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第一夜 天使の梯子

 雲の合間から伸びる光芒は、天使の梯子とも呼ばれる。

 天使の梯子が地上に架けられた時、その梯子を昇るのは誰だろう。





「その花、売り物か?」

 薄闇の中、極彩色の男に近づいて行ったのは、身なりの良い紳士だった。流行に乗った、というよりは自分に似合う物を知っていて、そこからずれることなく流行を取り入れた、趣味の良い服装をしている。

 例え紳士が極彩色の男に近づいても、誰も気にも留めない。誰もが、二人のやり取りに注目することなく、通り過ぎて行く。

「こいつはね、夢を見せてくれる薔薇だ。売りモンかと言われれば違うというが、くれというなら考えなくもない。」

「夢?」

 僅かに興味が失せたように紳士は眉をひそめる。

「いやいや、ただの夢じゃない。花に火をつけるとね、花がぽうっと光るんだ。すると、段々と紫色の煙が出てくる。その煙が満ちた中、眠ると素晴らしい夢が見られるんだ。絶対に不可能な、だが至極幸せな夢に浸ることが出来る。」

「青い薔薇だけに、不可能、か。」

「ああ、そうだ。」

「面白いな、一つくれないか? 売れないと言うなら、何かと引き換えにでも?」

 その言葉を待っていたかのように、極彩色の男は嗤った。白い歯が唇の間から零れ、闇夜に切れ目が入ったようだ。傍から見ている人間がいたのなら、ぞっとするような嗤い。だが紳士は青い薔薇に見とれたままだ。

「旦那が今すぐ渡せる品の中で一番、困らないものを一つ。帽子でも、ステッキでも。何なら靴下でも。ただ、金じゃないものがよいかな。金で価値を決められるような代物ではないもんでね。」

 なりばかりでなく言う事まで妙な男だ、と紳士は首を傾げる。今、身に着けている代物など、金で買った物ばかり。なのに、金では価値が決まらないという。とは言え、そう思いながらも紳士は少々困ってしまった。

 今から花街に行くと言うのに帽子を無くすのでは格好がつかないし、服を脱ぐかもしれないのに靴下を履いていなければ、娼婦にばれてしまう。いずれにしても、彼のいない所で良い笑い草になるだろう。

 ステッキには、家の紋章が彫り込まれていて、この男が悪企みをして、それを使われては後々面倒だ。

 懐中時計は確かに今なくなっても困らないが、父親から譲られた逸品で、高々花一輪にくれてやるのは気が引ける。と、胸ポケットに入っていたハンカチが目に入った。

 真新しい絹のハンカチには、紳士の名前の頭文字が刺繍されていた。数日前、珍しいことに贈り物だといって妻に渡されたのだ。縁取りの刺繍の複雑さが僅かに手放すことを躊躇わせたが、結局紳士はそのハンカチを渡したのだ。

「これはこれは、見事な刺繍だ。こういう見事な代物こそ、この花の対価にはぴったりなんですよ。」

 極彩色の男は嬉しそうにハンカチを受け取り、花を一輪抜いて差し出す。

 紳士はそれを受け取ると花街へと向かって歩き出す。

「良い夢を。」

 その背に声がかかった。振り返れば、極彩色の男が帽子を胸に当てて礼をしている。帽子の鍔に手を当てて会釈するとまた花街へと足を向けた。花街の入口でもう一度振り返った時、極彩色はどこにも見当たらなかった。


 娼館に向かいながら、紳士は花を眺める。初めは馴染みの娼婦の手土産にでもしようかと思っていたが、こうして見ているうちに、不可能な夢とやらに興味が湧いてしまった。

 金は持っている。地位も持っている。孫も生まれた。

 後継ぎの息子とは時折意見が合わないが、息子が独り立ちしたのだと思えば頭を悩ます程ではない。

 妻は良妻賢母の見本のような女で、我が家を訪れた客が皆、礼を言付けて帰るほどに見事な采配の手腕を見せてくれる。愛人の一人や二人に目くじらを立てることもない。

 愛人も、出過ぎず、かといって大人し過ぎずに人目を引く良い女だった。観劇や食事に連れて出歩けば、美しさと機転のきいた心地よい会話を皆が褒め称える。

 自分がもう少し若ければ、野望やらを持っていたやもしれないのだが、今は満足している。何か後世に名を残す様な事を、と思わないでもないがそこに傾ける情熱は残っていない。一体、夢にまで見たい程の不可能が何か残っているだろうか。

 気が付けば、足が向かう先は花街とは反対側。馬車を拾うと、自宅への道を走らせた。

 出迎えた使用人たちは珍しいこともあるものだと思っているのだろう。それを隠しもしない表情であった。執事が紳士の妻はもう寝ていると伝えてきた。随分と早く床に就いたものだと思ったが、特に何かを伝えることなく頷きだけを返すと、寝酒を言いつけ部屋に向かった。


 ランプに火を点けると、ぼんやりと部屋が照らし出される。

 銀盆の上に置かれた花は、闇の中でも露を纏ったかのように不思議と輝いて見えた。

 葉巻の煙を燻らせながら、青い薔薇を眺めた。

 よくよく考えてみれば、花が燃えると言うのも妙な話である。騙されたかな、とも思うが、まあ、青い薔薇などという少々珍しい品物が手に入ったのだと思えば良いかと考え直した。

 葉巻が短くなったので、灰皿でかき消した。

 燐寸を一本取り出し、火を点ける。ランプの灯りを消すと、小さな火の中に青い薔薇を近づけた。

 すると、どうだろう。

 花全体にぼうっと火が宿り、薔薇は白い炎に包まれた。暗闇の中、薔薇だけが青白く漂うかの如く光る。

 なんとも幻想的な光景だった。

 白い炎がじわり、じわりと茎を黒く染め、煙が上がる。花を銀盆の上に寝かせれば、まだ瑞々しい部分との境が赤く息づくように明滅する。薔薇に宿る炎のみで照らされた暗い部屋は、うっすらと紫煙に包まれた。それまで花に見とれていた男は急に眠気を催し、寝台に潜り込む。

 しばらくは暗闇の中光る花を眺めていたが、やがて瞼の動きに合わせて暗闇が視界を覆い、ぼんやりと白く浮かぶ花が朧になっていく。

 そして、一度視界が全て黒に包まれた。


 暗闇に少しずつ光が現れる。赤や黄色、緑、青。微かな点だったそれらは、緩慢にしかし確実に闇を侵食する。まばらに無秩序に広がる色はある所で侵蝕を止め、徐々にその形を露わにしていく。そして、現れたのは美しい硝子の聖人達である。高い天井に、厳かで煌びやかな祭具の数々、聖堂の中に男は立っていた。

 突如、薄暗い聖堂の中、重厚な音楽が響き渡る。弱い光が照らし出した隣に立つのは妻になる女。若き日の男が僅かに緊張した面持ちで並ぶ。気がつけば、そこはすっかり昼間の聖堂になっていて、自分の姿を俯瞰しながらも、若い時分にもなって男はそこに在った。

 人生で最も晴々しい日の記憶だった。福音が告げられるのを聞きながら、横目で女を見た。微かに窓から入る光が、今日の為にと仕立てられた美しい衣装を浮かび上がらせる。

 ああ、これは祝福の鐘だ。

 鐘の音が響き渡る。重々しくもあり、それでいて楽しげでもある。

 色とりどりの硝子を通り抜けた光は筋になって、まるで、神の祝福が降り注ぐかのよう。博愛を説く神ですら、今日、この時ばかりは祝福の杯を二人に向かって掲げたに違いない。

 思わず嬉しくなって、隣の妻を見る。

と、いつの間にやら寝台の上に横になっていて、妻がいるはずの場所が空だった。

「ねえ、起きてくださいな。気持ちの良い朝よ。」

 声がかけられた方では、カーテンが開かれ朝日が降り注ぐ中、妻が微笑んでいた。幸せそうなその顔に、こちらも笑みを返す。おかしな話だった。この十数年、同じ寝台で朝を迎えたことなどなかったというのに。

 不思議にも思わず眺めていたが、夢だからなのか瞬きを一度する都度、少しずつ妻が年を取っていく。まだ、幼さが残る少女が、成熟した女性になり、そして見慣れた妻の顔にやがて皺が増え、髪が白くなっていった。

 二人で、こうして年をとっていくのだ。死が二人を分かつまで。

 二人で、こうして朝を迎えるのだ。生を共にする者達の日常として。

 美しい朝だった。


 目を覚ました時、男は頬が冷たいことに気が付いた。ごまかすように顔全体を覆った掌が随分と熱く感じられた。掌に移った水分が熱を奪っていく。

銀盆の上には火を燃やした痕跡はおろか、灰の一つも残っておらず、果たして昨晩は本当に青い薔薇を持って帰ったのかと疑問に思う。

 まだ夜が明けてから間もない頃で、使用人達が動き出した気配がする。寝台から起き上がると窓の外を眺めた。うっすらと朝靄がかかっていて、柔らかい太陽の光が木漏れ日になって降り注いでいる。木の葉の合間を縫うように射し込む朝日は靄を照らし出し、天上への梯子がかかったかのよう。

 美しい朝だった。

 夢の中で見た優しい朝と同じ景色。寝台の隣に妻がいないこと以外は全く同じ。もしかすると、まだ夢の中にいるのかもしれない、と思うほどに。

 あれは、夢、だった。

 あの幸せな夢が夢だったのなら、もしかすると、現実は幸せではないのだろうか、と。

 そう。男はもう少し早く気が付くべきだった、いやあるいは、気が付いても遅かったのかもしれない。

 極彩色の男は何と言っていたのか。


『絶対に不可能なだが至極、幸せな夢を見ることが出来る』

 

 微かな悪寒が男の背中を撫でる。

 その時。

 突然、寝室の扉が激しく叩かれた。

「旦那様! 奥様が!」

 慌てて妻の私室に駆け込めば、窓から朝日が差し込んだ先で、妻が倒れて冷たくなっていた。 

「昨晩、酷い頭痛がして気分が悪いとおっしゃって、旦那様がお出掛けなさった後すぐにお休みになられたのです。」

 涙ぐみながらそう教えてくれたのは、二十年近く妻の側にいた侍女だった。自分が出かけなければ、帰ってきた時に様子を伺っていればと、もしも、の後悔ばかりが頭をよぎった。


 葬儀をようやく終えた後に、侍女に手伝ってもらいながら少しずつ妻の物を片づける。宝飾品などは形見分けで娘達が持って行った。普段着は長く世話をしてくれた侍女に下げ渡した。仕立ての良いものは、妾にやった。好んで読んでいた本は、息子の想い出の品であったらしく、今では息子の本棚に並んでいる。

 家具だけが所在なさげにぽつねんと置かれた部屋を見渡す。

 何も残っていなかった。

 何も、男には残されていなかった。

 ようやく男は、自分が何かを妻に贈ったことなどなかったのだと気が付いた。宝飾品は、男の母、つまりは妻にとって姑から贈られた物や嫁ぐ際に持ってきた物ばかりがほとんど。そういえば、衣裳等は必要な時に仕立てただけだった。とても贈ったとは言えない。刺繍が得意な妻だったが、持ち物に刺繍を入れたのは男に頼まれて、名前や紋章を入れた時だけ。

 何も、男には残っていなかった。

 思えば、最近、見事な刺繍が入ったハンカチを贈られたのが、妻からの初めての贈り物だったのではないか。

 脳裏に、暗闇を割く三日月の様な笑みが浮かんだ。極彩色の男に渡したあのハンカチ。突然ハンカチを贈られて困惑したが、あれはたしか結婚してから三十年の節目の日だった、と。

 何故、己はあのハンカチを手放してしまったのか。

 男は足を縺れさせながら外へと飛び出した。道行く人が幽霊でも見たかのようにぎょっとした様子で男を見ていたが、そんなことは気にも留まらなかった。雨が多いこの街は、今日もどんよりとした曇天で、人々も黒や灰色や茶色の装いばかり。秉燭時になれば、人々の輪郭は失われ黒い影が蠢くだけの世界に変わる。夜霧が出れば辺りの景色は朧夢のように遠ざかった。

 その時だ。

 遠くの対岸にいる人の群れの中から、親友だけは見つけられる時のようにはっきりと赤い髪が見えたのだ。

 男は行く手を阻む夢魔のような黒い影を掻き分け、必死に赤色を追いかける。霧に濡れた石畳に足を滑らせ、人波に流され、ようやく男が赤い髪に追いついた時は、いつかの四つ辻に来ていた。

 相変わらず色鮮やかな服を身に纏った男は、いつかと同じく青い薔薇の花束を左手に持っている。それに対峙する男は、花を手に入れた時の紳士とは似ても似つかない有体であった。

 帽子も被らずにいる髪はそぼ濡れ、すっかり乱れてしまっている。顔は無精ひげに覆われ、タイをしていない襟もとはだらしなく開かれていた。息は荒く、目はくぼんでしかしその奥で爛々と奇異な光を宿す。

 威厳高い様は失われ、みっともなく背中を丸めて男に縋る様は、紳士ではなく乞食のようだった。

「お願いだ。金を払えと言うなら払う。だから、あのハンカチを返してくれ。代わりのものなら渡す。頼む!」

 唯一の贈り物を返してもらうよう紳士は極彩色の男に頼む。対照的な二人の男が往来に立っていても、誰も気にも留めない。誰もが、二人のやり取りに注目することなく、通り過ぎて行く。

 おやおや、と極彩色の男は、紳士を見下ろした。

「貴殿は、家名よりも、娼婦の前での矜持よりも、妻の刺繍の入ったハンカチを要らないと言ったのはないのですか?」

 紳士はぎくりと動きを止めた。全身の血が足の裏から地面に吸い取られているかと思うほどに寒気がする。極彩色の男は、そんな紳士の様子に気が付いているのかいないのか、にいっとあの晩と同じように嗤った。

 見ている人がいればぞっとするような笑みだが、その笑みを向けられた紳士は戦慄を覚える心がもう失われてしまっていたのだ。ただ、ただ、極彩色の男が嗤うのを見ているだけ。

「だから言ったでしょう? あの花は、金で価値を決められるような代物ではないと。」

 青褪めたまま動けずにいる紳士に向かって、では御機嫌よう、と仰々しく会釈をすると極彩色の男は人ごみの中に紛れて行った。我に帰った紳士は慌ててその姿を追ったが、黒い服ばかりの雑踏の中、極彩色はどこにも見つけられなかった。

 暗闇の中、瓦斯燈の光が筋になって、哀れな紳士を照らしていた。

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