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    白と黒

 一人の男が道端に座り込み背中を建物の壁に預けていた。息は粗く、時折ひどく辛そうに咳き込んでいた。苦しげな呻き声を上げて、体を折り曲げる。若くはないかもしれないが、老人ではない、壮年の頃だ。よく見れば黒い軍服の腹の辺りが一際黒く染まっている。きっと、明るい日差しの下ならば赤黒くなって見えるのだろう。一呼吸、自分を落ち着かせるようにゆっくりと息を吸い、そしてまたゆっくりと吐き出す。その口元は皮肉気な笑みが浮かべられていた。

 まさか、こんな死に方をする破目になるとは。

 帽子を毟り取るように乱暴に地面に叩き付けると、乱れた髪を、闇に溶けるような漆黒の髪を掻き上げた。最後の晩餐代わりにと煙草を吸うべく、ジャケットに手を入れてふと手を止める。手にいつもと違う感覚を覚えて、そう言えば、とそれを取り出した。

 青い薔薇は今まで胸に入れられていたにも関わらず、元の形を保ち、瑞々しい。この薄暗い路地裏で、薔薇だけが静謐さを以て闇を照らしていた。

 しばらく男はそれを眺めていたが、腹の傷が痛んで今一度顔を苦痛に歪めた。

 どうせ、もう死掛けだ。薔薇が見せてくれると言う幸せな夢を見てみるのも良いかもしれない。

 左手を恐る恐る腹から離して薔薇を持つと、燐寸を探す。震える手で壁に擦りつけてようやく火が点いた。



 長い時間列車に揺られ続け、それでも窓の外はさして変わり映えしないように見えた。白とも灰色とも分からない雲が凹凸すらなく詰め込まれた空と、緑と黒が区別出来ない鬱蒼とした森。同じような景色を眺めながら、窓から密やかに忍び込む冷気に腕をさするのか、それとも頬に当たる日差しを遮ろうと手を翳すのか、それがこの密室では時計の針より正確な一日の刻み方であった。

 ところで、一体どれくらいの間、私はこの列車に揺られていたのだったか。

 二三度、私と同じ客室の相手が入れ替わって、同じ数だけ別れと出会いの挨拶をした。一時ひとときの友人に旅路の行く末を何度目か祈った頃、故郷の街にあった大きな時計塔を思い出した。来る日も来る日も、街の人々に朝と夜の訪れを告げる時計。時計塔は祖父の、そのまた祖父の代からあったのだとか。もしかすると、もっと昔からあったのかもしれない。人の一生を遥かに超える年月の間、変遷する街をささやかな疎外感と共に眺め続けていたのではないかと思う。自分だけが置き去りにされ、取り残されているような。


「失礼するよ。」

 突然、鮮やかな赤が目に飛び込んできた。

 赤毛の男だった。

 私よりも一回り程若い年頃だろうか、若く溌剌とした風体に、仕立ての良い服は流行りの物。鳶色の瞳は力と期待に満ちていた。無作法な口ぶりだが、快活な雰囲気と相まって不快ではなかった。

「どちらまで?」

「列車が止まるまでだ。そちらは?」

 私も同じだと自然と答えれば、彼は髪よりは幾分茶色がかった眉を顰め、窓枠に凭れるように外を眺める。左手をポケットに入れ、右腕を窓枠に当てて外を見る姿は、俳優が気取って窓の外を眺めるように様になっている立ち姿だった。

「この駅でようやく半分を過ぎた所だってのに、まだ乗るとはね。どこから乗ってきたか知らないが、眺め足りないとでも?」

 答える代わりに苦笑を返せば、そうだと思った、と人好きのする笑みを向けてきた。

「どうだい?」

 見せてきたのはチェスの一式。暇つぶしにはもってこいだ。私の表情で返事が分かったのだろう、また人好きの笑みを見せた。

 何度か勝負をして時には互いに居眠りをしながら、互いに勝ったり負けたりして。車窓の景色を見ないまま、白と黒だけを視界に入れていた。眺めたとしても、どうせまた、さして変化のない白と黒の風景しか映らないのだから。

 チェスにすら飽きたのか、突然、男は定石のまるで真逆な動かし方をし始める。どれもこれも私に全て駒を取らせようとするような。反ってどれを取れば良いか悩んでしまう。私の戸惑いを察したのだろう。

「こういうのもたまには面白いだろう?」

 呆れて俯き気味になっていた体を起こして背筋を伸ばした。途端、あの鮮やかな赤毛が目に入った。白と黒の世界に突然入り込んできた異物のような赤。


 まず、ポーンをごっそりと奪った。途中、他の駒を後ろに匿うように前へと出ていたビショップを奪う。それから、右往左往していたナイト。そして役に立たないルーク。


 眼前のチェス盤と過去が交わり、目眩を覚えた。白黒の模様がちかちかと視界に広がって行くようだった。既視感に耐えきれず顔を上げて車窓を眺める。視線を正面の男に戻せば、再び異物がその色彩を主張する。男は感情のない笑みを浮かべて車窓の外を眺めて、いやどこか遠くへ思いを馳せていた。


「知っているか? この列車の終着駅。終点の駅の向こうに線路がまだ伸びているんだ。折り返しの為の線路なんだが、実は森の中に入ったところで、分かれ道があってね。」

 気がつけばそんなことを口走っていた。

 分かれ道の先には、道路も通っていない寂しい土地に、誰も外から訪れない寂しい駅がある。街と言うには寂しすぎる街。駅だけがその街への唯一の入口なのだが、出迎えの人も居なければ、乗り込む人もいない。街には工場や炭坑があるのだが、通りには人気がなく機械が動く音や鎚のこだまが響くだけだ。寂しい街は二重、三重に鉄条網で囲まれている。

 外から隔離するために。あるいは、内を隔絶するために。

 チェス盤に視線を落とせば、様々な駒で守られた黒のキング。もしかすると、守られているのではなく、囚われているのかもしれないとも思った。

「ああ、知っているさ。」

 そう言うと彼はまた駒を動かす。

 声が若者特有のハリと朗らかさを持っているにも関わらず、チェス盤を眺める目つきはどこか厭世的な老人の様な色を湛えており、この未来に希望を持つに相応しい闊達そうな青年が、その実、世界を見捨ててしまう冷酷さを持っているのではないかと思われた。


 キングの前で走り回っていたクイーンは串刺し(スキュア)にして動かせなくしてから取った。


 愛おしげにクイーンを眺めながら彼は呟く。

「女ってやつは、常ならば、か弱い振りをして男に守られているくせに、いざとなればその身を投げ打って愛する者を庇うから恐ろしいな。」

 彼は私が取った白のクイーンに手を差しのばして受け取ると、しばし掌で転がしながら呟く。ころころと弄ばれていたクイーンは勢いがついた拍子に掌から床に転がり落ちた。列車がカーブを曲がりクイーンは私の足下に戻って来た。

 

 国が強くなればなるほど、発展すればするほど、必ずその速さに追いつけない人々が生まれる。最初は辺境に点在する村だった。国営工場を立てるために村を潰す。金を渡せば、大概は大人しく新しい土地に移っていった。あるいは、工場での働き手となった。だが、時折、がんとして動かない人間が数人いるものだった。そういう人間を載せて列車は終着駅を目指す。しかし、やがて頭の良い人間が現れる。金を渡して列車に載せる人間を減らすよりは、金など渡すことなく全員を列車に載せてしまえば良い、と。

 あれは十年ほど前だったか。私は軍に入って数年で、初めてこの任務に回されたのだ。上官に言われたことをそのままに実行した。まず、恐怖を与えるべく、対話しようとやってきた人間達を見せしめにごっそり撃った。そこに住む人間達を連れだそうとした時に、皆が教会に逃げ込んだ。だからそこの神父を撃った。現地の警官が軍に付くのか、人々に付くのか右往左往していたのでそいつも撃った。集落を囲む木の杭を打ち込んだだけの城壁など何の役にも立たない。

 車窓の景色は相変わらず灰色の空であったが徐々に木が低くなり、窓からしみ込んできた冷気も心なしか温度が低くなった。終点の駅が近づいているのだ。

「俺は小さな町の生まれだったんだ。小さな教会があって、町中顔見知りみたいな本当に小さな町で。近くの村とか、同じくらいの町とだけ細々と商売をして、それでも暮らしが成り立って行くような小さな町でさ。」

 そういう村や町を国益の為と言って軍靴で踏みつけたのだ。

「あれは十年くらい前だったかな。ある日、軍人たちがやって来てね。死神が来たみたいだったよ。次の日に、俺たちが住んでた町はすっかり消えていた。」

 死神の鎌よりも鋭い切っ先が私の喉元に突き付けられた。

「その先は、あんたの方がよく知っているんじゃないか?」

 あの頃の記憶は、今でも私の精神を蝕んでいる。何故か思い出される光景は全て色彩が失われて白と黒の写真のようだった。なのに、そこでしぶきをあげる飛沫だけは、どんな色よりも鮮やかに甦るのだ。

「終着駅まで行って、どうしようってんだ? まさか罪の意識に苛まれて自害でも?」

 煙管を銜え、燐寸をこすりながら上目遣いになって鳶色の瞳をこちらに向けてきた。火薬の匂いだ、と思うと同時に赤い物が脳裏にべしゃと張り付き思わず目を閉じた。私はその質問には答えずに黒のナイトを動かすと、椅子の肘置きに頬杖をついて微笑む。誤摩化しとか追求逃れとか、そんなものではなかった。なぜか、と考えながら足を組み替える。答えられなかったのだ。もしかしたら、自害などするわけがない、と私自身に笑って言い聞かせようとしていたのかもしれない。顔を上げた男はしばらく私を見つめていたが、答える気配がないと分かったのだろう、視線を外して思案気に煙を吸い込んでいた。私は手元で白のポーンを弄びながら、納まりの悪い足をまた組み替える。

 信じられないかもしれないが、と前置きをした男は椅子に背中を預け、ふうっと煙を上に向かって吐き出した。だらしなく脚を伸ばし、両手をズボンのポケットに入れて煙の行き先と天井の模様を眺めながら告げた。

「俺は、あんた達に感謝してるんだよ。」

 日常が壊されて憤りを覚える人間は、幸せなのだと彼は言う。それまで幸せな人間の足元で地べたを這って生きていた人間は、いつも通りの日々が壊されてようやく閉塞感を打ち破れるのだ。

 森の木々が徐々にまばらになり、人家がぽつりぽつりと見えて来た。人家には明かりが灯り、煙も昇る。人々は夕餉の支度をしているのだろう。そして森が終わり、人家の明かりが消え始めた頃、汽笛が鳴らされた。ようやく終点の駅に着くのだ。


 自分の仲間だった駒がただ失われて行くのを眺めていたキングは、町の時計塔と同じ心持ちだったのだろうか。

 薄暗く狭い通路を他の乗客達が旅の終わりを喜びながら進んで行く。乗り込んだ時には、旅の始まりに心をときめかせた通路の装飾、そんな物はもはや彼らの目には映っていないのだろう。それもまた忘れられて残される側の常なのだ。狭い通路は列車の外へと広がる世界につながるただの通り道なのだから。

 あるいは、やはり大した変化がないはずの車窓の外を見ては、感慨深く思っているのかもしれない。再会を待ちわびた出迎えの人間を探しているのかもしれない。

「出会いの記念に。」

 男の駒だった白のキングを一つ、私にくれた。

 終点の駅について幾ばくも経っていない筈だが、いつの間にか窓の外が白んでいるのが見えた。

 やがて、通路に人の気配がなくなった頃、私と男は同時に立ち上がった。人が二人、鞄も二つ。互いに身軽なものだ。

「あんたに会えてよかったよ、俺を救ってくれた死神に。」

 そういって彼は手を差し出して来た。私も同感だったので何の疑いもなく手を差し出した。しっかりと握手を交わした。

 その瞬間は同時だった。

 夜が明けて、窓から光が差した。そして、胸に熱い痛みと息苦しさを覚える。

 すっかり暗闇に慣れていた目は地平線から漏れる陽の光に、男の赤を捉えた。それを眺めている間にも空は白から薄い橙色に変化して行く。美しい朝焼けを見ようかと誘われるように窓の外へ顔を向けた。体が震えたのは寒さのせいだろうか、それとも美しい景色に心を打たれてしまったせいだろうか。それとも赤い男の横顔が死神に見えたからだろうか。

 今日の私はどこかおかしいのだ。

 空が美しいとか、人の表情が恐ろしいとか。そんな感情に振り回されることのなく突き進んできたのに。

「あんたには感謝してる。だけど、憎んでもいるんだ。俺の前に飛び出した姉を殺したのはあんただからな。」

 そうだったのか。

 これで私は赦されるのだろうか。あの白と黒の光景に苦しまずに済むのだろうか。

「良い旅を。」

 彼の足音がゆっくりと遠ざかる。

 その音を聞きながら私は迷子の幼子のように大声でみっともなく泣きたくなった。

 また、置いて行かれるのか、と。

 自分だけが取り残され周りだけが去っていく。

 朝日が差し込んで、光の筋の先を眺めた。

 

 黒い駒ばかりが残るチェス盤に一つだけ白いポーンが残されていた。

 ああ、彼も「そう」だったのか。彼も残されてしまった側だったのか。

 途端、言い知れぬ幸福感が胸に湧きあがった。



 随分と派手な装いをした男が、街角に佇んでいた。赤、白、緑、黄、橙に紫。唯一男が身に着けていない色は、その左手の花束に。

 青い薔薇か。

 派手な装いの男が言うには、この薔薇を燃やすと絶対に不可能だが至極幸せな夢を見られると言う。

 いくらかと尋ねれば妙な事を言うのだ。

「貴殿がいますぐ渡せるものの中で一番、困らないものを一つ。ただし、金じゃないものを。金で価値を決められるような代物ではないのですから。」

 悩むことなどなかった。軍の徽章を外した。

 男は目を丸くして受け取りながら、ぶつぶつと呟く。

「今日は一体何なんだ? 客が二人、どちらも生業を渡すなんて。」

 もう一人、酔狂な客がいたのだろう。

 

 絶対に不可能な幸せな夢。

 全くだ。

 軍服を隙なく着こなしていた体躯の良い男は、苦笑いを浮かべて壁に背中を預けた。

 せっかく、この上なく幸せな夢の中で今生を終えたと思えば、また雑踏の気配を向こうに、忘れ去られたような路地に居る。

 あの町があった場所へと己の勝手な都合で懺悔に行くつもりだった。あの町だけではない。他の村や町もだ。ただの陶酔だと言われても仕方がない。それでも、願わくばあの少年を、夢に出てきた赤毛の青年を探すつもりだったというのに、くだらない諍いで腹を刺された。現実では、赤い残像を追うことは愚か、懺悔に訪れることすらもう出来ない。

 腹の痛みに耐えかねて伸ばしていた右足を折り曲げた時。太腿に何かが当たった。ポケットに何か入れていただろうか。腹を押さえて血まみれになった手を何故か必死に拭いてから中を探る。感覚が曖昧になってしまった右手は、思ったようには動いてくれず、ポケットの中に入れるのですら一苦労だった。常なら手を入れた時に何か分かる筈の物体は、落とさないようにとゆっくり出した右手を、これまたゆっくりと開くまで皆目見当もつかなかった。

 思わず口元を歪める。一体いつ、こんな物を手にしたのやら。

 出てきたのは白のキングだった。

 建物の向こう側の空が微かに白んでいた。

 ああ、夜明けだ。

 薔薇が見せた夢の中での夜明けを思い出し、救われた心地になった男は白のキングを握りしめてそっと目を閉じた。


 次の日の朝、二人の男が腹を刺されて死んでいるのが見つかった。

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