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第二夜 幸福な永遠

 あなた達の装いは、髪を結い、金の飾りをつけ、きらびやかな装いなどの外面の飾りではならぬ。隠れた内なる柔和でしとやかな精神という朽ちることの無い飾りを身につけるべきである。これこそ神のみまえに、極めて尊いものである。

 「新約聖書 ペテロの第一の手紙 第三章 三~四節」



 *

 


「貴方は恋をしたことがあって?」

 蝋燭に火を灯した女は、微かな光源を眺めて呟いた。若いという年頃は過ぎているが、まだまだ美しさを誇ることの出来る年頃だろう。どうやら狭くもなければ広くもない暗闇には、もう一人、客人がいるようだ。何の感慨も持たない答えが返る。男の声であった。

「さあ、どうだろうね。」

 尋ねておきながら女は、端から返答を期待していなかったようだ。

「あれは恐ろしいものです。」

 女は燭台を持つと、ゆるりと立ち上がり、光の届かない空間に向かって動く。ぼんやりと照らし出されたのは、壁に掛けられた十字架だった。

「少女の頃、憧れるうちに想像したものよりも、よほど快いものですが、少女の頃のそれよりもひどく美しくなって見える。」

 女が歩みを進めた為に、暗闇の空間もまた動いたが、やはり男の姿はまだ闇の中だった。

「それに、重ねるにつれて、年端の行かぬ少女ですら分別がつくような事が分からなくなるものです。」

 女が薄く笑い、吐息で蝋燭の火が揺れる。

「それがどうしようもなく恐ろしい。」



 大凡、少女と呼ばれる頃から女達は美しいものに魅かれてしまうのです。ドレスや、帽子、手袋、もちろん宝石が散りばめられた装飾品、果ては男まで。年を取っても、時代が移ろっても変わることのない本質でして、ええ、もちろん、ある年頃から目に見える美しさだけが全てではないと知るのですが。あるいは、重きを置く事柄が変わるのでしょう。ですが、私と言えば、二十を幾年も越えるまで、愚かなにも少女たちと同じように美しさを求めていたのです。

 私の生まれは街の中では裕福な家でした。それこそ、美しい品々を求められる程度には。兄も姉もたくさんおりましたが、何の因果か父と母の間には女ばかりが三人生まれた後、今度は男ばかりが四人生まれたのです。そして、四番目の男が産まれて六年も経った頃に産まれたのが私です。その頃には一番上の姉は十四になっておりました。ですので、私には母が四人もいたようなものです。兄達には何度か泣かされた記憶はありますが、兄も姉も皆、私をとても可愛がってくれました。もちろん、それは父や母、使用人達も同じでして、後々に思い返せばなんとも運の悪い事に、私は愛を受ける事だけを知って育ったのです。

 さて、十六になった年に嫁いだ先は、二つ隣の街にある我が家と同じような家でした。主人は五つ年上で、優しい人ではありましたが、当時の幼くも愚かしい私から見ては、美しくない人でした。もしかすると、そんな心の内が知られていたのかもしれませんね。姑とは険悪とまでは申しませんが、折り合いが悪かったのです。

 愚かながらも主人と長く居れば、私とて少しは賢くなることが出来たのでしょうが、嫁いで二年の頃、主人は病で亡くなってしまったのです。そうなると、いよいよ姑との中は険悪になり、挙句、身の回りの物だけを持たされて家を追い出されました。

 勿論、すぐに私は実家に戻ったのですが、その頃実家は商売で失敗をして、傾きかけており、兄達は笑顔で迎えてくれましたが内心頭を抱えていたようです。腐っても商人の娘であった私は、その状況がいかに堪え時かということが一瞬にして分かってしまったのです。私のようなお荷物が紛れることがいかに重荷かと。ですので、しばらく実家にはおりましたが、すぐに家を出る算段を始めたのです。

 まず初めに思いついた選択肢は、高貴な方の元に女中として使えることでした。しかし、父の頃ならいざ知らず、今はそのような伝手が有りませんでした。その上、例え伝手があったとしても、常に可愛がられ甘やかされて育てられた私にそのような職が出来るとは思えません。

 そんな折に耳にしたのが、兄の一人が妾にまとまった金を渡して、手を切ったと言う話です。私は、二三度その女性を目にしたことがあります。同性の私から見ても思わず見惚れるような美しい人です。兄の奥様は、非常に聡明でいて愛嬌のある方でしたが、容姿は十人並みの域を出ない方でした。

 そうだ、あの女性はいつも美しく着飾っていた。あの女性よりも私は若く美しいのだから、もっと良いお家に妾として入れば良いのだと。浅はかな事に、結局のところ私は美しくすることが己の矜持を保つための最良の手段であると疑っておらず、そればかりを考えておりました。


 私は自分を売りました。

 元々の器量が幸いしたのか、高い値をつけられ、私が自分を売るにも満足の出来る額でした。と、いうのも、お相手する男性も兄すら及ばないような財を持った方々ばかりだったのです。それがより一層、私に驕りをもたらす結果になったとも言えるのですが。

 その中で知り合ったのが、今の旦那様です。

 旦那様は、はっとするようなそれはそれは美しい方でした。神話を描いた絵画に出てくるアダムか、ダビデか、大天使か。いずれにしろ、人が想像できる一番美しい形をした男性だと思ったのです。

 神々しいほどに輝く金色の髪に深緑よりも鮮やかな緑色の瞳。逞しい体付きに、健康な色の肌。それでいて、目立ち鼻は優しげで、しかし瞳は底知れぬ強い輝きを持っておりました。何よりも、人を惹き付けるという点では誰も及ばない方です。

 旦那様の訪れを毎日のように待ち、訪れがある時には誰よりも美しく装う為にいつもの二倍の時間を支度にかけました。日が早く暮れることと朝が遅くくることを願いました。旦那様から笑みを向けてもらうために、美しいと認められる為の愚かしいほどの努力を私は惜しみませんでした。

 美しさだけが魅力ではないとあの時に分かっていれば、何故にあれほど多くの人が旦那様に惹き付けられるのかもう少し早くに気が付いたでしょうに。

 天使と見紛う美しさの殻には、酷薄さ、傲慢さ、冷徹さ、貪欲さといった悪魔が持てる全てが入っており、それらが旦那様をより一層の魅力の持ち主にしていたのです。だってそうでしょう? 悪魔というのは天使よりも甘美な言葉で人を誘惑するのですから。もしかすると、天使と悪魔が同居していたからこそ、人ならざる魅力が出来ていたのかもしれません。


 さて、近頃よく聞く、オーストラリアで財を築いて本国にやって来た人々、旦那様もその一人でした。幾人かそういう方に会ったことはありますが、皆、言葉も仕草も服装も洗練されているとはとても言い難い方々ばかりで、お相手していても時折眉を顰めたくなったことが何度かあります。ええ、もちろん、そのようなこと顔には出しませんが。しかし、旦那様は粗野とか野暮とか、風貌を蔑む言葉がどれ一つとして相応しくない方です。血色の好い唇から零れる言葉はどれも上流階級の方々が使う言葉と相違なく、全ての仕草は高貴で洗練されていて優雅。もちろん、仕立ての良い服はどれも流行りの物で、歩いている姿を遠目に見ただけでも、人々の目を引くのは確かです。オーストラリア帰り、そんな言葉は何の意味もない言葉でした。

 ですから、旦那様の元に妾とは言え、身受けが決まった時は天使が私を認めて下さったのだと本気で思い、神に感謝の祈りを捧げたほどです。

 うふふ、すっかり私はのぼせてしまっていたのです。

 今なら、ただの色恋沙汰、ただの熱病、と言い切れますもの。

 私の身受けが決まった時、オーストラリア帰りの男は止せとか、ああいう男は皆ロクでもないとか、やっかみ半分に皆私を止めました。

 当然、美しさを信奉し、自身もそうだと信じ切っている愚かな女は、それを妬み、ひがみだと取り合うことはありませんでした。

 ですが、どうしても言葉を忘れられない人が一人いました。彼女はもう少し田舎の出で、食いぶちを探してこちらに来たそうです。正直なところ、田舎娘というのが相応しい女でした。愛嬌があると言うのは使い勝手の良い表現でしょう。まあ、いささか難はあれど愛らしい女でした。彼女はこう私に告げたのです。

「ねえ、止めろとは言わないけど、あの方は私を売り飛ばした男と似た臭いがするの。性質などどんなに冷酷でも美しいければ構わないというのなら私はもう何も言わないけれど、もう少しだけ何をなさっている方なのか知ってからでも遅くはないと思うのよ。それに、貴女にはもっと相応しい人がいるかもしれないじゃない。」

 彼女は間違っていました。旦那様ほど私に相応しい方が他にいるはずがありません。


 旦那様がやっていたことは、人身売買でした。

 それを知った時ですら私は眉を顰めることはなかったのです。もちろん、善いことではありませんが、身を売ってでも明日の食事を手にしたい、手にさせたいという人はいくらでもいます。言葉を変えれば、明日の食事を手に出来ない者を旦那様は救っているのだと、心の底から思っていた程でした。

 旦那様は私の元を訪れるごとに、美しい宝飾品や、手袋や、ドレスをくださりました。そして必ずこうもおっしゃるのです。

 貴女は美しいね。

 私はそれだけで十分満足でした。だって、少女の頃憧れていた美しい物全てを手に入れていたのですから。誰もが見惚れる美しい旦那様、美しい己を飾る美しい品々。まだ愚かで浅はかな私は、そうやって与えられた美しさに浸っていたのです。

 そんな折、旦那様は少年と少女を一人ずつ連れてきました。

 貴女には出来れば子どもを産んで欲しくない。子どもを産めば女は美しくなくなってしまう。貴女には美しいままでいて欲しい。だが、子どもがいないのでは私がいない時に寂しい思いをさせてしまう。だから、この子たちを我が子だと思い育ててくれないか。きっと私達の子どもだから、他のどの子供よりも美しく育つはずだ。

 おかしいでしょう?

 旦那様の詭弁をそのまま信じきったのですから。

 子ども達は初め会った時は痩せていてみすぼらしく、町をうろつく浮浪児と大差ありませんでした。と、言うよりは、実際は浮浪児を連れてきたようです。この時の私はそんなことにも気が付かずにおりました。

 旦那様はこうもおっしゃいました。

 この子達は、洗練された優雅な振舞いも身につけなければならない、と。

 一つか二つ年長の男の子の名前はアルバートで、女の子はベアトリスと言いました。二人は中々笑わない子ども達でしたが、私の言うことはよく聞く子ども達ですぐに上流の振舞いを身につけました。

 半年もしないうちに、旦那様はまた別の男の子を連れてきました。今度はクリスティアンと言います。次に連れてきた男の子はドミニクで、またしばらくしてから連れてきた女の子はエレオノールでした。

 ある日、旦那様はクリスティアンを連れて行きました。クリスティアンは茶色い髪に緑色の瞳をした子どもでしたが、旦那様が戻ってきた時にクリスティアンはおらず、代わりに同じ年ごろの茶色い髪で緑色の瞳をした男の子を連れておりました。そしてこうおっしゃるのです。

 この子はクリスティアンだ、と。

 ようやく私も何かあると気が付きました。だって、子ども達の名前はアルファベットの順番で、見た目が同じならば同じ名前なんですもの。その後、何度か同じような事があって、二人のベアトリスと一人のドミニクを見送りました。

 どうやら調べられても、同じような見た目の特徴があって名前が同じなら、他人の目には同じ子供だと認識される筈だから、だそうです。確かに、子どもは成長が早いので余程異なる顔つきでなければ、そう見えるでしょうね。

 今も屋敷に戻ればエレオノールと、ハロルドと、イザベルがいます。他の子ども達は旦那様がどこかへ連れて行きました。

 どこかへ、それがいずこなのか私は知りませんが、連れて行かれた子ども達のほとんどは墓に、それも本人とは違う名が刻まれた墓に入っているでしょう。

 彼らは身代わりなのですよ。

 高貴な方々の子どもを訳あって殺す必要があったり、逆に殺したことに気が付かれないように、あるいは病死を隠したり。理由はそれぞれですが、とにかく同じ年頃の身代わりとして、街に居る浮浪児達や貧しい家の子どもの中から見目の良い子どもを連れて来て、生まれの賤しい子どもだと見抜かれない程度の所作を身に着けさせて売っているのです。

 それを教えてくれたのはジョージでした。ジョージは随分と手を焼かされた子どもで、頭は良いのに私が教えたことをわざと反対にやって見せるのです。それでも根気よく、私達の子として相応しい子にするべく、私は手間を惜しみませんでした。愛情はなかったと思っているのですが、彼にとっては愛情に等しかったのでしょう。

 お母様は、どうしてあの男の言うことを聞くの?

 私をお母様と呼ぶのに、旦那様をあの男というジョージをたしなめましたが、一向に直す気配がありません。

 そして教えられたのです。ここに来るまでの間、どれだけ酷い目にあったのかということを。考えてみればどの子どもも鞭打たれた痕がいくつもありました。それを、酷い目に遭っていたところを助けたのだ、という旦那様の言葉を鵜呑みにしていたのです。今までの子が皆すぐに言うことを聞いたのは、私の所に来るまでの間に、皆、反抗しないように『躾られて』いたからでした。

 一度、綻びが生じた後はすぐに全てを悟りました。不思議に思ったことをほんの少しでも考えてみれば簡単に分かることだったのです。それほどまでに、私は旦那様に与えられる物だけを見て、それが真実だと満足していたのです。飾りも、ドレスも、子どもも。

 ええ、ですから私ほど旦那様に相応しい女はいないのですよ。

 美しさだけを欲して、美しさだけを保つことが出来れば満足する女。美しい物さえ与えていれば、幸せそうにしている女。美しい妾を得て満足させるだけの財がある、妾すら蔑ろにしていないと思わせたい旦那様にこれほど相応しい女が他にいるでしょうか。

 


 自らへの嘲笑を口元に湛えたまま女は俯く。

「私が私自身を一番愚かしいと思うのは……」

 一度、口元から笑みを消した女は胸に下げた十字架を握って額に当てた。

「旦那様が冷酷な人間だと知ってもなお、美しさ故に恋をしてしまっているからなのです。」

 橙色の小さな灯りに照らされた女の顔は、恋を覚えた少女と同じ表情であった。女の年齢とは釣り合わないその表情は、脆さを与える。

「こんな愚かな女にも、その薔薇は幸せな夢を見せてくれるのでしょうか? 」

 真っ暗な闇に向かって女は縋るように問うた。

「ああ、もちろんさ。」

 闇が蠢き、青い薔薇が黒い宙に漂う。薔薇に照らされる様に、男の輪郭が現れて微かに色を纏った。明るい所で見るよりはくすんでいるが、極彩色を纏った男はにっと嗤う。白い三日月が、鋭い鎌のように暗闇に切れ目を入れた。

「では、薔薇を頂く代わりに、これを。私には必要の無いものですから。」

 女は流行りの装飾が施された手鏡を差し出す。珍しい物ではないが安く手に入る物でもない。

「美しく化粧が出来たのか、美しく髪を結うことが出来たのか、そんなことばかりを求める必要などないのですから。」

 

 女は屋敷に戻ると、子ども達の部屋を訪れた。眠い目をこすって女を待っていた子ども達に向かって笑みを浮かべると、女中に茶の用意を言いつける。用意が出来るまでの間に子ども達を寝かしつけると、穏やかな眠りについた寝顔を眺め、その額にそっとキスをした。

 茶を入れると温度を確かめるようにそっと口に含む。熱すぎてはいけない。一度に飲み干さなければならない。ミルクを入れようとして躊躇い、代わりに砂糖を入れてかき混ぜる。しばらくして、程良い温度になったのを確かめると、もう一度、紅茶をかき混ぜた。

 蝋燭の火に薔薇を近づける。ぽうっと、薔薇に火が灯った。

 その白くぼんやりと光る花に見惚れていた女は、はっとしたように蝋燭の火を消す。花に燃え移った火が消えないようにそっと盆に寝かせると、ティーカップを握って煙が出るのを待った。

 紅茶を一度に飲み干すと、紫色の煙が満ちる部屋の中で、テーブルに伏せるように女は目を閉じた。



「お母様、お話を聞かせてください。」

 まだ幼さが残る仕草でドミニクが手を引く。

「私も、聞かせてほしいのお母様。」

エレオノールが隣にやってきて目を輝かせた。

「ええ、良いわ。皆、きちんと椅子に座ったらね。」

 二人は顔を見合わせて笑うと、椅子を並べて同じように姿勢を正して座る。いつの間にか小さなイザベルを抱いた一人目のベアトリスも近くのソファに腰をおろしていた。

「むかし、むかし……。」

 何度も聞いたことがある話だろうに、子ども達は皆、目を輝かせて私が朗読するのを聞いていた。

 気が付くと子どもたちが皆集まっていた。名前も、見た目も同じような子ども達、皆私の愛おしい子ども達だ。間違える筈がない。

 少し年長のアルバートと一度見送ったクリスティアン、二人目と三人目のベアトリスが並んで立っている。二人目のクリスティアンは二人のドミニクを座らせながら朗読に耳を傾けていた。フローレンスとハロルドの姉弟は手をつないで座っていた。

 アルバート、来た時からベアトリスを守ろうとしていて、食事だってなんだって全てベアトリスを先にした優しいアルバート。もう一度、あなたを優しく抱きしめましょう。

 ベアトリスは、私の元を離れる前の晩、初めて笑ってくれた。もっと笑顔を見られたら良かったのにとずっと思っていた。こうして会えたのだから、もっとよく笑顔を見せて頂戴。

 クリスティアンは静かで、いつも少し離れた所から私を見ていたわね。実は寂しかったのよね。まだ馴れていなかったから気が付けなかったわ、ごめんなさい。もっと近くにいらっしゃいな。

 ドミニクは来た頃は私を毎日睨んでばかりだった。熱を上げた時に看病してから、恥ずかしげにお母様と呼んでくれた日のことは忘れないわ。また、お母様と呼んでくれるのね、嬉しいわ。

 エレオノール、寂しがり屋のエレオノール。一人じゃ眠れなくて、眠りに落ちるまで私の手を離さなかったわね。大丈夫、寂しくなどないわ。これからは皆の隣で眠るのはきっと貴女になるのだから。

 二人目のクリスティアン。まるで一人目のクリスティアンとそっくりのクリスティアン。でも少し違ったわね。あなたは一人でいることが嫌いではなかったようだから。どうかしら? こうして賑やかなのも嫌いではないでしょう?

 次にやって来たベアトリスは、最初のベアトリスとは違っていつも楽しそうに笑っていた。でも、いつも一人でこっそり泣いていた。泣き顔を見られたくないのなら、私に抱きついて泣きなさいと言ったら、半時も抱きついて泣きじゃくったわね。どれだけ泣くのを我慢していたことか。

 フローレンスは大人しい子だった。ジョージに髪を引っ張られても我慢して、ドミニクとクリスティアンにからかわれても我慢して。実は、からかわれた晩に寝ている彼らにいたずらしていたのを知っているのよ。

 三人目のベアトリス。子ども達の中では気丈に、大人達の間では愛らしく。使用人達には尊大ながらも穏やかに。貴女の相応しすぎる態度が実は心配だったのよ。ほらほら、恥ずかしがらずに、エレオノールやフローレンスとお話してごらんなさいな。

 ドミニク。悪戯好きでいつもフローレンスに悪戯をしていたわね。一つ良い事を教えてあげましょう。悪戯をするのではなくお花をあげた方が、もっと楽しく遊べると思うのよ。

 ハロルド。お姉さん思いのハロルド。大丈夫よ、そんな怖い顔しなくても、フローレンスはあなたのことが一番大好きなのだから。ああ、でも、皆の悪戯が過ぎないようにしっかり見張っていてね。

 イザベル。ちっちゃなイザベル。貴女の愛らしさに何度頬を緩めたでしょう。皆、貴女を愛しく思っているわ。どうか、私のように与えられることには慣れないで欲しいと思うの。

 あら? 一人、居ないのでないかしら? ああ、そんなところに居たの。こちらにいらっしゃい。ジョージ。

 私を救ってくれたジョージ。あなたが居なくなった後、ずっと心配でした。あなたは聡いから。こうしてまた戻ってきてくれたのね。大丈夫、ここではずっとそばに居るわ。ほら、肩の力を抜いて。もう大丈夫よ。


 子ども達の顔を一人一人見渡せば自然と心が満ち足りてくる。

 愛を与えるとはどれほど尊い事か。与えられた愛、いや与えられた美しさで幸せを覚えていたが、何と軽薄な幸せだったことか。

 旦那様に向けていた恋や思慕ではなく、また憧れでもなく。

 子ども達は私を母と慕って愛を向けてくれる。

 これは、今までの何よりも幸福なことではないか。

 愛しい子ども達に囲まれて、これ以上の幸福があるだろうか。

 


 東の空が白む頃、音もなく部屋の扉が開いて、あの極彩色の男がこれまた音もなく部屋に入って来た。男はテーブルに伏せた女を軽々と抱えると、寝台にそっと寝かせる。

「ははあ、なるほど。こういう使い方は思いつかなかった。」

 敬意を表しているつもりなのだろうか。極彩色の男は帽子を脱ぐと、仰々しく胸に当てて女に礼をする。

 テーブルには硝子の小瓶。隣には底に茶渋が残ったティーカップ。中身をかき混ぜたのだろう銀のスプーンは先だけが黒ずんでいた。

 眠ったようにしか見えない女の胸は全く上下することなく、空気の出し入れがないことがわかる。

「永遠の眠りにつけば、永遠に幸福な夢を見られるとはね。」

 光を失っていた世界が、その色を取り戻し始めた頃、極彩色の男は十字を切って立ち去った。



 *



 与えよ。さらば与えられん。

 「新約聖書 ルカによる福音書 第六章 三八節より」

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