第09話 夜に咲く花の見方
温室へ行く夜、公爵は剣を持っていなかった。
玄関へ迎えに来た彼を見て、私は最初にそのことへ気づいた。
濃い緑の上着を着ている。肩に銀の飾りもない。
私と叔母へ挨拶をした後、彼は少し言葉を止めた。
「そのお色は」
私は自分の袖を見た。
薄い緑だった。
公爵の上着より明るく、春の新しい葉のような色をしていた。
「似てしまいましたね」
私が言うと、公爵は首を振った。
「よくお似合いです、と申し上げるつもりでした」
叔母が、扇を開いた。
私は返事を探した。
「ありがとうございます」
それだけを言うのに、いつもの倍の時間がかかった。
馬車には、叔母が先に乗った。
私は公爵の手を借りた。
前よりも自然にできたつもりだったが、顔を上げたら、彼も私の手を見ていた。
二人で同時に目を逸らした。
叔母は、馬車の中で景色を見ていた。
まだ出発していないので、叔母の家の塀だった。
*
王立庭園の温室は、夜になると硝子の宮殿に見えた。
内側から淡い灯りが透け、入口の蔓が黒い線を描いていた。
湿った暖かな空気が、扉を開けるたびに外へ流れる。
入口で案内の人が、小さな紙を配っていた。
今夜咲く花の場所を示したものだった。
「月の盃は、奥の池のそばです。まだ開ききっておりませんので、どうぞごゆっくり」
私は紙を見た。
大きな葉の陰に、一つだけ白い花が描かれている。
叔母は、入口の鉢植えのところで知人を見つけた。
本当に偶然だったのかは、分からない。
相手のご婦人が、あら、と言うより先に、叔母が名前を呼んだからだ。
「少し、お話ししていてもよろしい?」
私はうなずいた。
公爵も礼をした。
「奥の池まで、ご案内してまいります」
「ええ。ゆっくり、どうぞ」
叔母の歩く速さは、予告どおり遅くなった。
私たちは、二人で硝子の下へ入った。
*
温室の道は、思ったより狭かった。
両側から大きな葉が張り出している。
公爵が一枚を手で持ち上げ、私を通した。
「頭を、お気をつけて」
言われた私より、彼の方が気をつけた方がよさそうだった。
背の高い人は、温室で少し不便らしい。
「今日は、剣がなくてよかったですね」
私が言うと、公爵は腰へ目を落とした。
「以前、枝に引っかけました」
「ここで?」
「式典の視察で。しばらく、植木から離れられなくなって」
私は笑ってしまった。
公爵は大きな葉を離した。
「娘には、まだ話していません」
「捕虜の役が増えますから?」
「植物にも捕まる、と知られます」
私は笑いながら歩いた。
いつもの音楽室ではない。
鍵盤も、楽譜も、台本もない。
それでも、話すことがあった。
池のそばには、すでに何人か人がいた。
白い蕾が、水面へ傾いていた。
まだ、固く閉じている。
私たちは少し離れた椅子へ座った。
隣との間に、大きな鉢が一つ置かれている。人の気配はあるが、言葉までは混ざらなかった。
「咲くまで、時間がかかるのですね」
私が言うと、公爵は案内の紙を見た。
「日が沈んで、一時間ほど、とあります」
「今、どれくらいでしょう」
彼は時計を出しかけ、やめた。
「もう少し、待ちましょう」
私はうなずいた。
花を見るために座ったのに、彼の方を見ていた。
「今日、お誘いくださったのは」
聞こうとして、声が止まった。
公爵が、私へ向き直った。
「はい」
私は膝の上で指を重ねた。
なぜ、と聞くのはずるい気がした。
彼は会いたいと言ってくれた。
それなのに、もう一度同じことを言わせようとしている。
「……嬉しかったです」
違う言葉を選んだ。
公爵は、すぐには返事をしなかった。
横顔よりも正面の方が、優しい目をしていると気づいた。
「あなたが、返事に書いてくださった一行を」
彼が言った。
「何度も読みました」
私は、顔が熱くなるのを感じた。
温室のせいには、できなかった。
「短いお手紙でしたのに」
「長さの問題では、ありませんでした」
公爵の手が、椅子の上にあった。
私の手から、少し離れている。
私はそこを見て、それから顔を上げた。
「私、娘さんと仲良くしているから、よくしていただいているのだと」
彼は首を振った。
「きっかけは、娘でした」
私はうなずいた。
「ですが、フリーダは、あなたが海の探偵を読んでいることを知らない」
思わず笑ってしまった。
公爵も、少し笑った。
「曲を考えている時、口元が動くことも。笑って済ませようとして、悲しい話を短くすることも」
私は笑うのをやめた。
「私が、知りました」
彼の声は低く、よく聞こえた。
温室には沢山の人がいたのに、その言葉だけが私のところへ来た。
「もっと、知りたいと思っています」
私は彼を見た。
娘さんのために、よい母親を探している顔ではなかった。
返事を待つ、一人の男の顔だった。
私は、椅子の上で手を動かした。
彼の手のすぐ隣へ置いた。
「私も」
それから、少し息をした。
「軍服を着ている時とは違うあなたを、もっと知りたいです」
彼の指が、私の指に触れた。
そのまま、掌を重ねた。
どちらからともなく、手を繋いだ。
私は白い蕾を見た。
花はまだ、開いていなかった。
待つ時間が、こんなに早く過ぎるとは知らなかった。
*
花が動いたのは、その少し後だった。
先に気づいた誰かが、小さく声を上げた。
白い花弁の端が、ゆっくり外へ向いていた。
私たちは立ち上がった。
手は、まだ繋いでいた。
人の輪の端へ行くと、甘い香りがした。
菓子のようではなく、雨の後の果物に似ている。
白い花が、一枚ずつ広がった。
急がない。
拍手を求めない。
ただ、自分の時間で咲いている。
「綺麗」
私は呟いた。
公爵が、隣でうなずいた。
水面に、白い花がもう一つあった。
その隣に、私たちの姿が揺れていた。
薄緑の服と、濃い緑の上着。
繋いだ手は、水の中では少し曖昧だった。
私は、公爵を見た。
彼は花を見ていた。
横顔に、灯りが当たっていた。
「どうかなさいましたか」
見られていることに気づいて、彼が尋ねた。
私は首を振った。
「花を見ているお顔も、初めてだと思って」
公爵は一度まばたきをした。
それから、笑った。
「私も、あなたを見ていました」
私は、目を伏せた。
この人は時々、逃げ道のないことを言う。
そのくせ、自分の耳も赤くなる。
*
温室を出ると、夜風が冷たかった。
叔母は入口の知人と、まだ話していた。
話題は、今夜の花から十年前の帽子へ移っていた。
随分と遠い旅をしたらしかった。
公爵が、私の肩へ薄い外套をかけた。
私は礼を言い、襟を押さえた。
彼の匂いがする、と思ってしまった。
「お寒くありませんか」
「大丈夫です」
実際には、手だけが少し寒かった。
繋いでいたものを離したからだと、自分で分かっていた。
馬車までの短い道で、公爵が歩調を緩めた。
「来月の演奏会の後も、お誘いしてよいでしょうか」
私は顔を向けた。
「まだ、演奏しておりません」
「演奏の出来で、決めるつもりはありません」
私は笑った。
胸の奥が、急に軽くなった。
「では、ぜひ」
彼がうなずいた。
その顔を見て、私はもう一つ言いたくなった。
「私からも、お誘いしてよろしいですか」
公爵の足が止まった。
「もちろんです」
返事が早かった。
私は、初めて少しだけ彼を困らせる側に立った気がした。
「では、第九巻をお返しいただく時に」
公爵が笑った。
「急いで読みます」
「急ぐと、犯人を見落とします」
彼は首を振った。
「今回は、見落としても構いません」
私は何も返せなくなった。
夜風が冷たくて、助かった。
*
叔母と二人になった馬車の中で、私は窓を見ていた。
温室の灯りが、木々の向こうへ小さくなる。
「花は、綺麗だった?」
叔母が聞いた。
「ええ」
「よかったこと」
それ以上は、尋ねなかった。
私は、まだ少し温かい掌を重ねた。
誰かの好きなものを知ること。
その人に、自分の好きなものを見せること。
何もできていない自分でも、次に会いたいと言ってもらうこと。
嬉しいことが沢山あると、かえって静かになるのだと知った。
帰ったら、曲の続きを弾こう。
今夜の音を、そのまま使うことはできないけれど。
夜が明けるところなら、少し分かる気がした。




