◆第八話◆ クルーガーの心配とシャルル王子
遅くなってすみません^^;
『もしもし? もっしもーし!』
受話器を持ったまま固まるクルーガーの耳に、親友の声が響く。
『無言電話はないだろ、クルーガー。宮廷と軍本部を行き来するハメになった、哀れな俺の忙しさも考えてくれないか?』
エルネストは通常の業務に加え、このたびの護衛任務に関することまで背負わされ、執務に忙殺されているようであった。
こうやって電話をしながらも、何か書類を作成しているらしい。忙しなくタイプライターを叩く音が聞こえてくる。
「ああ、すまない」
『今日は王子がご公務から帰還される日だろ? ティアナ君の調子はどうだ』
シャルル王子が帰ってくる。当然ティアナとも顔を合わせることになるのだが、そのことがどうにもクルーガーを不安にさせていた。
思わず、忙しいと分かっているエルネストに電話してしまうほどに。
「エルネスト……シャルル王子はなぜ、わざわざ女剣士を所望されたんだ」
『さあな。恋人同士に見せかけて、敵を油断させるだのと尤もらしいことをおっしゃられているようだが、あのシャルル王子のことだし、女に関してはあまり碌な事をお考えでないんじゃないのか』
「どういう意味だ」
『どういうって……そりゃ分かるだろう? こう、いつもとはタイプの違う女と、夜を楽しみたい……的な』
クルーガーの、受話器を持つ手に俄然力が入った。
『あー、もしかして、ティアナ君のこと心配してくれてるのか?』
「あの上等兵がどうなろうと、俺の知ったことではない」
『上等兵、上等兵って、直属の部下なんだし、名前で呼んでやれよ。ティアナちゃん、とか』
「……じゃあな」
そっけなく切られ「一体何しに電話してきやがったんだ!」とエルネストは叫んだ。
§§§§§§◆§§§§§§§
「マシにはなったな」
訓練用の木剣を肩に乗せ、クルーガーはナメクジのように床に這いつくばるティアナを見下ろした。
鍛練場として使っている別館内の小ダンスホールの床で目を回す彼女に、鬼と呼ばれる男も、冷徹な仮面を被った裏で、さすがに多少の動揺を覚えていた。
これが単なる部下なら、こんな心情になることはない。
吐こうが泣こうが、心を鬼にしていられた。
だが、ティアナは特別だ。好きだと思い始めてから、時計の振り子が動くごとに、彼女が愛しく、可愛く見える気がしてならない。
今も倒れた彼女を抱き起こし、優しく介抱してやりたいという衝動を、剣の柄をあり得ないほど強く握って抑えることで精一杯だった。
「みずー……水を下さい少佐……」
まるで砂漠を何日もさまよって歩いた迷い人の如く、ティアナは涼しい顔をして見下ろしている(ように見える)クルーガーに、プルプルと手を伸ばした。
クルーガーは短く息を吐くと、ティアナを横抱きにして抱き上げ、庭へ向かった。
舞い上がった彼女の短い髪からふわりと香る石けんの香りに、思わず彼の手に力が入る。
ティアナはティアナで、自分を軽々と横抱きする彼の逞しい腕の温もりに幸福感を覚える。
至近距離で目が合うと、自然としばらくお互い見つめ合っていた。
思いは既に通じ合っているが、互いにそれを知らない。
ティアナは彼のようなエリート美青年が自分を好いているなど夢にも思わないし、クルーガーも冷たい自分に彼女が惚れるなどと想像もしていない。
ティアナは遠慮がちながらも彼の首に手を回し、身体を寄せた。
(少佐がお姫様だっこしてくれるなんて……幸せっ)
宮廷に着いてからというもの、王子の恋人であるという建前があるゆえに薄手の高級なドレスを着せてもらっている。
本物の姫と王子のようだとティアナが妄想にニンマリした瞬間、一瞬の浮遊感と噴水の冷たさが襲った。
「水だ。ありがたく飲め上等兵」
夢から一瞬で現実にかえる。
(そりゃコップに水を入れて飲ませてくれなんて言わないけど、普通女の子を噴水に投げ落とす!? そうよね、少佐は私のことなんて女だって思ってないものねっ!)
怒りに拳を握りしめたティアナが顔を上げると、クルーガーは目を見開き、一点をジッと見たまま石のように動かなかった。
「あの……少佐?」
何をそんな食い入るように見つめているのだろうと、クルーガーの視線を追って瞠目した。
「な――っ!?」
水気を含んだ薄いドレスの生地が胸の形に沿って張り付き、おそろしいほどくっきりと双丘の存在を主張させていた。
ティアナはカッと頬を紅潮させて腕で胸を隠し、クルーガーも我に返ったように目をそらした。
「あ、あの……っ、あのっ」
「いや、すまない……」
クルーガーが慌てて自分の上着を脱いで着せようとした瞬間、
「いやあ、色っぽいですね。まるで昔話で読んだ人魚のようです」
声の方へ目をやったティアナは、一瞬、本気で彫刻が喋ったかと思った。
金髪金瞳の、まるで天使と見まがうほどに美しい青年がこちらに微笑みを向けている。
無口で冷たいイメージのなクルーガーとはまた違った雰囲気の、だが、クルーガーと同じレベルの容貌を持った男だった。
(誰……?)
品はあるが、どうも腰が低く、謙虚な人物らしいという印象を受ける。
高貴な貴婦人が囲っている画家か音楽家だろうか。
だが青年は、王家のみに身につけることを許される、白地に金色の刺繍が施された衣服を着ている。
ティアナは、まさかと思った。
「お久しぶりです、シャルル王子」
「――っ!」
決定的なクルーガーの言葉に、ティアナはほとんど反射的に噴水から下りた。
(シ、シ、シャルル王子っ!? 嘘、こんな、いきなりっ)
脳内は頭上に浮かぶ雲の如く真っ白で、自分が立っているのか寝そべっているのかも定かではない。まるでグルグルと回転させられた後のように、目の前が有耶無耶に見えた。
シャルル王子は、頭の中の混乱状態をそのまま顔に貼り付けたように、間抜けな顔で立ち尽くすティアナに視線をやった。
「へぇ……君が」
彼は今、彼女に殊更の興味を抱いていた。特に、彼女の透けた胸元に。
「んー、実にいい眺めですね、ここ」
鼻先がくっつきそうなほど近くに、彼女の濡れた胸元へ顔を寄せる。クルーガーの頬がピクリと引きつった。
「は、はあ……そうですね、こ、ここのお庭は格別にお手入れが施され、本当に眺めが最高で、わたくしめも」
クルーガーは、混乱で訳の分からないことを言い始めるティアナに、乱暴に自分の上着を掛けた。
もちろん、彼女の体をこれ以上シャルル王子に見せたくなかったがゆえ。
何を一丁前に自分のもの扱いしているんだと思いつつ、クルーガーはこれ以上じっとしていられなかった。
「部下が失礼を。王子」
クルーガーの機敏な動作に、シャルル王子は白い歯をこぼしながら、ゆっくりと体勢を戻した。
スラリとした王子の体型は、貴族服を誰より着こなし、シャルル王子を一層魅力的に引き立たてる。
「いえ、構いません。それよりお久しぶりですね、クルーガー。君、少し変わりましたか?」
シャルル王子の金眼が、敏感に何かを察知して細められる。クルーガーはひどく居心地の悪さを感じた。ポーカーフェイスなど、この王子の前では意味を成さないことを知っている。この洞察眼を前に逃れられるものなど、自分を含めていないのだから。
敵に回せば、これほど厄介な人物はいない。
それでも、正直に言えるはずもなかった。
「さあ……どうでしょうか」
とぼけるクルーガーに、シャルル王子はフッと口元を綻ばせ、ティアナの背中に手を回した。
「さ、ティアナこちらへ。そのままでは風邪を召されます。……着替えなくては」
シャルル王子はそう言って、ティアナの背中に手を回す。
――「いつもとはタイプの違う女と、夜を楽しみたい……的な」
エルネストの言葉が蘇り、クルーガーは眉間の皺を深めた。