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婚約解消された令嬢は、強面公爵様の最愛の妻になりました  作者: 星舟能空


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第35話 今夜は帰しません

 フリーダを寝かせたあと、私たちは廊下へ出た。


 部屋の中からは、もう声がしなかった。


 父親が扉を静かに閉める。


 その手に、結婚指輪が光った。


 私はそれを見ていた。


「疲れたか」


 彼が聞いた。


「少し」


 正直に答えた。


 笑って、挨拶をして、踊って、何度も嬉しくなった一日だった。足は少し痛かったし、髪の留め具も重く感じ始めていた。


 でも、眠りたいとは、まだ思わなかった。


「私もだ」


 彼が言った。


「箱を、かなり運んだ」


「花婿のお仕事でした」


「船を湖から運ぶよりは、楽だった」


 私は笑った。


 彼が手を差し出す。


 私は取った。


 廊下を、二人で歩いた。


 いつもの玄関へ向かわないことが、不思議だった。


     ◇


 部屋へ入ると、暖炉に小さな火があった。


 窓のそばに長椅子があり、机には水と杯が置いてある。私の荷物も、すでに運ばれていた。


 彼の部屋へ、私が来た。


 そして今夜から、二人の部屋になる。


 私は敷物の端で立ち止まった。


 彼も止まった。


 何度も二人きりになったのに、今はどこへ手を置けばよいのか分からなかった。


「その衣装は、一人で脱げるのか」


 彼が聞いた。


 私は顔を上げた。


「……お手伝いの方を、お願いするつもりでした」


「そうか」


 彼は少し黙った。


 私も黙った。


「留め具が、背中なので」


 私は付け足した。


「私には、難しいだろうか」


 彼が聞いた。


 頬が熱くなった。


「分かりません」


 私は、ゆっくり背を向けた。


 髪を片側へ寄せる。


 彼の指が、首の後ろに触れた。


 留め具を一つ外すまでに、ずいぶん時間がかかった。


「小さいな」


「花嫁衣装ですから」


「もう少し、大きくてもよいと思う」


 私は笑いそうになった。


 次の留め具が外れる。


 肩の力が、少し抜けた。


 彼の指が肌に触れるたび、笑いとは別の息が出そうになった。


 私は前を向いたまま、目を閉じた。


「サビーヌ」


 呼ばれた。


「はい」


「今夜、あなたがここにいる」


 私は、少しだけ振り向いた。


 彼がすぐ近くにいた。


「はい」


 同じ返事しかできなかった。


 それでも、彼には伝わったようだった。


 肩へ口づけられた。


 私は彼の腕へ手を置いた。


     ◇


 着替えを済ませるあいだ、彼は窓辺で待っていた。


 私も彼も、ようやく重い衣装から解放された。


 私の髪はほどけ、彼の襟元も開いている。


 その姿を見て、棚の中の本を思い出した。


 盗賊伯爵の白いシャツ。


 実物は、挿絵よりも困る。


 私は目を逸らした。


 彼がこちらへ来た。


「寒いか」


「いいえ」


「では、なぜそちらを向く」


「見ていると、落ち着かないので」


 言うと、彼の顔が変わった。


 私は逃げずに、見返した。


 彼の腕が腰へ回る。


「私も、落ち着かない」


 声が低かった。


 私は彼の胸へ手を置いた。


 そこに、鼓動があった。


 落ち着いて見える人の身体も、私の身体と同じように、今夜を待っていた。


 そのことが、嬉しかった。


「踊っているときの、答えです」


 私は言った。


 彼が私を見た。


「何を考えていたか」


「ああ」


「夫、と、思いました」


 彼の目が、柔らかくなった。


「声に出して、呼んでみたくなりました」


「今は?」


 私は、彼の上着のない胸に額を寄せた。


「私の、夫です」


 抱きしめられた。


 息が詰まるほどではなく、けれど、逃がしたくないのだと分かる強さだった。


 私は顔を上げた。


 口づけが降りてきた。


 自分から、その続きを求めた。


 彼の指が髪を梳き、頬を包む。唇が離れたあとも、私は彼の首へ腕を回したままだった。


「今夜は、帰しません」


 彼が言った。


 私は笑った。


「帰るところへ、来ました」


 その言葉を聞いた彼が、もう一度、私に口づけた。


 今度は、さっきより長かった。


     ◇


 暖炉の火が小さくなった頃、私は彼の隣で目を開けた。


 灯りは落ちていた。


 窓の外の夜が、薄く部屋へ入っている。


 彼の腕が私を包み、手のひらが背中にあった。


 私は少し動いた。


 彼も目を開けた。


「眠れないか」


「少し、喉が渇きました」


 彼は身体を起こし、水を取ってくれた。


 私は杯を受け取り、ゆっくり飲んだ。


 何でもない仕草なのに、ひどく親しかった。


 夜の途中で同じ部屋にいて、水を分ける。


 そのことを、私は昼間には考えていなかった。


 彼が杯を戻し、私の隣へ戻る。


 私は彼の肩へ頬を寄せた。


「長椅子へ、行かなくてよかったですね」


 小声で言うと、彼が笑った。


「娘には、言い分があるだろうな」


「明日は、どこへ座るのでしょう」


「朝食の椅子は、三つある」


「それなら、安心です」


 私は目を閉じた。


 彼の指が、私の手を探した。


 握ると、指輪が触れ合った。


「好きだ、サビーヌ」


 彼が言った。


 私は、その声を近くで聞いた。


「私も、好きです」


 返事をすると、彼の唇が髪に触れた。


 やがて彼の呼吸がゆっくりになった。


 私はしばらく、それを聴いていた。


 曲にはしなかった。


 今夜は、ただ、覚えていたかった。


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