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◆第四話◆ 上官様の靴の跡


 鬼士官の話は、ティアナも士官学校時代に聞いたことがある。

 容姿こそ美しいが、いつも仮面のように表情を変えることなく、相手を思いやることもなく、氷のような心をもつ男だと。

 だがティアナが、自分のピンチを救ってくれた勇敢で秀麗な男が、そんな人非人にんぴにんだとは思いもよらない。


(かぁっこいい……!)


 ティアナの目には、 彼の周囲に花が舞い、キラキラと耀いて見える。

 一目惚れという現象を、初恋という感覚を、ティアナは生まれて初めてその胸に覚えていた。

 胸の鼓動が、痛いくらい強い。


 だが彼は、目の前にいるテロリストに襲われて気を失った女兵士にも、彼女を庇おうとしたティアナにも言葉を投げかけることなく、まるで何事もなかったかのように視線を前に戻した。


 彼は自分たちのことになど、毛ほども興味がないらしい。向けられた大きな背中が、そう物語っている。

 芽生えた恋の始まりにしては、かなり物寂しいものだった。


「ティ~ア~ナ君」


 肩の辺りで聞こえた声に、ゾワッとして振り返る。視界が眼鏡一色になるほど、エルネストが傍にいた。


「大尉っ!」


 真っ赤な顔で仰け反ろうとして、グッと腕を掴まれ、額を押しつけられた。


「逃がさないって言ったよねぇ。さ、良い子は大人の言うことをちゃんと聞きましょうねぇ」

「ち……近いですったら……っ」

「分かってる分かってる」


 目当ての女剣士が見つかったからなのか、エルネストは鼻歌を歌いながらティアナの腕を引いて歩き出す。


「さ、閣下と王子が首を長くしてお待ちだ」


(ど、どうしようっ! 本当に!? 王子の護衛を……!?)


 上流貴族の集う、美しい宮殿への憧れはある。一度は行ってみたいと思ったいたが、こんな形での登城は嫌だ。


 また彼が助けてくれるのではないか。

 そう思って士官の方を見たが、彼は全く感情のこもっていない瞳をあさっての方向へ向けるだけだった。


「あの、大尉……?」

「大丈夫。君一人じゃない。ちゃんと補佐役の上官が付く」

「補佐役の上官?」

「そう。だからこれから直属上官は、俺じゃなくてその人になる。あとでちゃんと紹介するよ。それに、給与も大幅増予定」

「やった! 借金前倒しで返せる! じゃなくて、……あの方をご存じですか」


 自分を引っ張るエルネストを無理矢理止め、静かに佇む士官を見やる。

 エルネストは意外に透明感のある瞳で、ティアナの視線の先を追い、どこか嘲るようにティアナを見下ろした。


「ああ、知ってるよ。というか、むしろ知らないの? 新兵とはいえ、君、もしかしてモグリ?」


 知っていたら聞くものか。そう思ったが、そこは上下関係。ぐっと押し黙る。


「すみません。友達少なくて」

「へぇ、可哀想に」


 大して哀れんでもいない棒読み口調に、ティアナは余計グサリと心に突き刺さるものがあった。

 確かに多くはないが。


「彼はね、実は――」


「少佐っ!」


 息を切らして士官の元へ駆け寄って来た七、八名の兵士が彼の周囲を取り囲み、恭しく、定規で測ったような正しい角度で敬礼する。


「少佐!?」


 ティアナは瞠目した。その士官は、肌は潤いに満ちて瞳の白目は真珠のように耀いている。二十代半ばにも満たないように見えるというのに、彼は九百名以上で編成される大隊の、指揮権限を有するというのだ。

 彼の若さでそこまでたどり着くことなど、戦場でどのような成果を挙げようとまずあり得ない。


「あの顔立ち、身長で、さらには高給取りの士官。まあモテるモテる。もしかしてティアナ君も、もう惚れちゃってたり?」


 エルネストの眼鏡が嫌に光る。


「ま、まさか」

「そう? 超優良物件なのに。あんまりおすすめはしないけどね」


 ティアナがエルネストの言葉に首を傾げている内に、周囲には冷涼とした空気が満ちていた。

 まるで即席の軍事裁判所にでもなったかのように緊迫し、兵士らは脂汗まみれの顔を硬直させ、ゴクリと喉を鳴らす。


「何度同じ事を言わせる。これは誰の失態かと聞いているんだ」


 其の少佐の声は、かすみのかかったように儚く、凜と筋の通った綺麗な声だった。

 例えるなら、夜の海のさざ波のような。

 だが、そんな美しい声がまるで世界の終わりを宣告したかのように、周囲の兵士らは顔色を失っていく。

 テロリストを二名も逃がしたなど、不注意というには重すぎる。


「いえ、あ、あの……」

「あの、何だ」


 互いに目くばせをし、気まずそうに押し黙る。少佐の兵士らを見るその表情は、周囲に霜が降りるのではと思うほどに冷たかった。


「答えられないのか」


 少佐の涼しげな瞳が、スッと細められる。

 ティアナはその視線が自分に向いているわけでもないのに、ゾワリと背中に悪寒を感じた。

 

「……ならいい」


 彼は眉一つ動かさず、一番傍にいた兵士の、胸の軍章を引きちぎった。


「――!」


 兵士らの顔色がサッと変わる。


「あらあら……」とエルネスト。


 ティアナも渋い顔をした。


「酷い。あんなことしたら、服が傷みます。繕う側の人間のことを全く配慮していません」

「い、いやいやティアナ君……そういう問題?」


 エルネストが困惑気味に、ポリポリと頬を掻く。


「ならどういう問題なんです?」

「あれ……クビって意味だよ。解雇。しかも数ある解雇の中で、もっとも不名誉な」

「え……」


 ありゃ再就職にも響くぞと、いうエルネストの言葉などもう耳には入らない。

 生活の糧である仕事をこうもあっさり奪う彼の所業に、ティアナはただただショックを受けた。

 自分がもしあんなことをされたら、本気で家族が路頭に迷う。


 それでも彼は、何とも思わないのだろう。

 二人目、三人目と、軍章をちぎり取っては捨てていく。まるで草でもむしるかのように、そこに重みなどない。


 五人目の兵士の軍章を引きちぎろうと手を伸ばすと、兵士は堪えきれなくなったように叫んだ。


「オーギュスト少尉、なぜ何も仰られないのです! 元はと言えばあなたが!」


 名指しされた小太りの男は、ビクリと丸みを帯びた肩を上げる。


「だ、黙れ! 上官たる私を売るのか貴様っ!」


 焦ったように、兵士の胸ぐらを掴みあげた。


「俺は何も悪くない! お前らがっ」


「オーギュスト。今すぐ荷物をまとめて軍から出て行け」

「……っ、し、少佐殿……誤解です。これにはわけがありまして」


 自分よりいくつも歳下の上官相手に、小太りの男は必死に下手な笑顔で弁明する。


「私は全くの無実で、こいつらが勝手に酒宴など始めて。私は……止めたんですよ、ええ」

「オーギュスト。二度は言わん」


そう言って、少尉の胸の軍章をちぎった。

 切れた服の、黒い布きれが空しく宙を舞う。


 それだけ言い残して踵を返す少佐に、軍章を引きちぎられた他の兵士らが声を上げた。


「し、少佐っ、あの、俺たちは……」

「まさか本当に解雇……じゃないですよね」


 青年少佐はゆっくりと振り返る。


「息に酒の混じった貴様らも同罪なのだろう? 恨むなら、貴様らを庇って真っ先に名乗り出てくれなかったその男を恨むがいい」 


 それだけ言い残すと、青年少佐は軍服を翻して歩みを始める。軍章を引きちぎられた兵士らはがっくりと膝をついた。


(お、鬼……っ! 鬼がいるっ)


 彼らは職務中にとんでもない過ちを犯したとは言え、その審判の下し方がこすい上に容赦ない。


 彼を好きになったことは忘れよう。

 関わりを持たずに生きるのが最善。家族平和のためだと、本能が警鐘を鳴らしている気がする。


 だがそんなティアナの思いとは裏腹に、心で鬼と呼んだ少佐が目の前で足を止めた。


(な、なんで……?)


 びくびくしつつ見上げた彼は、やはり絶世の美男だった。睫毛の一本一本に至るまで、精巧に作られた美術品のよう。

 忘れようとした恋心が、油が注がれたように熱く再燃する。


「ティアナ・アンダーソンか」


 トクンと胸が鳴った。

 自分の名前だというのに、あまりに意外なことに、ティアナは一瞬何を言われているのか理解できなかった。


「…………――え? どうして私の名ま」


 言い終わらない内に思い切り足払いされ、ふわっと身体が宙に浮く。


(え? ええええ――!?)


 迫り来る地面を前に、なすすべなどない。

 ドサリと前のめりに倒れ、草の香りが鼻腔を満たしたかと思うと、背中を踏みつけられる感覚に目を開いた。


(え、何!? 何なの!? 何が起こってるの!?)


 地面に生えている雑草が、なぜ自分の鼻をくすぐっているのか。

 パニックでもう訳が分からない。

 必死で首をひねり、自分の背中を踏みつける士官を懸命に見上げた。

 その容姿端麗な男の、惚れ惚れするような双眸の冷たいこと。


「あ、あなたは……一体」


 一瞬、梢が強くざわめく。

 冷徹な上官様は、自分を踏みつけながら泰然としていた。


「クルーガー・アイフィールド。このたび、エルネストに代わって貴様の直属上官となった。その皺の少なそうな脳みそに、しっかり刻みつけておけ」


 関わるまいと誓った鬼が初恋相手、兼、新しい直属上官。


(いいいやああああ! っていうか、新品の軍服に靴跡がぁ――っ)


 状況も相まって、もはや絶望しか感じられなかった。

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