三日後の僕は明るいか
1
今日もまた僕は小説を書くことができなかった。
「…………」
起きたまま十五分ほど横になり続けていたのだ。だがさすがにそろそろ起きようと思う。
不機嫌な目元をこすって、ベッドから起き上がる。
そのまま僕は体を九十度回転させ、ベッドのすぐ傍にセッティングしてある机、その上に置かれてあるパソコンをつけた。
休止状態にしてあったパソコンは、十秒と掛からずに起動する。
映し出されるのは、質素なデスクトップ画面。
「四時……」
パソコンの右下を見て時間を確認すると、15:58だった。
一昨日から規則正しい生活を心がけようと思っていたのに、これだ。夕方に目を覚ますと、こんな風に、今日一日へのやる気がまったく出てこなくなるから嫌なんだ。
こんなことならベッドなんて部屋の外へ出してしまえばいい。そうしたら睡魔に誘惑されることだってないだろう――いや、それは暴論だ。人は休む。どれだけ動きたくても動けなくなる。ベッドを外に出したって、今度は床で寝るだけだろう。
「書くか……」
それ以外にはゴミ箱と倉庫用のフォルダしかないデスクトップから、僕は、昨日まで書いていた『新しいテキスト ドキュメント』を開く。
今書いている小説の名前はすでに決まってある。けど名前のある版は、小説家になろうにのみ保存している。ファイルの名前を、そのタイトル名に変えようとは思わない。そんな一手間をかけるのは面倒くさいだけだ。どうせ量産するのだから、不必要なプロセスはできるかぎり省くべきである。
スクロールバーを下ろして一番下まで持っていき、新しい一行から文字を書き出していく。
「…………」
――と、そうしたいのだけども、次の展開がまったく思い浮かばないのでキーボードに置いたきり手は動かない。
昨日のうちに書いた文字数は7000文字。
そこまでは四時間くらいぶっ通しして書けたのだが、起承転結の承に入る段階で展開が思い浮かばなくなった。疲れたのかもしれないと一眠りしたのだが、こうして今尚手が動かないところをみると、ここで物語は行き詰まったということなのだろう。
「はぁ」
溜め息。
プロット無しでもいけるかと思ったのだが、やはり勢いだけで書いたんじゃあ、落としどころが見つからないものだ。
いや、この物語に最初から落としどころなんてなかったのだろう。
書くがままに書いて、そのままだ。
「だりぃんだよな、プロット」
昔は必ずプロットを作っていたのだが、最近では怠けて作っていない。作らなくても書けることが何度かあったから、作る工程をすっ飛ばしがちになった。そうしてプロットの作り方を忘れてしまった。
ただ単に書きたいことだけを書くようになってしまったのだ。
テーマとか、エンタメ性とか、そういう『人に読ませるための努力』を行うのが面倒になってしまったのだ。
それなのに。
「…………」
プライドは今もなお高く。
山か落ちか意味かのいずれかで納得できなければ、自分でボツにしてしまう。
無力な自分を自分で殺して、さらに無力にしてしまう。
「これもボツだな」
そう呟いて、『新しいテキスト ドキュメント』をゴミ箱へ送った。
確認のウィンドウも出ずに、ファイルは完全に削除される。
名残惜しさなんて感じない。そんなものを感じていたら、惨めさと虚しさで壊れてしまう。
不要な感情なんて捨ててしまえ。
そっちのほうが楽ってもんだ。
「ねみぃ」
僕はパソコンを休止状態にした。
それからまた寝た。
ネタがないから寝た。
2
「うっせぇわボケェッ!」
僕は、姉を蹴り倒した。
「僕だって書いてんだよッ! たくさん書いて……、おまえに読ませようと頑張ってんだよッ!」
「…………」
「ふー……ッ! ふー……ッ!」
床にへたり込む姉は、もはや僕を見ることさえなく、ただ俯くばかりだった。
まるで僕の顔をみたら、また蹴られるのではないかと察しているかのように、ただ俯くばかりだった。
その腫れものを触るかのような気遣いが、また、イラつく。
僕は地団駄を踏んだ。
「わかってんだよッ! ちゃんと計画立ててから書いたほうがいいってことくらい、わかってんだよッ! 長期的に物事を見て、ペース配分考えて、焦ることなく怠けることなく、ちょうどよく頑張ったほうが結局はいちばん早く書けるってことくらい……わかってんだよッ!」
壁を蹴った。
家が揺れる。
「それでも……もしかしたら一日で書けるかもしれねぇだろうがッ! 一気に書いて、その日のうちに投稿できるかもしれねぇだろうがッ!」
僕は。
地団駄。
地団駄。
地団駄、を、踏む。
「実際それで何作も書いてきたんだッ! 一ヶ月で十万文字も書いたこともあるんだッ! 一ヶ月で短編を七作投稿したこともあるんだ……ッ!」
僕は気付いている。
それが今の僕ではなく、過去の僕であるということを。
過去の栄光に縋っているということを。
そして過去の栄光に縋り出したら――人は終わりだということを、ちゃんとわかっている。
「なんで……ッ!」
僕は、壁を、ぶっ叩く。
姉は、怯えることすらなく、諦観するように俯いている。
「なんで書けねぇんだよ……」
僕は、小説のためにいろんなことを捨ててきた。
日常を生きていくために必要な笑顔も、社会で生きていくために必要な世間体も、幸せに生きていくための愛かなにかも、捨ててきた。
辛い状況に陥るほど、素晴らしい小説を書けると思ってきたからだ。
地獄を見てきた人にしか傑作は創れないと考えたから、地獄へ歩いて行ったんだ。
それで、これだ。
「…………ッ!」
訳のわからない病的な作品を飽きるほどボツにして、その中で日の目を見せてもいいと思えた作品ですら、大した評価はもらえない。
地獄へ行けばいくほど、読者ってやつは理解してくれなくなった。
今考えれば当然だ。
面白い作品を書きたければ、面白いものを集めればいいんだ。それなのに――つまらないものを集めて、そこから面白さを演算しようだなんて、思考回路が狂ってんじゃねぇのか。
つまらないものを読みあさっても、面白いものなんて書けねぇんだよ。
なんでそれに気付かなかったんだ、僕は。
この膨大に消費した時間は、どうやって取り返せばいいんだ。
「くそがァッ!」
結局、生温くて居心地のいい場所は、人を腐らせるだけということだ。
そんな場所で人は成長しない。
日陰で人は成長できない。
成長したいなら――嫌でも、太陽に近付かなくちゃならないのだ。
どれだけ嫌いな太陽でも、目が潰れそうな光を発していても、近付かなくちゃならないのだ。
「はぁ……はぁ……」
「…………」
平日の昼だというのに、何の罪もない姉に怒鳴り散らす僕。
八つ当たりして暴力まで振るう僕。
最低だな。
省みて、こんなに惨めなことはないな、と自嘲した。
死にたい。
3
意識すべきこと。
起承転結。
テーマ。
見せ場。
対比。
リアリティ。
緩急。
シンデレラ曲線。
感情移入・共感。
オチ。
ヘーゲルの弁証法。
綿密な心理描写。
読みやすい文体。
語感。
死ぬ瞬間。
メタファー。
主人公をいじめること。
昔の自分を正解へと導くように書くこと。
叩きのめすようにではなく誰かを救うように書くこと。
ハッピーエンド。
「ああもう……無理、無理なんだって……」
僕は、パソコンの前で頭を抱えていた。
いや頭を抱えているというより、頭を守っているというべきかもしれない。
もう、ほんとうに、目の前にあるものが怖くて怖くて仕方がないのだ。
目の前にある『途中まで』。
そこから醸し出される不安――『今日もまた書けないのではないだろうか』という疑心。
この一日が無為に終わってしまう……そう思うと、いてもたってもいられない。
何が何でも書かなければ。
「ああ、くそ、くそ……。もうダメだ。贅沢言ってらんねぇ、駄作でもいいから創らなくちゃ……」
頭の中で大事なものがどんどん崩壊していく。
今のこのクソみたいなコンディションでも書ける小説はなんだ? ――わからない。
わからないが、邪魔になるものなら何となくわかる。
まず体裁は要らない。魅力的なキャラクターを書くのもよそう。感動は……これも要らないか。
とにかく、なんでもいいから、書かなければ。
「そうだ……、作家なんて無様なもんなんだ……。作家志望となればそれはなおさらだ、わがままなんて言ってらんないんだ……っ!」
今まで理想としてきたものをことごとく捨てよう。
美しい文体なんて書けなくていい。ハッとさせられる名台詞も要らない。わかりやすさも捨てる、読者には不親切だが捨てる。描写力なんてもともとない。
捨てなきゃ書けない。
最低限の武器以外はすべて切り捨てないと――今の僕は、小説を書く事ができない。
重たすぎる。
意識すべきことが多すぎて、頭が飽和しているのだ。
だから軽くしなくちゃ。
要らないものはどんどん捨てなくちゃ。
「はぁ、もう……っ! もう、ほんと……っ!」
いっそのことこの焦燥感をも捨てられたら、どんなに気楽になれるだろうか。
くそ、くそ、なんなんだよ、この感覚。
大して可愛くもねぇ女子なんだけどミニスカ履いてるし風も強いから、なんとなくケツを追いかけてしまいに行くような感覚。
パンチラが見たくて、隣町まで尾行してしまうような感覚。
浅ましい希望が欲しくて、我を失ってしまう感覚。
「ああ」
そうか。
僕は自分の現状に気付いた。
僕は――つまり我を失っているんだな。
「…………」
自覚して、僕は立ち上がった。
パソコンを閉じる。電源をつけたまま、折りたたむ。
そして呟いた。
「僕は何がしたいんだ……?」
答えは明白だ。
何かをしたいだけである。
何もしないのが嫌だから、何かをしていたいだけである。
まるで――サボってませんよ、という言い訳を保持するためだけに書いているフリをしている状態。
つまり、体裁を取り繕っているに過ぎない。
4
もう何を書こうとしても書けないとわかった。
だから全てを諦める。
「う、ぐ、ぐ……っ」
僕は、パソコンに背を向けてベッドの中に潜り込んだ。
微かに聞こえている起動音に耳をふさいで、赤ん坊のように体を丸める。
布団に全身を包ませる。
ぎゅっ、と。
布を掴み。
ぐっ、と。
口を覆い。
現実から逃れるように目を瞑る。
「もういい、もういい、もう……いい」
ウケる書き方はぜんぶ捨てたはずだった。
冒頭でキャッチできなくてもいい。
気の利いたオチがなくてもいい。
盛り上がりどころがなくてもいい。
冗長でも、衒学的でも、つまらなくてもいい。
ただ小説の形になるものを創れればいい。
嫌われたっていい。失望されたっていい。見放されたっていい。
だから、頼むから、僕よ、書けてくれ。
書けてくれ。
「う、うぅぅ……、うぅぅぅぅ……」
――そうやって何もかもを捨てたのに、僕は書くことができなかった。
大事なものをことごとく捨てたのに書くことができなかった。
僕は、じゃあ、いったい、どうすればいいんだ。
どうすれば書けるようになるんだ。
誰か教えてくれよ。
小説の書き方を教えてくれよ。
わからない。わからない。わからない。
教えて。誰か教えて。……救ってくれ。
「ぐ、ぐ……っ!」
――などという弱音が誰にも届かないことくらいわかっている。
それが無意味なことくらい痛いほどよくわかっている。
小説は独りで創るものだ。
助かりたいのなら、自分で助かるしかない。
こんな惨めな自分を愛して、こんな虚しい境遇を肯定して、そうして嫌なことごとを認めた上で進むしかないのだ。
書けない僕を認めて、書いていくしかないのだ。
なんて苦痛だ。
僕には書くことが必要なのに、書けないことを認めなければならないだなんて、こんな苦痛があるものか。
「ああぁぁ、あぁぁぁ……ぐ。お、お、おぉ……ぐ、ぐぐ、うぅぅぅ……っ!」
布団を、ちぎるように引っ張る。
――ちぎれるわけがない。
寝転んだまま、壁を蹴る。
――自分の足が痛くなるだけだ。
情けなくなって、涙が出る。
――この涙にどんな意味がある。
誰も見つけてくれない涙にいったいどんな意味があるというのだ。そんなものを流して、いったいなにが好転するというのだ。ただ自分が惨めになるだけじゃないか。
いい加減にしろよ、僕。
もう十八歳だろ。
子供を、卒業するんだろ。
わがままを言うな。理想論で現実を語るんじゃねぇ。身の丈にあった夢だけを求めろ。できることとできないことの区別くらいつけろ、自分の力量がいかほどであるかくらい目処をつけろ。
紙幣さえ入ってない財布なんだから、欲しいものは最低限に絞り込め、でなければ下らないもので金が尽きるぞ。
アルバイトさえこなせないんだから、余計なところでのたうち回るな。
お前の時間は、苦悩のためにあるんじゃない。
苦悩に費やして、残された時間を消費するな。
もう振り返るな。
こんなところで苦しむな。
そんなもので悩むな。
どうでもいいんだ、そんな苦悩。
だから振り切れ。
書けなくってもいいだろうが。
なにも事故に遭って腕を折ったわけじゃない。不治の病を患ってパソコンの前に座れなくなったわけじゃない。諦めなければならない理由はどこにもない。
正常な思考力もある。努力するだけの時間もある。衣食住も揃っている。資料を買うだけのお金も残っている。近くには図書館が三館もある。古本屋は四店もある。自転車もある。外へ出る靴もある。
散らかった部屋の床には食べ残した容器もある。机の横には飲みきれなかったコーヒーもある。糖分を補給するための一口チョコもある。千冊に迫る本もある。一年半前から記し続けているメモ帳も三十冊以上ある。好きなバンドの初期アルバムもある。ティッシュ箱もある。水もある。布団もある。枕もある。パソコンもある。
僕の中には、これまでの僕がある。
それだけあってできないわけがないだろ。
今できないからって、これからもずっとできないなんて、そんなことありえないだろ。
こんな惨めさがずっと続くなんて、絶対にありえねぇよ。
そんなの――幸福がずっと続くのと同じくらいにありえねぇんだよ。
「…………っ」
僕は鼻を啜った。
体の緊張をほぐす。
徐々に伸ばしていく。
落ち着いていく。
「……そうだな」
今は休もう。
書けない日はある。
常に走っているランナーはいない。
常に書き続けている作家はいない。
今は休む時なんだ。
今日と、しばらくは、休んでいよう。
大丈夫さ。僕に期待してくれる人なんて数少ない。読者が少ないってことは、好きなように書いても文句を言われないってことだ。
その中でも数少ない読者は、こんな僕を好きになってくれた人たちなんだ。休んだって、許してくれるはずだ。
そう信じよう。
読者を信じよう。
「…………」
自意識過剰だったのかもしれない。
僕は大して期待されていない。
どこにでもいるつまらない奴の一人だ。
だったら、好きにしていいよな。
好きにしていいんだ。
あぁ。
常に書くなんて、そんな体裁、投げ捨てちまおう。
今はただ休もう。
休もう。
――また書くために、今日は書かないでいよう。
僕は起き上がって、パソコンの電源を落とした。
それから眠りについた。
明日が来ることを望んだ。
5
「姉貴、昨日はごめん。
怪我になってない?
…………。
ほんとうにごめん。
ごめん……。
…………。
……うん。
大丈夫。
僕はもう大丈夫だよ。
少し無理してるって気がしたから、しばらく休もうと思う。
うん。たぶん疲れてた。
そんなすぐには立ち直れないと思うんだけど、時間をかければたぶんまた書けると思う。
どれくらいかかるだろう……、三日とか、それくらいかな。
それまでは大人しくしておこうと思う。
……その間、姉貴の……なんか、手伝いとかするから。
うん。
小説も大事だけど、姉貴も大事だし。
ずっと読んできてくれてほんとうに嬉しいし……。
うん。
わかった。
うん。
ちゃんと休む。
うん。
わかった。
うん。
……うん。
…………。
…………。
うん、わかった。
じゃあ姉貴、ご飯、食べよ。
……いつもありがとう。
……ふっ。
うんっ。
いただきます」