第六夜 古城が見せる幻
その城は、きつく絡みつく茨にすっかりと覆われていて、黒い森の奥深くに隠されています。茨の棘は、城に足を踏み入れようとする人々を拒み、外から見えるのは城の一番高い塔の屋根だけ。
その城は、百年の眠りに就いているかのように静かに時を刻む黒い森の中にひっそりとあります。だというのに、その城はまるで時が進まないかのように、目覚め続けているのです。
茨の守りの中に一歩でも足を踏み入れた人がいたのなら、きっとこう言うでしょう。
花々が一斉に咲き誇る爛漫な春を、当に今、迎えようとしている、その一瞬のまま時が止まったようだった、と。
*
その晩もまた極彩色の男は常と同じくに四つ辻に佇んでいた。息が白み始めた季節とはいえ、この賑やかな四つ辻では絶えず人が行き来をする。しかしやはり行き交う人々がその姿に目を向けることはない。
男は薔薇を売ることを生業にしてはいないのだが、今日は中々目を向ける人間が現れないと不思議には思っていた。これくらいの時間、立っていれば誰か一人、花に誘われて近づく人間がいる筈なのだが。
ぞくり、と全身が冷気に震える。視線の先の通りの、灯りと明りが作り上げた闇の中に何かいる。人通りは決して少なくないこの通りなのだが、何故かふっと人並みが途切れた。通りの奥の赤い光と賑わう声が遠ざかり、夜霧とともに静寂が落ちる。
闇が動いた。
カツン、カツン、と石畳の上を足音がこちらに近づいてくる。もう一度、冷気が漂い、闇の中に男の白い顔が浮かびあがった。人形か何かのように整っているが、まるで表情の無い顔だった。冷徹な灰色の瞳が闇の中で一際冴え冴えと光を跳ね返す。次に人の輪郭が闇から現れた。シルクハットを被り、黒い外套を着て、手にはこれまた黒光りするステッキを持っている。どこにでもいる紳士と同じ装いなのだが、宵闇の王なのだろうと、この薄暗い空間を支配するのではないかと、そう感じるような男だった。
そんなことは気にしているようには見えないそぶりで極彩色の男は帽子を脱ぐ。
「おやおや、貴殿のような御方が私に目を向けて下さるなど珍しい。」
胸に当てて慇懃に礼をすれば、赤毛がふわりと揺れた。
「一輪もらおうか。」
極彩色の男の言葉には答えることなく、宵闇の男は言い放つ。礼をして垂れている赤毛の隙間からちらりと目の前の男を覗いた。気を取り直すかのように勢い良く体を起こすと、極彩色の男は帽子を被りながら視線を合わせずに、視線を薔薇へと向けて答えた。
「しかし、貴殿がこの花に縋るのですか?」
「何を支払えば良い?」
闇色の男が自分を相手にする気がないと悟ったのだろう。派手な服装に似合わない沈鬱な溜息を吐いた。
「貴殿がいますぐ渡せるものの中で一番、困らないものを一つ。ただし、金じゃないものを。金で価値を決められるような代物ではないのですから。」
「金以外に困らないものなどない。」
憮然とした、と言うよりは、手放せるような余分な物を持ち歩く習慣などないといった様子だった。
「どうやら、花に縋るのは貴殿ではないようで。」
「金ではない物が良いということは、金でも構わないのだろう?」
極彩色の男は頭を抱え込んだ。
「仕方ないでしょう、あまり貴殿を苛立たせるのは得策ではないようです。」
闇色の男はそれに薄い笑いで答える。賢明な判断だ、と言わんばかりに。
「金貨一枚を。」
「随分と、安い夢だ。」
嘲笑ではなく至極単純な感想を言うと、金色と引き換えに青色を受け取った男は踵を返し、闇の中へと沈んでいった。
「やれやれ、これでようやく店じまいか。」
極彩色の男はずっと強張っていた肩の力を抜いた。
森はひっそりと眠りに就いたように静まり返っていた。
実りの秋の初めならいざ知らず。秋も終わりかけとなれば、森は妙な静寂に満ちていた。太く高い木々の枝は太陽を遮り、他の植物はほとんど育つことも出来ない。忙しなく木の実を集めていた栗鼠達もすっかり姿を消している。葉すら落ち切った後では、木の葉が地面に落ちる音すらもなく、時折気まぐれに風が落ち葉を舞い上げる音がするだけだった。落ち葉の上を這いまわる蚯蚓や毛虫ですら、どこかに隠れているのかもしれない。生き物の気配はしても、皆、どこかで息を潜めている、そんな妙な気配が靄と共に木々の合間に漂っていた。落ち葉も、秋の初めとは異なり、元の形を残している物など皆無で、砕けて塵になっている。
さくり。
土色の落ち葉の形れの骸てを黒光りする革靴が踏みしめた。
さくり、さくり。
どこを見渡しても同じような木々が立ち並ぶだけの森の中を、闇色の男は躊躇いなく突き進んでいく。
静かな午睡か、夕暮れのまどろみか。どこか緩慢な心地で眠りに就いていた森は、闇の闖入者にさざめきたつ。葉のない枝が不安げに揺れ、男の後を追うように落ち葉が舞い上がっては風に運ばれる。
闖入者は躊躇うことなく、奥へ奥へと進む。森の奥のさらに奥深くへと。
すると大木ではなく、段々と低木が立ち並ぶようになり、藪や茂みすらも見え始めた。まるで森を突きぬけて、反対側の出口にたどり着いたのかと思った頃。茂みはいつの間にか茨の蔦に代わり、迷いなく足を運んでいた男がふと歩みを止めた頃には、茨はしっかりと絡みあい、男の行く手を塞いでいた。後ろを振り返れば通ったはずの道ですら、茨に覆われ見失う始末。わずかな空間にどうして男が迷い込むことが出来たのか不思議なほど、男の周囲は茨の壁に取り囲まれてしまっていた。
それでも、男は慌てる素振りすら見せなかった。
じっと、目の前の茨の壁を冷徹な灰色の双眸で見つめる。一本の蔦を視線で辿り、その棘にまでも視線を這わせ、そしてまた次の蔦を睨みつける。行く手を塞いでいるのは茨の蔦の筈だが、ここでもやはり男は支配者のように泰然としていた。
先ほどまで一分の隙もないほどにきつく絡みあっていた筈の茨。だが、一ヶ所。掌で茨の蔦を寄せるだけのほんのわずかな一点。蔦を掻き分けるのに必要なだけの部分に棘がなかった。黒い革手袋をした手が蔦を取り払うと、次に進む途が見えた。たった一ヶ所とは言え、綻びを見つけてしまえば後は、毛糸玉を解すよりも速かった。絡みあう棘の合間を縫いながらなおも奥へ奥へと男は進んでいく。あまりにも簡単に進んで行くものだから、さながら茨が王の前に道を開けたようにすら見えた。
そして、突然だった。
茨の道が途切れ、視界が開けた。
「これは……。」
一度も動揺を見せなかった男であったが、さすがに眼前の光景には息を飲む。
そこには石造りの古城が建っていた。秋と冬の狭間にあるこの季節、古城は緑溢れる中に建っていた。
外の黒い森が、百年の眠りに就く静まり返った森ならば、まるでここは時が止まった場所だった。
面食らった男の鼻先をからかうように虫達が飛び去って行った。呆気に取られたまま、古城へと一歩を踏み出すと、黒光りする革靴の真横を這っていた蚯蚓が慌てて土の中へと隠れた。虫達の気配が途切れることのない庭は、冬が終わった後に新しい季節の訪れを感じる時と同じ気配に満ちていた。石壁を器用に登る蜥蜴がちろりと男へ視線を向けて壁を覆う蔦の間に消えて行く。柔らかな黄緑色の葉や新芽を付けたばかりの草木が茂るここは、どこからかふわりと降りた柔らかな陽光に照らし出される。花々の蕾はどれもが膨らみ、明日にでも一番美しい姿を見せようとしていた。
古城は、春、に包まれていたのだ。それも、次の瞬間には爛漫な春になろうとする直前、その一瞬を切り取ったまま、時を止めたような光景が広がっていた。先ほどまで、不気味なざわめきに満ちた暗い森を我が物顔で闊歩していた闇色の男は、この春の支配の下では滑稽なほどに不似合いだった。
入口は、少し昔の華やかな時代の物ではなく、さらにもう少し古い時代の名残が見える、外敵との戦いを見越したような入口だが、城の中は対照的に華やかな時代の装飾品に覆われていた。この城の代々の主であったろう人物や、一家の人間を描いた絵画。男の体重を受け止めてもなお柔らかさが残る絨毯、飾られた豪奢なタペストリーはすべてそれほど古くはない、つまりは華やかな時代の意匠だった。
城の中の品々を丹念に観察しながら、慎重に男は階段に足を乗せた。
「誰?」
警戒していることを隠さない声が落ちてきた。
「一人かい?」
カツンと階段を昇り切った男の靴音と共に男の返答が響く。
「ええ、ずっと一人よ。貴殿は何者?どうしてここに?」
柔らかなクリーム色の豪奢なドレスを纏った少女がいた。胡桃色の髪と同じ色の瞳。深い緑をしたビロードのリボンが髪を飾っている。年の頃は十四、五といったところか。大人びたようでいて、口元や目元にどこかあどけなさが残る。
「君が、一人で退屈しているのではないかと思ってね。」
街角で極彩色の男と言葉を交わしていた時とは打って変わって優しげな笑みを浮かべた男は帽子を取った。黒が取り払われた途端、アッシュブロンドが現れ、灰色の瞳が嬉しそうに細められる。十年来の恋人にでも会ったかのように。
「……、ええ……、ええ、そうね。話相手でもいれば少しは退屈ではないかもしれないと思っていた所よ。」
少女に誘われるままに、男は奥へと足を踏み入れる。猫の足に似た曲線美が、華やかだった時代の流行りを偲ばせる長椅子。二人はそこに並んで腰かけた。少女のドレスのふくらみは随分と大きく、並んで腰かけたものの、グラスを受け取るためには随分と手を伸ばす必要があった。
「美しい庭だね。」
「ええ、我が家の自慢の庭ですもの。」
「まるで御伽の国の景色のようだ。」
窓からは柔らかな陽光が差し込み、蝶や鳥達が入れ代わり立ち替わり窓の向こうに現れる。明るい庭を飛び回る小さな虫達が照らされると、光の粒が宙を遊んでいるようにも見える。
「まるで夢の国のような。」
その言葉に少女は暗い顔をする。
「なら、やはり私は夢の中にいるのかしら?」
おや、と男が顔を上げると少女はなおも続ける。
「夢の国なら、どうして私はずっとここにいるのかしら?」
疲れることも乾くこともなく、ただただ、春の庭を眺めながらこの城にいるのだと。どうしてもここから離れてはいけないと感じてしまう。夢ならば、待っている何かが現れる筈なのに。そのようなことを少女はぽつりぽつりと話した。
「夢はね、起きている時に抑圧されている心が露わになった物だとも言われている。我々が考えていること、意識していることが心のすべてとは限らないのだとね。」
「でも……、でも、だとしたら、私、夢なんてずっと見ていないわ。」
「そう思って、これを持ってきた。」
少女が腰かけている足元に片膝を立て、恭しく花を捧げる。
「青い、薔薇?」
少女は驚きのあまりか、伸ばした手を震わせ、触れることすら躊躇っていた。
「青い薔薇の花言葉は?」
「不可能。」
「ああ、だから、この花は人が不可能だと知らぬうちに思いこんで、考えることすらしない願いを夢に見せてくれる。まあ、時には叶わぬ願いだと分かっていることもあるようだが。君にこの花が役に立つのかは正直私にも分からないが、試してみる価値はあると思わないかい?」
食い入るようにじっと青い薔薇を見つめる少女の目の前で、花に火が点けられた。
あまり肺が強くなかった少女は、空気の良い森の近くにあるこの城で暮らしていた。街からは離れているものの、訪れることに不便を感じる距離ではなかった。だからか、頻繁に兄とその友人が狩りを楽しみに訪れることもあった。
「体の調子はどうだい? もう春がやって来ているよ。ほら、クロッカスが咲いていたんだ。」
まだ幼く遊び盛りの少年達は、病弱な年下の少女など気にもかけずに、自分達の楽しみを優先していたが、一人だけ、必ず少女に挨拶をしてくれる少年がいた。柔らかなアッシュブロンドに同じく柔らかな灰色の瞳。特段整った顔立ちではないが、誰よりも朗らかに笑う少年だった。数年が経って少年が青年になる頃には、少女の思慕が恋に変わっていたのは当然だった。
「君は、いつも誰よりも早くやって来て、ぱっと花が開いたように明るく笑ってくれる。冬の終わりにクロッカスを見つけた時と同じような嬉しさを覚えるよ。」
そう言って、春を告げるべく咲き始めたクロッカスを髪に飾ってくれるのを楽しみに、少女はその冬を過ごしていた。青年は今、隣国に出向いている。
つい先日、父親から縁談がまとまったことを聞かされた。自慢できるほど健康ではなかったが、幸いなことに成長してからは縁談を望める程度には体も丈夫になっていた。当然、その相手が慕う青年である筈もなかったのだが、嫁ぐ相手の仔細を聞いて、自分の価値が決して見縊られていないことに安堵する良識、当時ならば極めて正常な良識を彼女は持ち合わせていたし、恋心を心の片隅に残す、娘らしさもまた彼女は持っていた。
隣国の内情が穏やかではなくなったのは同じ頃であった。冬になる前に帰国するはずだったのだが、騒動が原因で出立が遅れていた。恐らく、春になれば帰ってくるだろう、皆、安易な推測をしてはそう思っていた。それは少女も同じで、春になれば彼に会える、と思っていた。ただし、もしかするとクロッカスが咲くまでには間に合わないかもしれない、とも。ならば、私が彼に花をあげよう。彼が春に間に合わないのなら、次の春、一番に咲いた黄色い花を、せめてそれだけでも、彼に送ろう。春に最初に咲く花を、彼に捧げることが出来る最後の春なのだから。
毎日のように庭の様子を眺めては、少女は春を待っていた。昼陽が作る陰の長さが短くなり、雨が降り、土がぬかるみ始めて、渡り鳥の声が冬の終わりが告げる。
今にも花が咲こうという日のこと。扉が開き、入ってきたのはずっと慕っていた愛しい人物。ぱっと少女は笑みを咲かせると、思わず駆け寄った。
次の瞬間、陽光が輝きを増して、草木も、虫も、鳥も、花も。何もかもが春の一番美しい季節を迎える。草木は青々とした葉で光を浴び、虫達が彼女の喜びを表すように飛び回った。鳥は二人を祝福するように愛らしく囀る。そして、庭中の花という花が一斉に咲き誇り、庭が楽園になった。
うっとりと夢見心地のまま少女の瞳が開かれる。夢の中の楽園に入りこんでいた少女が目覚めてぼんやりと見えたのは、柔らかなアッシュブロンドと、灰色の瞳。未だ夢を見ているかもしれない少女には、一体誰の姿が見えたのやら。想い人にだけ見せていたのであろう愛らしいはにかんだ笑顔を見せる。闇色の男は微かに眦を下げただけの微笑みを浮かべて応えた。
隣国では革命が起こり、貴族が賤民の手で処刑されるというとんでもない凶行が蔓延っていた。三番目の身分にすらならないような賤民たちは、目の前の人間が自国の貴族なのかどうかすらも区別できず、少女の想い人は抵抗した際に賤しい人間の手にかけられたという。
少女は春を待っていた。
明日にも開こうとする花の蕾を眺めて、少女は春を待っていた。その時、扉が開き、入ってきた使用人が告げたのは彼の人の悲報。
塔の一番高い所で、隣国の方角を見つめた少女は、春が来ないことを切望してそこから身を投げたのだ。
笑みを浮かべた男は、優しげに少女を誘う。
「さあ、もう一度おやすみ。ようやくゆっくりと眠れるんだ。眠るまで側にいるから。」
「おやすみのキスは?」
少女ははにかむように微笑み、唇は誘うようにさらに赤みを増した。頬に落ちた横髪を耳にかけてやりながら、男は少女を引き寄せた。ゆっくりと少女の目が伏せられる。
そっと触れるような口づけ。
次の瞬間、窓の外の陽光が輝きを増した。草木は青々とした葉を広げ、虫達は楽しげに飛び回る。鳥は喜びに囀りを昂ぶらせ、そして、庭中の花という花が一斉に咲き誇り、そして花の代わりに葉がさらに広がり、高い日差しは窓から差し込むことすらない。庭は若草が萌える季節を通り過ぎ、輝きの盛りを過ぎた季節を迎える。
男の唇が離れれば少女の動きの全てが止まった。
「安らかな夢を。」
窓からは斜陽が差し込み、少女の頬を赤く染める。
ふっと陽光が途切れ、翳がするりと膜を張ってはきらめきを消し去った。
落ち葉を巻き上げながら、森に漂っていた秋を急き立てるような風が吹き荒ぶ。風は黒い森の木々の合間を駆け抜け、真っ直ぐに城を目指す。洪水のような枯れた風は春の城を守っていた茨にぶつかった。途端、茨の垣根は俄かに生気を失い、枯れ果てた。風を堰き止めるかに見えた石壁は脆くも砂へと変わり崩れ去って、僅かに一部が残るだけ。天井は崩れ、乾き切った蔦が垂れ落ちる。絨毯は土埃に汚れその上に吹き込んだ枯れ葉が積もり、カーテンの代わりに蜘蛛の巣が窓を覆う。シャンデリアが輝いていた広間も、肖像画が飾られた階段も、輝かしい全てが風に吹かれて朽ちていく。煌びやかなドレスは風の中で色を失い襤褸になり果てる。女の陶器の様な肌と熟れた果実の様な唇は艶を失い、やがて干からび、そして茶色の皮と骨だけが残る。
男に身を預け眠った少女は、襤褸に包まれた骸になった。男だけが時間を忘れたかのようにその空間に居た。
いや、これが本来の景色だった。
日が暮れ、森も城も宵闇に呑み込まれる。光り輝く全てが崩れ去った形れの骸てを闇と冬が蹂躙した。
春を待ち望む姫君を匿った眠らない城は、ようやく過ぎ去った時を取り戻し、ようやく眠りに就いたのだ。
もう一度、風が吹くと少女だった骸すらもまた、幻だったかのように闇の中へと消えて行ったのだった。
ガアーッ
烏が一羽、飛び立つ羽音もけたたましく去っていく。それを見送った男がゆっくりと立ち上がり帽子を被れば、唯一闇の中で際立っていたあのアッシュブロンドが隠され、その姿は闇に溶けた。男が消えた闇の後には、冬の訪れを告げる白い花がゆっくりと空から落ちてきた。
その晩もまた極彩色の男は常と同じくに四つ辻に佇んでいた。しかしやはり行き交う人々がその姿に目を向けることはない。
ぞくり、と全身で冷気を感じた男は、視線の先の通りの、灯りと明りが作り上げた闇を見つめた。人通りは決して少なくないこの通りなのだが、何故かふっと人並みが途切れた。通りの奥の赤い光と賑わう声が遠ざかり、夜霧の中に沈む。
闇が動いた。
カツン、カツン、と石畳の上を足音がこちらに近づいてくる。もう一度、冷気が漂い、宵闇の王が現れた。
身を包む闇を支配されている心持ながら、そんなことは億尾にも出さずに極彩色の男は帽子を脱いで、例によって仰々しい挨拶をしてみせる。
「おや、良い夢を見ることが出来ましたか?」
闇色の男は、相変わらず冷え冷えとした視線を投げた。
「人が皆、お前が望むように弱い者ばかりではないぞ。」
実のところ、微かにその視線に怯えたことは億尾にも出さず、極彩色の男は嗤った。
「ええ。旦那のおっしゃる通りです。」
闇色の男は、言葉の一欠けらも信じられない、という表情をして鼻で笑うと、くるりと外套を翻し夜の闇に消えて行った。
再び四つ辻に喧騒が戻って来た。
闇をじっと見つめていた極彩色の男であったが、やがて、
「むしろ、夢に溺れまいと立ち向かう人間を見たい、心の底からそう思っているんですよ。」
ぽつりとそう呟いたのだった。