◆第七話◆ 吉と出るか凶と出るか
「んー……」
ティアナが目を開けると、目の前は白く清潔そうな天井だった。
薬品のような匂いが、鼻腔をくすぐる。
「大丈夫か、ティアナ君」
突然誰かに顔をのぞき込まれ、ギョッとして跳ね起きた。
「た、大尉……っ!」
「ああ、いいっていいって」
エルネストはベッドから起き上がろうとしたティアナを制し、上半身をベッドヘッドにもたれかけさせた。
いくつかベッドが並ぶこの部屋は、おそらく救護室なのだろう。棚には薬品が並び、壁にはうがい手洗いの啓発ポスターが貼られてあった。
「あの、大尉がここまで?」
「ああ、まあな……。それより、何かあったのか?」
なぜか気まずそうなエルネストの問いに、ティアナの脳内に、倒れる前の記憶が蘇る。
――分かったような、口を利くな!
ズキリと心が痛み、ティアナはシーツを握りしめる。
「あらティアナちゃん、お目覚め?」
聞き慣れない女性の声に、ティアナは顔を上げた。
(うわっ、凄い美人!)
思わず二度見してしまう。
「ああ、こちらは救護員のマリーヌさんだ」
「マリーヌ・コリンよ。よろしくね」
求められた握手に応じる。良い匂いがした。
艶やかな赤い唇と、プラチナブロンドの鮮やかな巻き髪が美しい。やけに胸元と足の露出の高いワンピースと白衣に身を包んだ彼女は、同性のティアナですら目のやり場に困った。
二十代後半くらいに見えるが、年齢不詳というのが正しい判断かもしれない。いずれにせよ、こんなところに置いておくには勿体ないほどのセクシー美女だった。
「ティアナちゃん、クルーガー君と何かあったの?」
マリーヌさんはベッドの脇の椅子に腰掛けると、長い脚を組んで首を傾げる。心配してくれているというのに、一瞬やけに色っぽい太ももが気になったことは言えない。
「少佐を……怒らせてしまいました」
「怒らせた? あの超クールなクルーガー君を?」
「……はい」
なにが彼をあそこまで激高させたのかは分からない。だが、何か言ってはいけないことを言ってしまったのだろうことだけは分かる。
マリーヌが驚いたようにエルネストを見たが、彼の方は何か思い当たることでもあるように、肩を竦めてみせた。
「あの……私は、間違っているでしょうか。軍人なら、誰かのために身体を張って守る覚悟は必要だと思うのです。でも、それは間違っているのでしょうか」
髪も……と消え入るような声でポツリと零す。
「ティアナちゃん……」
マリーヌが慰めるように頭を撫でてくれる。その優しい手つきに、思わず彼女に抱きつきたい衝動に駆られた。
「正しいよ、それはきっと」
エルネストだった。
背もたれのある椅子に逆向きに座り、顎を乗せてティアナを見つめる。
「でも、未熟な君が言うにはまだ早いんじゃない? それに――軍人と言えど、命を投げ出すのはあくまで最終手段だ。じゃなきゃ、そのせいで君をとても大事に思う誰かを悲しませる。俺の言ってること、分かるだろう?」
ティアナの脳裏を、心配性な家族の顔がよぎった。
エルネストは若いが、自分より遥かに多くの修羅場をくぐり抜け、現在の地位を獲得した男。
今でこそ平和だが、数年前までは何度も国境を巡る争いがあった。
血も、涙も、死も、嫌になるほど見てきただろう。
そんな彼の言葉にどれだけの重みがあるのか、ティアナにも分からないはずがなかった。
「心得ておきます、大尉」
新米で、まだまだ手助けされなければなにもできないくせに、偉そうなことを言い過ぎた。少し、自己嫌悪に陥りそうになる。
「やっちゃったものは仕方ないじゃない? さ、ティアナちゃん。これ飲んで元気出して!」
マリーヌに、グラスになみなみと注がれた謎の液体を差し出され、思考が一時停止した。
(なにこれ……)
まるで腐敗臭でも漂ってきそうなほどにおどろおどろしく、心なしか紫色の煙が漏れ出ている気がする。
絶対飲み物ではない。まして薬でも。
警鐘を鳴らす本能とは裏腹に、マリーヌの嬉しそうな笑顔に勝てずグラスを受け取ってしまった。
震える指先のせいで、中身がチャポチャポと不気味な音を立てる。
「そうだわ、良かったらエル君も……って、あら、どこ行っちゃったのかしら」
さきほどまでいたはずのエルネストの姿がどこにもない。
(部下を置いて逃げたな! あの眼鏡めっ!!)
ティアナはそう憤りながらも、マリーヌのキラキラとした瞳と目が合って苦笑いを零す。
「さあさあ、ティアナちゃん。ぐいっと! ねっ」
グラスを見つめ、ゴクリと唾を飲む。
(これを飲んで、果たして私は生還できるんだろうか……)
「さあさあっ」
「い……いただきます」
目を閉じ、一気に喉の奥まで流し込む。
「ッ――!」
「どう?」
不味すぎて、もう一度意識が飛びそうになった。いや、一瞬死んだ祖父母の顔が見えた気さえした。
苦いのか甘いのか辛いのかも分からないが、舌に電流が走ったように痺れる。
今すぐ樽一杯の水を飲みたかったが、マリーヌにニコニコ顔で感想を尋ねられ、クシャクシャの顔で辛うじて「おいひいです」と言ってのけた自分を褒めてやりたかった。
「よかった! じゃ、もう一杯どう?」
「いえあ、あの、マリーヌさん……一つお願いがあるのですが」
ティアナはまだ僅かに液体の残るグラスを両手で包み、不思議そうに首を傾げるマリーヌを見上げた。
§§§§§§◆§§§§§§§
「色男は何してても画になるな、クルーガー」
まんまとマリーヌの特性元気ジュースから逃げおおせたエルネストは、バルコニーにより掛かる、親友の背中を見つけた。
宮廷仕様の軍服をはためかせる彼は、一瞬声を掛けることが躊躇われたほど、夜の城の景色に溶け込んでいた。
「なんで黙ってなきゃいけないんだ? 救護室へ運んだのはお前だって」
「……別に言う必要もないだろう」
隣に来たエルネストに視線をやることもなく、クルーガーはただ夜風に吹かれながらぼうっと景色を見ていた。
何があったか知らないが、彼女にしたことを気にしているらしいことだけは伝わる。でなければ、この男が、女と言えど部下をご丁寧に救護室に運ぶなどするはずない。
「そうかよ。ま、お前がキレた理由は、分からんでもないけどな」
エルネストの方を見なくとも、クルーガーには彼がどんな表情をしているのか分かった。きっと、何もかも見透かしたような、少し咎めるような目をしているのだろう。
クルーガーは、女たちを一瞬で落とす美しい瞳を閉じ、またゆっくりと開いた。
「あいつは……同じ目をしている」
「だけじゃないだろ。同じ髪色、同じ髪型。ちょっと芯の強そうなところも。顔は全然違うが、雰囲気はそっくりだ」
「何が言いたい」
煙草に火をつけ、煙を吐き出すエルネストに鋭い視線を送った。
「髪型のことまで言うことはないだろう」
「……」
「なぁクルーガー……やっぱお前、まだ三年前のこと引きずってんのか?」
その言葉をスイッチに、鮮血の温もりと、満足げな死に顔がフラッシュバックする。
クルーガーは、真鍮の懐中時計を握りしめた。
「いい加減、立ち直れ。今度どうだ? この間知り合った、いい女紹介してやるからさ。パーッと遊ぼうぜ! ヤることやったらスッキリするって」
「一人で行ってろ」
呆れたように息を吐き、付き合ってられないとクルーガーは手すりから離れ、再び足を止めた。
「エルネスト。お前まで、剣士官を辞める必要はなかった」
風は強く吹いていたが、はっきりと耳に届いた。
「うぬぼれるな。別にお前の為じゃない」
「そうか……」
そう言い残し、クルーガーは静かに城内へ戻っていった。
そうは言ったが、実際は違う。
三年前のあのときのクルーガーを、一人でなど放ってはおけなかった。一人にすれば、たちまちどこかへ消えてしまいそうで。
「ったく……。ティアナ君の存在が、吉と出るか凶と出るか」
できれば良い方へ向かえばと、エルネストは眼鏡を押し上げながら煙草の煙を吐いた。
§§§§§§◆§§§§§§§
朝。
夜中別館の外にいたクルーガーは、明るくなってから部屋に戻った。
部下の彼女と顔を合わせたくなかったというのが本音。
傷つけてしまっただろう。
自分にすっかり怯え、王子の護衛に対してもやる気をなくしているかもしれない。
そう思いながらクルーガーは自分の部屋の扉を開け、目をむいた。
あれだけ散らかっていたはずの衣類は全てすっかり片付き、壊したチェストの破片も残っていない。
部屋は、まるで磨き上げたかのように耀き、チリ一つ落ちていなかった。
侍女は入れないよう頼んである。
なら、これは――
「少佐! 昨日は失礼致しました、今日からさっそくお手合わせ願えませんか!」
ティアナの元気な声に振り返り、クルーガーは息を呑んだ。
「その髪……っ」
ティアナはポニーテールをしていた長い髪を、驚くほどばっさりと切っていた。
顎の下で短く切りそろえ、昨日までとはまるで別人のようだ。
クルーガーにまじまじと見つめられ、ティアナは頬を染めて自分の頭を撫でる。
「し、ショートは初めてですが、少しでも身軽になろうと……。あの、私強くなりたいんです。王子をお守りすると決めた以上。今の私では、力不足だと分かっています。だから……――お願いします!」
クルーガーは、頭を下げるティアナの姿を食い入るように見つめた。
昨日の彼女に対しての言動は、明らかに自分の方に問題があった。
彼女には何の罪もないのに、思い出したくないことを思い出させられ、胸の傷を抉られた怒りをぶつけてしまった。
なのに彼女はそんな自分に対し、王子を守るために強くなりたいからと、女にとって大事だろう髪を切り、頭を垂れる。
彼女はとても健気で優しく、そして強い――。そう思った。
それに比べて自分は……。
「……昨日はすまなかった。髪のことまで……言い過ぎたな」
ティアナの華奢な肩が小さく跳ねる。
まさか、上官たる、冷徹と言われる自分に謝られるとは思っていなかったのだろう。上げた顔は意外そうにこちらを見つめていた。
「何の慰めにもならんかもしれんが、俺は今の髪型の方が、お前に似合っていると思う」
心なしか、ティアナの頬が桃色に染まった。
髪を短くしたことで、彼女の愛らしい瞳が一層引き立ったのは事実。フェイスラインも綺麗で、ほっそりとした白い首に目を奪われた。
(何をまじまじと観察しているんだ、俺は……。ただの部下だろう)
「あの、ありがとうございます。嬉しいです」
ティアナにはにかんだようにニコリと微笑まれ、トクンと胸が高鳴る。
ほとんど反射的に目をそらした。
昨日までのように、彼女と目が合わせられない。
恋に落ちてしまった――
その自覚はあった。
だが、相手は部下であり、今はとても重要な任務中。
それより何より、鬼だと、冷徹だと言われている自分が片思い中など、他の人間には絶対に知られたくなかった。
誰より当の本人には、絶対。
「行くぞ上等兵、貴様の腕前を見てやる」
燃ゆる恋の炎をひた隠し、いつものポーカーフェイスを彼女に向けた。