて教会内を巡回していると、高級シーツを纏った大柄な男が話しかけてきた。俺の同僚で、安息神教会で大神官を除けば最も力と権力のある四人――〈安息の四護聖天〉が一人たるオフトゥーソンだ。本名はなんだったかな? 覚えてないしどうでもいい。
「オフトゥーソン、あんたも巡回か? あともう昼だからな」
「起きた時が朝だろう?」
「確かに」
なんなら寝るまでが夜で今日だ。
「どうだオフトゥヌス、今日の夜にでも一杯やらねえか?」
オフトゥーソンは人差し指と親指で『C』を作るようにして口へと持っていく。その文化この世界にもあるんだ……。
「酒か? 悪いが俺は飲まないぞ。自分の足で帰れなくなる可能性があるもんは口にしない主義なんだ」
あと未成年だからね。こっちの世界でも成人は二十歳からだったはず。それでも誘われるってことは……え? 俺ってば成人してるように見えるの? 帰りたい。
「なんだよ、別に酒場まで出向こうってわけじゃねえぞ? それに酒が入っていると普段より安息できるんだ」
「フッ、まだまだだな、オフトゥーソン。そんな酩酊状態で真の安息を感じられるものか。酒が入ったことによるまやかしの安息など俺は興味ないね」
酒なんて麻薬と一緒だ。伊巻一族は代々そういう理由で下戸だからな。酒を飲むのは母ちゃんとかその辺くらいだ。
だが、今の俺は伊巻拓である前に〈安息の四護聖天〉の長――オフトゥヌスだ。他者の安息を守るのが俺の使命だからな。
「酒は飲まないが、付き合うくらいはしてやるよ。ちょっとだけだぞ。俺が帰りたくなるまでだ」
「構わねえ構わねえ。安息は人それぞれだ」
ガハハと笑って俺の肩をバシバシ叩くと、オフトゥーソンは巡回を再開した。あいつは入信する前は確か王国騎士団に所属していたんだが、とても騎士には見えないな。腕は立つんだけど。
この別に広くない教会の巡回なんてやらなくてもよさそうなことはあいつ一人に任せてればいいか。てことで、次の予定を終わらせるぞ。そして早く帰るんだ。
俺は教会の地下へと降りていく。司祭秘書は相変わらず俺の三歩後ろを寡黙について来ている。見張られているみたいで落ち着かない。帰りたい。
「来ましたかな、オフトゥヌス」
地下にある一室に入ると、そこには俺やオフトゥーソンと同じ高級シーツのローブを纏った爺さんがいた。爺さんの前には十人ほどの男女がオフトゥンに包まれて安息の表情をしている。
「オフトゥレプト、そいつらの具合はどうだ?」
爺さん――オフトゥレプトも俺たち〈安息の四護聖天〉の一人だ。元は別の教会で勤めていた優秀な司祭だったらしく、魔法の腕は四護聖天の中でも最強。安息魔法もあっという間にマスターしていたな。
「はい、自分たちが二十四時間労働を強いられていたことに疑問を覚え始めました」
「建労の楔は順調に外れているようだな。そのまま洗礼を続けてくれ」
「御意に」
オフトゥレプトにはその魔法の腕を見込んで健労神教会の連中を洗礼してもらっている。違うよ。洗脳じゃないよ。放っておいたら二十四時間労働を始める彼らを正気に戻しているだけだよ。
「時にオフトゥヌス、あなたはこの前のミサに来ていた者たちの下へ帰らなくてもよろしいので?」
安息魔法で健労神教会の奴らに安らぎを与えながら、オフトゥレプトは振り向かずにそう訊ねてきた。俺も安息魔法で手伝いつつ――
「エヴリルたちのことか? そうだな。帰らない。俺の今の家はここだ」
「悲しまれますぞ?」
「爺さんこそ家族はいないのか?」
「いますとも。私はちゃんと帰っておりますぞ。というより家族全員が安息神教会に入信しましてな。住み込みで働いております」
オフトゥレプトは辞めなくていいのに前の教会を抜けて安息神教会に入った。オフトゥレプトが優秀すぎたせいで一人じゃ処理できないレベルの仕事を回されまくって過労死しかけていたそうだ。それを救ったのが安息神教会だった。
しかし家族全員で入信とかずいぶん熱心だな。俺もエヴリルを追い返すんじゃなくて説得して入信させればよかったかな? いや無理だ。相手は働天使・エヴリエルだぞ。内部から破壊されかねない。
「そうです聞いてくだされオフトゥヌス! 先日も孫が友人の勧誘に成功しましてな!」
「爺さん、長話は相手を帰りたくさせるだけだ。ほどほどにな」
「おっと、これは失礼。ですが、年寄りにとって孫の話は安息になるのですぞ」
「俺は結婚する気ないから一生わかりそうにないな。じゃあそのお孫さんには俺から祝福を与えよう」
「孫も喜びます」
それから洗礼が終わるまで俺は爺さんから孫の話を聞き続けた。正直帰りたかったが、爺さんが安息に満たされた表情だったから我慢したよ。
地下を後にすると、俺は予定通り『布楽の間』――教会にある小食堂へと向かった。他の仕事がある司祭秘書と別れ、食堂で今日のメニューを確認する。ふむ、日替わりランチがハンバーグ定食か……いいね!
てことでお残しは絶対許してくれそうにないおばちゃんから日替わりランチを受け取り、手近なテーブルへと持っていく。昼時から少しずれているため食堂に人はほとんどいない。人が多すぎて並んでたり座れなかったりしたら帰りたくなるだろ。
「ちょりーっす! オフトゥヌスも今からごはんだし?」
「げ、オフトゥニアス……」
ハンバーグを食べようとフォークに刺したところで、高級シーツを被った少女が俺と同じ日替わりランチを持って歩み寄ってきた。
小麦色の肌に赤銅色の髪。耳にはピアスなんかつけたいかにもヤンキー風なこいつは、オフトゥニアス――〈安息の四護聖天〉の紅一点だ。一番年が近いせいか知らんが、なんというか俺にぐいぐい絡んでくるから帰りたい。
「なんでそんな嫌な顔するし! ごはんならウチも一緒していいし?」
「……いや俺もう帰るとこだから」
「まだ一口も食べてないし!?」
オフトゥニアスは俺の許可もなく隣に座ってきた。
「食堂はガラガラなんだから他のテーブルに行けばいいのに」
「そんな連れないこと言うなし! 同じ〈安息の四護聖天〉だし!」
そんな俺たち親友だろみたいなこの世で最も信用しちゃならないワード的なこと言われても困る。だが、誰かと食事することがオフトゥニアスの安息なのかもしれん。なれば〈安息の四護聖天〉の長として飯を食い終わるまでなら付き合ってやるか。食事倍速モードON!
「もぐぱくがぶがぶげほごほかえっりたいっ!?」
噎せた。
「ちょっと大丈夫だしオフトゥヌス? そんながっつくからだし。どんだけお腹減ってたし?」
オフトゥニアスは心配そうに背中をさすって水を取ってくれた。あれ? 渋谷とかによく出没するウェイ勢かと思ってたけど意外といい奴かもしれない。まあ、ウェイ勢なら安息神教会なんかに入らないか。
「腹が減っては戦はできぬ、帰りたいから戦はやらぬ」
「なにそれ?」
「俺の国に伝わる諺だ。意味は帰りたいなら食事もさっと済ませてしまえって感じのこと」
「ふぅん、よくわかんないし」
ツッコミがない。べ、別にちょっと寂しいとか思ってないよ!
「ねえ、オフトゥヌスってウチと同い年だし? なのに頭いいって勉強とかどうしてるし?」
ん? 俺、なんか頭いいこと言ったっけ?
「別に、前に学校行ってたくらいだ」
「うげ、学校なんて面倒で退屈で帰りたいだけだし」
「同意。てかこの世界学校あんの?」
「はぁ? オフトゥヌスも自分で通ってたって言ったし」
なに言ってんのこいつって目で見られた帰りたい。エヴリルに聞いた話だと普通は教会が子供に勉強を教えているそうなのだが、学校なんてものもあるんだな。
「ほら、ウチってば貴族の娘だし?」
「そうだったっけ?」
ニッと笑って自分を指差すオフトゥニアス。高貴な感じが微塵もしないから言われるまで忘れていた。
「王国の僻地に上流階級だけが通える学園があって、ウチはそこの生徒だし」
「じゃあ学校通えよ。帰りたくても卒業しとけばいろいろ有利だぞ」
学歴なくて舐められたら鬼のように雑用を投げられるから帰れないぞって父ちゃんが言ってた。だから俺は大学までちゃんと出るつもりだったんだが、今異世界だからなぁ。そのうち帰れるとしても留年とかなったらどうしよ?
まあ、もしそうなったらそうなったで天空神のクソジジイを殴ってから考えよう。
「あんなとこ行っても安息できないし! ウチはこの教会に入信したからもう学校なんてどうでもいいし!」
学校でもサボり魔だったのだろうか? それとも行きづらい理由でもあるんかな? そんなプライベートなことまで干渉したら帰れなくなるので、俺はスルーします。
「そうだし! オフトゥヌス、お願いがあるし!」
なにかを思いついたのか、オフトゥニアスがぐいっと体を寄せてくる。俺がすっと同じだけ距離を開けると、またぐぐいっと近づいてきた。もちろん離れる。
「む?」
オフトゥニアスが近づく。
「よいしょ」
俺が離れる。
「ちょい」
オフトゥニアスが近づく。
「そい」
俺が離れる。
「なんで逃げるし!?」
テーブル一週したところでオフトゥニアスが涙目で叫んだ。
「シャイボーイなんだ。女の子が苦手なんだ。帰りたいんだ」
「それ自分で堂々と言うことじゃないし!?」
安息神教会内で対等な立場だからこそのいいツッコミ、いただきました。オフトゥーソンやオフトゥレプトは歳が離れているせいかなんか冷静に流されてしまうんだよね。
「で? なんだお願いって?」
「いや、えっと……その……」
「さて食べ終わったから返却口に食器を戻して帰るか」
「わーっ!? オフトゥヌスちょっと待つし!?」
本気で食器を下げようと立ち上がったら全力で俺の高級シーツを掴んできた。そこまでして俺になにをしてほしいんだ? 新しい枕の出来栄えを見てほしいとか?
オフトゥニアスはほんのり頬を赤らめながら――
「あの、ウチが馬鹿にならないように、オフトゥヌスに勉強教えてほしいし」
「嫌だ。帰りたい」
「即答だし!?」
なんで俺がそんな帰りたいことをせねばならんのだ。どう考えてもオフトゥニアスの安息じゃないだろそれ。
でも確かに味方に馬鹿がいると苦労するからな。そいつが中二病患者だったりすると特に厄介だ。アドバイスだけしておこう。
「いいか? 勉強ってもんはオフトゥンの中で孤独にやるもんだぞ」
「それできんのオフトゥヌスだけだし。ウチは安息しちゃって秒で寝ちゃうし」
なん……だと……?
「オフトゥンの中で安息を存分に噛み締めないまま寝るって正気か貴様!?」
「ウチは時々オフトゥヌスの安息感がわからなくなるし!?」
結局勉強を見ることになってしまい、今夜三十分だけだと念を押してから俺は食堂を後にした。くそう、英雄やってたせいか頼み事に弱くなってるな、俺。直さねば。
「さて」
場所は教会の最奥部。
そこにある扉の前で俺は周囲に誰もいないことを確認すると――コンコン。軽めにノックをして中にいる人物へと呼びかける。
「ネムリア、来たぞ。入っていいか?」
返事は、なかった。




